いつもの店なのに、いつも通りじゃない
十九時の五分前。
俺は、いつもの駅前で蓮を待っていた。
改札を出て少し歩いた先にある柱の横。人の流れを邪魔せず、駅前の居酒屋にも近い。特に相談して決めたわけでもないのに、いつの間にか俺たちの定位置になっていた。
金曜の夜も、ここで待ち合わせた。
あの時の俺は百七十六センチ。会社帰りのシャツにスラックス姿で、たぶんスマホでも眺めながら適当に立っていたはずだ。
今日は百四十八センチ。短く切った黒髪に、白いトップスと黒いパンツ。
同じ人間が同じ場所に立っているとは、自分でもなかなか思えない。
「……見つけられんのかな」
写真は送ってあるし、蓮は女になった俺を一度直接見ている。ただ、あの時は家の中だった上に、髪も腰近くまであった。今はその髪まで短くなっている。
それに、そもそも俺の方から蓮を探そうにも、人混みでは前がろくに見えない。少し背伸びしたところで、目に入るのは肩や後頭部ばかりだった。
「ほんと不便だな、これ」
柱の脇へ少し身体をずらし、人の流れを覗き込んだところで、背後から名前を呼ばれた。
「悠真」
振り返ると、蓮がいた。
「おう」
いつもの顔に、仕事帰りらしいシャツ姿。身長だって当然、金曜と変わらず百七十七センチある。
近くで見ると、やっぱり高い。
「……でけえな、お前」
「それもう二回目だぞ」
「家で見るのと外で見るのはまた違うんだよ。周りもでかいし」
「俺は一ミリも変わってねえよ」
「知ってる」
蓮は笑い、それから改めて俺を見た。
視線が顔のあたりで一瞬止まる。
「何だよ」
「いや。髪、実物で見るの初めてだなと思って」
「ああ。写真は送ったけどな」
俺が横髪に触れると、蓮はもう一度俺を見た。
写真を送った時もそうだった。返事が来るまで、こいつにしては妙に時間がかかった。
「……似合ってる」
「それも写真の時に聞いた」
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
「別に何も言わなくていいだろ」
「お前が『何だよ』って聞いたんだろ」
「ああ、そうだった」
くだらないやり取りに、少しだけ安心する。
蓮が「行くか」と歩き出したので俺も隣へ並んだが、数十メートルも進まないうちに、その安心とは別の問題が出てきた。
「蓮。速い」
「え?」
「歩くの」
そこでようやく気づいたらしく、蓮が俺の足元を見る。
「あ」
「お前もかよ。日曜に千尋も同じことやったぞ」
「悪い。忘れてた」
「忘れんな。今の俺、百四十八なんだからな」
「自分から普通に数字言えるようになったじゃん」
「慣れたわけじゃねえよ」
蓮が少し歩調を落とし、俺がその横へ追いつく。
以前なら何も考える必要なんてなかった。身長差は一センチ。歩幅も大して変わらず、どちらかが相手へ合わせているなんて意識したこともない。
今は、俺が以前より細かく足を動かし、蓮が以前よりゆっくり歩く。
たったそれだけの変化なのに、十年以上当たり前だった「並んで歩く」ということまで、少し違うものになっていた。
*
向かったのは、本当にいつもの店だった。
駅から五分ほど歩いたところにある、ごく普通の居酒屋。特別安いわけでも、何かの専門店というわけでもない。ただ席がそこそこ広く、料理も外れが少ないので、社会人になってから蓮とは何十回も使っている。
引き戸を開けると、聞き慣れた「いらっしゃいませー」という声が飛んできた。
出てきたのは、俺たちの顔を何度も見ている二十代後半くらいの店員だった。
店員はまず蓮を見て、その隣にいる俺を見る。
「二名様ですね」
「はい」
蓮が答えると、店員は店内を確認しながら笑った。
「いつもの方、奥空いてますよ。あれ、今日はいつものお連れさんじゃないんですね」
俺と蓮の足が同時に止まった。
「あー……」
蓮が俺を見る。
店員も俺を見る。
仕方なく、俺は自分を指した。
「香坂です」
「え?」
「いつもこいつと来てた香坂です」
店員の顔が固まる。
「……え?」
ここ数日で、この反応もだいぶ見慣れてきた。
蓮が横から助け舟を出す。
「ニュースでたまにやってる転性現象。あれ」
「あっ」
店員の顔に理解が浮かび、直後にもう一度俺をまじまじと見た。
「え、マジであるんすね……」
「俺も土曜まで同じこと思ってました」
素で返すと、店員は「あ、すみません」と慌てて頭を下げた。
「いや、いいですよ。普通そうなると思うんで」
俺だって逆の立場なら絶対に見る。
むしろ、数日前まで普通に来店していた百七十六センチの男が、いきなり百四十八センチの女になって現れて、即座に「ああ香坂さんですね」と処理された方が怖い。
いつもの奥の席へ案内され、腰を下ろす。
すると蓮が、さっそく笑いを堪えた顔で口を開いた。
「『今日はいつものお連れさんじゃないんですね』」
「うるせえ」
「完全に知らない女連れてきた扱いだったな」
「お前だって土曜、玄関で『誰?』って言っただろ」
「言った」
「なら笑う資格ねえよ」
「いや、自分の時と他人の時は別だろ」
「最低だなお前」
そう言いながら、俺も少し笑ってしまった。
いつもの店で、いつもの席に蓮と座っている。
俺たちの側からすれば、それだけだ。
でも周囲から見れば、蓮が今まで連れてきていた男友達は消えて、代わりに知らない女が座っている。
家族や友人の前だけでは分からなかった変化が、また一つ外側から見えてきた気がした。
*
注文も最初はいつもの癖が出た。
「生二つ」
蓮が店員に告げ、俺も何も考えず頷いた。
ところが店員が離れるなり、蓮が俺を見た。
「お前、飲んで大丈夫なの?」
「何が」
「身体変わってから初めてだろ、酒」
「あ」
完全に忘れていた。
金曜の夜、女になる前日に蓮と飲んだ。それから酒は一滴も口にしていない。
「一杯くらい平気だろ」
「病院で聞いた?」
「聞いてない」
「じゃあ分かんないじゃん。身体も小さくなってんだし、前と同じ感覚で飲むなよ」
「お前まで千尋と美琴みたいなこと言い始めたな」
「保護者三人体制じゃん」
「俺、二十六なんだけど」
「見た目は二十二、三なんだろ?」
「関係ねえよ」
言い返しながらも、蓮の言うこと自体はもっともだった。
体格はまったく違う。病院でも、身体は完全に女性へ変わっていると言われている。以前と同じ量を飲める保証なんてどこにもない。
「……じゃあ今日は一杯で様子見る」
「そうしろ」
「何でお前が偉そうなんだよ」
「お前が何も考えず生二つ頼ませたからだろ」
ちょうどそこへビールが届く。
ジョッキを掴んだ瞬間、今までよりずいぶん大きく見えて、思わず手元を見た。
「ジョッキ、でかくね?」
「普通だよ」
「だよなあ……」
身体が小さくなったせいで、最近は何を見ても一回サイズ感を疑うようになった。
とりあえず二人でグラスを合わせる。
「仕事復帰おめでとう」
「何その乾杯」
「あと女体化三日生存」
「言い方どうにかしろ!」
笑いながら一口飲む。
口に入った味は、知っているビールそのものだった。
「あー……ビールはビールだ」
「何だと思ってたんだよ」
「味覚まで変わってたら嫌だなって」
「プリンは平気だったんだろ?」
「何で知ってんの」
「昨日自分で言ってたぞ」
「そうだっけ」
「記憶まで変わってないよな?」
「今日は仕事したから脳の容量使い切った」
そんな会話をしていると、本当に以前と何も変わっていないような気がする。
刺身、焼き鳥、だし巻き。いつも頼むようなものを並べ、適当に食う。
違いが出たのは、その少し後だった。
「もう食わないの?」
蓮が焼き鳥の皿を指す。
「思ったより腹いっぱいなんだよ」
「早くね? 前ならここから締め頼んでただろ」
「身体小さくなって、食う量も減ったっぽい。昨日の昼もそうだった」
頭の方はまだ以前の感覚なので、注文する時には昔と同じ量を食べられるつもりでいる。実際に胃へ入れてみると、途中で「あ、もういい」となるから面倒だった。
「じゃあ俺食うわ」
「頼んだ」
蓮が残りを自分の皿へ移す。
そこは以前と同じだ。
どちらかが食べきれなければ、もう一人が適当に処理する。蓮が注文して気に入らなかったものを俺へ寄越すことも、その逆も何度もあった。
男二人で繰り返してきた、雑な食事の延長だった。
ただ、今日は蓮がやたらと俺のジョッキを気にしていた。
半分ほど飲んだところで、とうとう言われる。
「悠真、顔赤くない?」
「嘘だろ」
頬へ手を当てる。
自分でも分かるくらい熱かった。
「……マジか。まだ半分くらいだぞ」
「やっぱ弱くなってんじゃん」
以前なら一杯目の途中で酔いを意識することなんてほとんどなかった。それが今日は、身体の内側に酒が回っていく感じまで何となく分かる。
食べられる量も違う。
酒への強さも違う。
歩幅も、力も違う。
結局、男だった頃の「俺ならこれくらい」という感覚は、日常のあちこちで使い物にならなくなっているらしい。
「めんどくせえな……」
「今日はそれで終わりにしとけ」
「分かったよ」
倒れて蓮に運ばれる方が何倍も面倒なので、そこは素直に従うことにした。
*
食事が落ち着いた頃、話は自然と会社のことになった。
今日からリモートで仕事へ戻ったこと、人事と今後の手続きを確認したこと、社員証や健康診断など変えなければならないものが想像以上に多かったことを話す。
「木曜か金曜、一回会社行くかも」
そう言うと、蓮が少し驚いた。
「もう?」
「俺も早いと思う。でも社員証とか本人確認とか、直接じゃないと駄目なことがあるらしい」
「大丈夫なの?」
「それ、ここ三日で何回聞かれたと思う?」
「だって聞くだろ」
「まあな。正直、分かんねえよ。でも会社辞めるわけじゃないし、いつか行くなら一緒だろ」
人事からは、どこまで周囲へ事情を伝えていいかも確認された。転性現象が起きたことまでは共有して構わないと答えた、と話す。
「結構オープンにするんだな」
「隠せる見た目じゃねえもん。今の俺が会社行って、何も説明せず『香坂です』で通ると思う?」
蓮が少し想像してから笑った。
「無理だな。不審者になる」
「本人なのにな」
「社員証も昔の写真だろ」
「再発行だってさ」
「大変だな」
「会社がちゃんと対応してくれるだけありがたいけどな。黒田さんもかなり動いてくれてるし」
「いい上司なんだな、その人」
「美琴にも同じこと言われた」
何気なく名前を出した。
その瞬間だけ、蓮の反応が少し遅れた。
「美琴?」
「ああ。昨日うち来たから」
「家に?」
「うん。様子見と、飯持ってきてくれた」
蓮は「へえ」と答えてビールを飲んだ。
ほんのわずかな間だったが、俺には引っかかった。
美琴と二人で会うこと自体は、今までにもあった。蓮は俺が美琴を好きなことも知っているし、むしろ金曜までは「早く告れ」「もう行け」と面白がっていた側だ。
「お前、美琴の話もっと食いついてなかったっけ」
「そう?」
「そうだよ。金曜だって告れって言ってたじゃん」
「ああ……」
蓮は少し考えるようにジョッキを見てから、俺へ視線を戻した。
「今は、ちょっと事情違うだろ」
「事情?」
「お前が女になったから」
言われてみれば、あまりにもその通りだった。
「まあ……そうだけど」
俺はテーブルの上へ視線を落とす。
「でも、美琴を好きなのは変わってねえぞ。昨日会って、それは普通に思ったし」
美琴が以前よりずっと近くへ来たこと。
女同士だからと、何でもないことのように隣へ座ったこと。
それに戸惑いながらも、俺自身は確かに美琴を意識していた。
だから、気持ちは変わっていない。
たぶん。
「そっか」
蓮の返事はそれだけだった。
俺は顔を上げる。
「反応薄くね?」
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
「前みたいに『告れ』とか」
蓮はすぐには返さなかった。
「……今は、何か言いづらい」
「何で?」
「分かんねえけど」
蓮がそんな答え方をするのは珍しかった。
いつもなら、もっと適当でも何かしら言う。
けれど、その理由を俺は追わなかった。
俺自身、この数日で「分からない」としか言えないことが山ほど増えている。
蓮にだって、そういうものが一つくらい増えてもおかしくない。
そう思った。
*
店を出たのは、それから一時間ほど後だった。
結局、俺が飲んだのは最初の一杯だけだったが、立ち上がった瞬間に身体が少し浮くような感覚がして、蓮には即座に気づかれた。
「今ふらついたろ」
「一瞬だって」
「やっぱ酔ってんじゃん」
「一杯だぞ」
「今のお前には一杯なんだろ」
腹立たしいが、否定できない。
外へ出ると夜風が火照った頬に気持ちよく、俺が「あー、気持ちいい」と漏らしたら、今度は完全に酔っ払い扱いされた。
駅へ向かう道は、来た時より人が増えていた。
仕事帰りの会社員や、これから飲みに行くらしい集団が行き交う中を、蓮と並んで歩く。
そこで、行きより蓮が近くにいることへ気づいた。
「蓮、ちょっと近くない?」
聞いた直後、昨日美琴にも似たことを言ったのを思い出す。
蓮は少しだけ俺を見た。
「人多いから」
「ああ」
理由を聞けば、それで納得できた。
今の俺は人混みの向こうが見えない。蓮が少し前寄りを歩いてくれれば、その背中を目印にしてついていける。
男だった頃には必要なかった気遣い。
でも、それ以上の意味なんてない。
駅前の横断歩道で信号が変わり、人が一斉に動き始める。俺も流れに乗ったが、途中で横から入ってきた人を避けようとして進路が少しずれた。
その時、蓮が俺の腕を掴んだ。
「こっち」
軽く引かれ、そのまま数歩進む。
横断歩道を渡りきったところで、手はすぐに離れた。
昔なら何とも思わなかった。
人混みで肩を掴まれたこともある。酔った俺を引っ張られたこともあるし、俺が蓮の服を掴んだことだって何度もあった。
十年以上の付き合いの中で、そんな接触に意味を考えたことなんて一度もない。
なのに今日は、離れたあともしばらく、掴まれていた腕だけが妙に意識に残った。
何が違うのか。
答えはまだ分からなかった。
*
改札前まで来ると、蓮が足を止めた。
俺たちは使う路線が違う。いつもなら、ここで適当に「じゃあな」と言って別れる。
「じゃ、俺こっち」
「おう」
ICカードを出して改札へ向かおうとしたところで、後ろから呼び止められた。
「悠真」
「何?」
「ちゃんと一人で帰れる?」
思わず振り返る。
「俺を誰だと思ってんだ」
「一杯でふらついてた奴」
「酔ってねえって」
「顔赤いけど」
「体質が変わっただけだ!」
「それを酔ってるって言うんだろ」
それはそうなのだが、認めると負けた気がする。
「一人で帰れるわ。何なら金曜、お前の方が酔ってたろ」
「あれは三軒行ったから。今日はお前、一杯でそれだろ」
「だから大丈夫だって」
「今のお前がどのくらい酒に弱くなったか分かんないじゃん」
正論だった。
俺自身、今日初めて知ったのだ。
「……まあ、本当に大丈夫。普通に歩けるし」
「ならいいけど。着いたら連絡しろよ」
「嫌だ」
「しろ」
「お前、俺の彼氏かよ」
反射的に出た。
昔なら、そこで終わる言葉だった。
『誰がお前の彼氏だよ』
『気持ち悪いこと言うな』
そんな返事が飛んできて、俺も笑う。
いつもなら、そうだった。
でも。
蓮は何も言わなかった。
俺も、言った直後に笑えなかった。
駅前の雑音だけが、妙にはっきり聞こえた。
「……今のなし」
先に目を逸らしたのは俺だった。
「おう」
蓮もそれ以上触れなかった。
「じゃあな」
「おう。連絡しろよ」
「気が向いたら」
改札を通り、そのままホームへ向かう。
途中で一度振り返ろうかと思ったが、やめた。
*
電車は思ったより空いていて、俺はすぐに座ることができた。
車内が動き出してから、さっき蓮に掴まれた腕を何となく見る。
もちろん、何も残っていない。
痛みもなければ跡もない。
それでも、美琴に髪を触られた時と同じように、そこへ意識が戻ってしまう。
美琴なら分かる。
俺は美琴が好きだ。
相手が近づけば意識するし、触れられれば気にもなる。
蓮は違う。
十年以上付き合ってきた親友で、男友達で、今さら身体が触れたくらいで何かを考えるような相手じゃなかった。
少なくとも、金曜までは。
スマホが震えた。
『電車乗った?』
蓮からだった。
俺は少し画面を眺めてから、
『乗った』
と返す。
すぐに既読がついて、
『ならよし』
とだけ返ってきた。
いつもの蓮だった。
心配性になったこと以外は、いつものやり取りにしか見えない。
それなのに、俺の頭に残っていたのは別の言葉だった。
『お前、俺の彼氏かよ』
何百回でも言えそうな、くだらない冗談だったはずだ。
男同士だった頃なら、何の意味も持たなかった。
なのに今日。
それを言った俺も。
言われた蓮も。
一瞬だけ、笑えなかった。




