第206話 冥府回廊
特別戦当日。
忘れられた洞窟の中央広間には、いつもよりずっと重く、張り詰めた空気が漂っていた。
相手は四百十七位《冥府回廊》。
四百位台。
中級リーグ目前。
そして。
研究施設保有ダンジョン。
忘れられた洞窟が初めて出会う、同類だった。
「嫌な予感しかしません」
リリスが言う。
「面白そうだな」
アルベルトが答える。
いつものやり取りだった。
だが。
今回は少し違う。
誰も笑わない。
アダプトキングも。
ヴァルグランも。
影王も。
夜狼王も。
全員が、相手の危険性を理解していた。
その沈黙は、ただの緊張ではない。
嫌な予感を、誰もが同じ形で抱えている沈黙だった。
◇
転送門が開く。
視界が変わる。
次の瞬間。
全員が止まった。
暗い。
空が灰色だった。
地面は黒い石。
無数の墓標。
崩れた神殿。
骨。
骨。
骨。
戦場そのものが異常だった。
足を踏み入れた瞬間から、空気が冷たい。
生者の気配を拒むような、死の匂いが広がっていた。
◇
終号が解析する。
⸻
特殊戦場
冥府回廊
⸻
死霊領域
⸻
中央広間が静まる。
普通のダンジョンではない。
戦場そのものが魔物だった。
◇
その時。
鐘が鳴った。
ゴォォォォン。
重い音。
不気味な音。
そして。
墓地全体が動く。
骸骨が立ち上がる。
何百。
何千。
視界を埋め尽くす。
骨が擦れる音だけが、やけに大きく響いた。
◇
ヴァルグランが笑った。
「派手だな」
そして前進する。
戦闘開始。
◇
最初は忘れられた洞窟が押していた。
ヴァルグランが軍勢を吹き飛ばす。
影王が指揮官級を暗殺する。
夜狼王と蒼天竜将が上空を制圧する。
いつも通りだった。
実際。
戦力だけなら忘れられた洞窟が上だった。
だが。
冥府回廊は、押されても崩れない。
倒しても、倒しても、戦場が静かにならない。
まるで最初から、こちらの勝ち筋を知っているかのようだった。
◇
十分後。
異変が起きる。
倒した敵が立ち上がる。
また倒す。
また立つ。
終わらない。
骸骨の腕が折れても、首が砕けても、胸が潰れても、次の瞬間にはまた動き出す。
戦場に積み上がるはずの勝利が、すべて泥のように沈んでいく。
◇
鐘が鳴る。
ゴォォォォン。
終号が反応する。
⸻
死霊再生
発動
⸻
リリスが固まる。
「反則では?」
「反則だな」
アルベルトも認めた。
だが、その声は冷静を装っていても、すでに苛立ちを含んでいた。
勝てるはずの戦いが、戦場そのものに足を掴まれている。
その感覚が、彼の眉間に深い皺を刻む。
◇
さらに。
敵はまだ本気ではなかった。
神殿の奥。
巨大な扉が開く。
そこから一体が現れる。
黒い鎧。
巨大な鎌。
赤い瞳。
そして。
圧倒的な威圧感。
◇
終号が表示する。
⸻
冥王騎士
⸻
王候補
⸻
中央広間が凍りつく。
王候補。
夜狼王と同格。
いや。
終号の評価ではさらに上だった。
その存在が一歩進むだけで、周囲の死霊たちが道を開ける。
まるで、この戦場の主が姿を現したかのようだった。
◇
夜狼王が前へ出る。
自然だった。
王候補には王候補。
それしかない。
だが、その背中はいつもより少しだけ硬かった。
相手の格を、夜狼王自身も理解していた。
◇
激突。
轟音。
地面が割れる。
夜狼王が吹き飛ぶ。
全員が止まる。
今まで夜狼王が正面から押し負けたことはない。
だが。
押された。
◇
冥王騎士は強い。
異常なほどに。
戦闘経験。
能力。
魔力量。
全てが高い。
そして何より。
迷いがない。
まるで何百年も戦ってきた戦士だった。
夜狼王が踏み込むたび、冥王騎士はそれを受け止め、わずかに上回る。
その一撃一撃が、夜狼王の呼吸を削っていった。
◇
その頃。
上空。
蒼天竜将が敵飛行戦力を迎撃していた。
そこで。
新たな英雄個体が現れる。
黒竜。
死霊飛竜。
骨翼王。
英雄個体三体。
◇
リリスが絶句する。
「多すぎません?」
普通のダンジョンなら切り札。
それが三体。
さらに王候補。
さらに死霊軍団。
戦場のどこを見ても、こちらの余裕を削るための配置しかない。
◇
戦況が崩れる。
蒼天竜将が足止めされる。
ヴァルグランも囲まれる。
影王も暗殺対象を見失う。
アダプトキングは必死に指揮を続ける。
だが。
少しずつ。
確実に押される。
◇
リリスが顔を青くした。
気付いたのだ。
冥府回廊は強いのではない。
慣れている。
◇
勝つことに。
奪うことに。
育てることに。
全て慣れている。
忘れられた洞窟が今までやってきたことを。
何十年も前から繰り返している。
だからこそ、こちらの動きも、焦りも、勝ち筋も、すべて飲み込むように戦ってくる。
◇
そして。
決定的な瞬間が来る。
夜狼王が冥王騎士へ飛び込む。
渾身の一撃。
冥王騎士も迎え撃つ。
激突。
轟音。
そして。
夜狼王が膝をついた。
その瞬間、広間の空気が変わった。
誰もが息を止める。
夜狼王が、膝をついた。
それは敗北の形だった。
◇
終号が警告する。
⸻
敗北判定
⸻
中央広間が静まり返る。
全員理解した。
負けた。
だが、その静けさは、ただの敗北の静けさではなかった。
夜狼王が膝をついたまま、まだ立とうとしている。
爪が石床を削る。
喉の奥から低い唸りが漏れる。
まだ終わっていない。
まだ戦える。
その意思だけが、必死に場を支えていた。
◇
冥王騎士が近付く。
夜狼王を見る。
数秒。
その赤い瞳は、獲物を見るというより、価値ある戦利品を測るように冷たかった。
夜狼王は立ち上がろうとした。
だが、膝が震える。
それでも唸り声を漏らし、牙を剥く。
まだ終わっていないと、全身で抗っていた。
冥王騎士はそんな夜狼王を見下ろし、静かに言った。
「良い王候補だ」
その言葉が嫌だった。
本当に嫌だった。
褒め言葉ではない。
奪う側の宣告だった。
夜狼王の背筋が、怒りでわずかに震える。
だが、その怒りすら、相手には届かない。
◇
次の瞬間。
終号が表示する。
⸻
戦利契約発動
⸻
対象選択
⸻
夜狼王
⸻
沈黙。
王冠宰相が固まる。
影王が止まる。
ヴァルグランも動かない。
アダプトキングだけが画面を見ている。
リリスは息を呑み、アルベルトの目が鋭くなる。
その鋭さは、ただの驚きではない。
一瞬で温度を失った、怒りの目だった。
◇
光が広がる。
強制契約。
止められない。
夜狼王の足元に魔法陣が展開する。
鎖のような光が四方から伸び、彼の四肢と影を絡め取った。
夜狼王が暴れる。
爪が石床を削る。
咆哮が広間を震わせる。
だが。
光はほどけない。
むしろ、彼の輪郭を少しずつ薄くしていく。
その姿が消えていくたび、広間の空気も一緒に削られていくようだった。
◇
夜狼王が振り返る。
忘れられた洞窟を見る。
王冠宰相を見る。
影王を見る。
アルベルトを見る。
その瞳には、怒りだけではなかった。
まだ戦えるのに。
まだここにいるのに。
それでも連れていかれる。
そんな理不尽への悔しさと、仲間を残していく痛みが、はっきりと浮かんでいた。
王冠宰相が一歩踏み出す。
「夜狼王――」
だが、声は届かない。
影王も手を伸ばしかけて止まる。
ヴァルグランは歯を食いしばり、拳を震わせた。
アダプトキングは何かを言おうとして、言葉を失った。
リリスは唇を噛み、目を逸らせなかった。
誰もが、引き裂かれるような沈黙の中で立ち尽くしていた。
◇
誰も何も言えなかった。
そして。
夜狼王の姿が消える。
完全に。
まるで最初からそこにいなかったかのように。
広間に残ったのは、彼が立っていた場所の空白だけだった。
その空白が、あまりにも大きい。
そこにいたはずの熱も、気配も、吠え声も、すべて一瞬で奪われた。
残された仲間たちは、その事実を受け止めきれず、ただ空白を見つめるしかなかった。
◇
戦闘終了。
忘れられた洞窟敗北。
順位変動なし。
だが。
失ったものは大きすぎた。
◇
静まり返る管理室で。
アルベルトが終号を見る。
珍しく怒っていた。
はっきりと。
その怒りは、ただの敗北への苛立ちではない。
仲間を奪われた怒りだった。
夜狼王が消えた空白が、部屋の空気を重く沈めていた。
アルベルトの拳が、静かに握られる。
目は冷たい。
だが、その奥には燃えるような熱があった。
奪われたなら、取り返す。
それだけだ。
◇
その時。
終号が静かに新しい表示を出した。
⸻
夜狼王
戦利契約状態
⸻
契約安定化まで
7日
⸻
王候補融合儀式
予定
⸻
残り7日
⸻
中央広間が凍りつく。
夜狼王はまだ無事。
だが。
七日後には消える。
融合素材として使われる。
その事実が、敗北よりも深く胸を抉った。
助けられる時間はある。
だが、悠長にしていれば本当に失う。
今度こそ、取り返せなくなる。
◇
王冠宰相が震える。
影王の瞳が細くなる。
ヴァルグランが拳を握る。
リリスは悔しさに唇を噛み、アダプトキングは静かに立ち上がった。
誰もが、夜狼王のいない広間の空白を見ていた。
そこにあったはずの気配。
いつも先頭で吠えていた声。
仲間を押し出すように前へ出る背中。
それが消えた事実が、ようやく全員の中に落ちていく。
その沈黙は重い。
悔しさも、怒りも、焦りも、言葉にならないまま沈殿していた。
◇
アルベルトが言う。
短く。
静かに。
だが。
全員に聞こえる声で。
「取り返す」
その一言には、迷いがなかった。
怒りを押し殺した声ではない。
怒りを力に変えた声だった。
奪われたなら奪い返す。
夜狼王を、必ず連れ戻す。
その決意が、部屋の沈黙を切り裂いた。
◇
敗北した。
完敗だった。
だが。
忘れられた洞窟は諦めない。
七日。
その時間がある限り。
失った仲間を取り戻すために。
夜狼王を奪い返すために。




