第219話 神と人の、ちょうどいい距離
魔族領の朝は、静かだった。
かつて魔王城と呼ばれた建物は、今では行政庁舎という名に変わり、威圧感のない外観になっている。尖った塔も、血の匂いを連想させる装飾もない。代わりにあるのは、実用性を優先した設計と、やけに頑丈な机と椅子だった。
会議室の中央、その机に、分厚い書類が積まれる。
「……多くない?」
書類の山を見下ろして、代表――ヘラクレスはぼやいた。
背は高く、体格もいい。だが、威圧する気配はない。剣は壁に立てかけてあるが、最近はほとんど出番がない。服装も簡素で、動きやすさ重視だ。
「合衆国側からの調停要請です」
「港湾都市の電力配分の再調整案も 」
「魔族領内部の自治規約、最新版です」
部下たちが淡々と報告する。
ヘラクレスは一つため息をついた。
「俺、元は戦う役だったんだけどな」
「今は“まとめる役”ですね」
「……世の中、変わるもんだ」
そう言いながらも、彼は書類を手に取る。読む速度は速い。要点を掴むのも早い。判断に迷いはない。
それを見て、部下の一人が小さく言った。
「ヘラクレスさんが代表で助かってます」
「話が通じますし」
「力があるのに、振り回さないのがいい」
「“振り回さない”は褒め言葉でいいんだよな?」
苦笑しつつ、ヘラクレスは言う。
「力を使えば、確かに早い。でも、それで終わらせるとさ……」
「終わらせると?」
「次が来る。不満とか、依存とか、期待とか。
力で解決した分だけ、重くなる」
彼は窓の外を見た。
街には、人も魔族も、獣人もドワーフもいる。誰も空を見上げて祈ってはいない。雷が走っても、「電力が安定してるな」くらいの反応だ。
「神様がどうにかしてくれる、って時代じゃない」
「でも、神はいなくなったわけじゃありません」
「分かってる。……だから、ちょうどいいんだ」
その頃、天界。
円卓の間ではなく、資料室。
統括はタンクトップ姿で、報告書をめくっていた。
「魔族領、安定」
「合衆国との摩擦、軽微」
「雷系インフラ、問題なし」
紙をめくる音だけが響く。
統括は鼻を鳴らした。
「……優秀すぎるだろ」
「何か問題でも?」
「いや、問題はない。
ただな……」
統括は報告書から目を離し、天井を見上げる。
「お爺ちゃんとしては、ちょっと寂しい」
「……寂しい、ですか?」
「完璧すぎてさ。
たまにはこっちに顔出して、
“判断間違えました”くらい言いに来てもいいのに」
ウェスタは、思わず微笑んだ。
「でも、それは統括が望んだ姿でもあります」
「分かってる。分かってるけどさ」
統括は肩をすくめる。
「前に出ない。
頼らせすぎない。
でも、突き放さない。
……距離感、うまいんだよ、あいつ」
「父親譲り、でしょうか」
「どっちのだ?」
「……両方、ですね」
統括は小さく笑った。
「そうか。
なら、文句言えねえな」
下界では、会議が終わり、人々が席を立つ。
「では、次回は三十日後に」
「代表、お願いします」
ヘラクレスは軽く手を振って見送る。
誰も彼を「魔王の子」と呼ばない。
誰も「神の血」を口にしない。
ただ、話が通じる人として、そこにいる。
ふと、彼は天井を見上げた。
雷が遠くで、小さく鳴った気がした。
「……今日も平和だな」
それだけ呟いて、また机に向かう。
神は降りてこない。
声も聞こえない。
だが――
神が離れたからこそ、人は立っている。
そして、見守る側は、
少しだけ寂しさを抱えながら、
それを誇りに思っている。
神と人の、ちょうどいい距離。
それは誰も言葉にしないが、
確かに、この星を支えていた。




