第215話 それでも、人は立っていた
朝の鐘が鳴る。
かつては祈りの合図だったその音は、
今ではただの時刻の知らせになっていた。
街は目覚める。
店が開き、工房の扉が上がり、
人々はそれぞれの仕事へと散っていく。
誰も空を仰がない。
誰も神殿へ急がない。
それが、普通になっていた。
―――
小さな広場。
掲示板の前で、人が集まっている。
新しい条例の草案。
水路の補修計画。
失敗した施策の反省文。
誰かが言う。
「前のやり方じゃダメだったな」
別の誰かが答える。
「じゃあ、次はどうする?」
責任を押し付ける声はない。
神の名も、運命の言葉も出てこない。
あるのは、
失敗した、という事実と、
それでも続ける、という前提だけだ。
完璧ではない。
揉め事もある。
不満も、不公平も、確かに残っている。
それでも。
「前よりは、マシだな」
その言葉が、
冗談でも慰めでもなく、
実感として交わされるようになっていた。
―――
神殿。
扉は開いたままだ。
壊されてもいないし、封じられてもいない。
だが、訪れる者は少ない。
祈りは消えていない。
ただ、必要なときにだけ使われるようになった。
「神様、見てるならさ」
そう呟いて、
結局は自分で決断する。
そんな距離感。
―――
天界。
円卓の一角。
統括は、腕を組んで下界を眺めていた。
「……祈られなくなったな」
責める響きはない。
寂しさも、ほとんどない。
事実確認に近い独り言だ。
ウェスタが、静かに記録板を閉じる。
「はい。
ただし、責任も一緒に引き取っています」
「それならいい」
統括は、少しだけ肩をすくめた。
「祈りだけ置いて、
後始末を神に丸投げするよりはな」
人は間違える。
それは、今も昔も変わらない。
だが――
間違えたまま立ち止まらなくなった。
それが、この五百年の一番の変化だった。
「……思ったより、ちゃんとしてる」
誰に言うでもなく、そう呟く。
神が前に出ない世界。
神の名が免罪符にならない時代。
それでも――
世界は崩れていなかった。
むしろ、
少し歪みながらも、
自分の足で立っていた。
統括は、円卓に手を置く。
「俺がいなくても回るなら」
一拍置いて、
小さく笑った。
「それが一番だろ」
天界は静かだ。
だが、それは終わりの静寂ではない。
役目を終えつつある者の、穏やかな沈黙だった。
そして――
世界は、次の時間へ進んでいく。




