ティフォージュ地底湖
ブルー侯爵家の屋敷、執務室。
通常、この部屋は貴族家の当主とその側近が業務をするための場所であり、日中に無人になることなどあり得ないはずの空間である。
実際、領主の裁可が必要な書類は机に積まれている。しかしこの部屋にその権限を持った人間はおろか、他の人間でさえも不在だった。
そんな執務室の窓が、勝手に開く。解放された窓の外から、一人のメイドと、メイドに抱えられた少女が侵入してきた。
少女は縄で後ろ手に縛られていた。
「リフィさん、あなたこんな芸当が出来たんですわね」
「大っぴらに誇れるものではありませんから。マエリスお嬢様もご存知ないはずです」
「私の立場からすれば、本当は咎めなければならないのですけれど……それ以上にお父様がこの場に居ないことに呆れてしまいますわ。まさかお昼にも居ないなんて……」
「工房にいらっしゃるのでしょうね。今からそちらへ向かいます」
そう言って、リフィはフィエットを抱えたまま執務室奥の本棚に向かう。
そこで本を押し込めばカラクリが起動し地下への階段が出現するわけだが──リフィはその本ではなく、その上の段の本を退かして、本の裏にあったワイヤーに細工をしていく。
「それは何ですの?」
「警報装置です。本棚が動くと工房の鳴子がそれを知らせる仕組みですね」
「詳しいのですわね」
フィエットのその言葉には返答せず、リフィは細工を終えると本を戻し、スイッチとなる本を押し込む。
カチリという起動音、ガラガラという歯車の回る音の後に、地下への階段が現れる。
リフィはフィエットを抱え直すと、その暗闇へ一歩踏み出した。
「お父様の隠し事……本当にこの先にそれがあるんですの?」
長い階段を下りる中で、フィエットがそう尋ねる。
「正直、今でも信じられませんわ。お父様はそんな器用なことできませんもの」
「……こうして私を信じて拘束されてくれた上で、こう言うのは不誠実ですが……今それを話すことはできません」
「やっぱりリフィさん、あなたにこのような汚れ仕事は向いていませんわ」
「それはきっと……マエリスお嬢様のお陰ですね」
リフィが笑う。親愛、自嘲、謝意、侮蔑──様々な色が交じり合い、本心が読めない表情をフィエットは哀れに思った。
「私に対する同情は不要です」
それに気が付いたのか、リフィがそう忠告する。
「これは私が蒔いた種。過去の愚行の報いが返ってきているだけですから」
「……まあいいですわ。順番が違いますものね」
リフィが答える気がないことを察し、フィエットはそう切り上げた。
視線の先がぼんやりと明るくなる。それは階段の出口が近いことを意味している。
いつもは、この時点で目の前にバルバロがおり、苦情と共に来訪者を出迎える。
しかし工房に辿り着いても、そこに彼の姿はなかった。
「……? 珍しいですわね、執務室にも工房にも居ないなんて」
そう言うフィエットを他所に、リフィは工房のとある一角へと向かう。
そこは周囲が埃塗れであるにも関わらず、唯一埃を被っていない場所だった。
そこに膝をつくと、リフィは床に指を付けると、ゆっくり欠けた円を描き始めた。
右回りに、左回りに、そしてまた右回りに。同じ動きを何度も繰り返す。
「? 何をしてるんですの?」
「フィエット様。かつてペーラ・ウルト大陸の南部にまだ街があった時、そこから『吹雪の海』へ出る際に難所があったことをご存知ですか?」
「え? ああ、昔書斎でそんな記録を見たことがある気がしますわね」
「そこでの操舵のやり方は?」
「えーっと……面舵、取舵、面舵……小刻みにそれを何回も繰り返すのは覚えているのですけれど、どれくらいかは覚えてませんわね」
「私が今したのがそれです」
「へ?」
フィエットがどういう意味かを尋ねる前に、カチリとスイッチが起動する音がする。
そしてゆっくりと床面が開き、さらなる地下への梯子が現れた。
「ど、どういうことですの!?」
「簡単に申しますと、この工房はダミーなのです。いえ、工房として使うことは可能なのですが、バルバロ・ブルーの本命の工房はこの先にあります」
「そんなことが……」
唖然としているフィエットを再び片腕で抱え直して、リフィはもう片腕でゆっくりと梯子を下りていく。
何故こんな場所が存在しているのか、何故それをリフィは知っているのか、何故解き方まで熟知しているのか、聞きたいことが山ほど頭に浮かんできたフィエットだったが、それが口から発せられることはない。
梯子を下りるにつれ、水の流れる音が聞こえてきた。それに加えて、見覚えのある光のライン──鉱脈を何度も通り過ぎていく。
「……ティフォージュ地底湖ですの?」
「はい。どうやらバルバロ・ブルーは地底湖に工房を作っているようですね」
「知りませんでしたわ……屋敷がそこに繋がっているなんて」
「元は緊急時の脱出用ルートだったのでしょう。それを発見した彼が改造したのでしょうね」
「? その言い方は、まるで……」
まるで、最初から意図したものではないような?
フィエットのその疑問は、口に出るよりも前に男の声に遮られた。
「よくここまで来たもんだ。俺以外に見つけられる奴がいるとは思ってなかったぜ」
突然フィエットが梯子から手を放す。重力に捕らわれ加速する身体。悲鳴を嚙み殺すフィエットが見たのは、氷柱が突き刺さり折れる梯子だった。
「チッ、人質のつもりか? 女」
バシャッと湖の浅い箇所に着水したリフィと、彼女が抱えるフィエットを見て男は──バルバロ・ブルーは舌打ちをする。
束の間の膠着。その隙にフィエットが周囲を見渡して、リフィの足元のそれを見つけてしまった。
水底に沈む顔。それに妙な既視感を覚える。
否、既視感どころではない。なにせ毎日鏡越しにそれを、フィエットは見ているのだから。
悲鳴が響き渡る。
「ヒィッキャアァァァァ!? な、何ですのこれは!? これ、これは、あれは──!?」
ドーム状の空間。足元は一面湖になっており、全体的に水平で浅瀬となっている。
その中に、フィエットの死体が沈んでいた。
それも一つではない。二つ、三つ──数えきれないほどにあちらこちらに転がっていて、積みあがって水面の上に露出しているものもある。
そしてバルバロがいる湖の中央。そこには一つの檻があり、その中にもフィエットがいた。
いや、よく見ればそれは今のフィエットよりも大人びている。遠くからでは生きているのか死んでいるのか分からないが、そんな肉体が檻の中で湖に浸かっていた。
「ああクソ、面倒臭いことをしてくれたなぁ。見られたからには殺さないといけねえのに、フィエットまで連れてきやがって。まだ母さんと合わせる気はなかったんだがなぁ」
「母さん……? な、何を言ってますのお父様……?」
狂乱と困惑の坩堝に居るフィエット。震える声で、これ以上何も見たくないのに、尋ねずにはいられなかった。
果たしてその答えは、別のところから齎された。
「ジャンヌ・ダルク。教会に功績を消された悲劇の女性でー、あなたがゾッコンラブな女性でー、フィエットちゃんのモデルになった女性、だよねー? 海賊侯爵ちゃん?」
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