招待状は切られた
「ん……?」
誰かに頭を撫でられている感覚に、マエリスは目を覚ました。
違和感、視界が妙だ。マエリスの右目は濁っているとはいえ光を通していた。しかし今、全く何も見えない。
それに加えて、両腕もない。完全に四肢を欠損した状態にマエリスは慌てて──周囲を見渡して納得した。
月が昇る夜半、マノンに抱き締められながらベッドの上で眠っていたはずだった。
しかしマノンの姿はどこにもなく、何ならここは屋内ですらない。
昼のような眩い光と、夜のような静寂な闇が、水に溶いた絵の具のようにマーブル模様を描いて入り混じっている空間。
星のようにも雲のようにも見える靄が頭上一面に広がり、足元に水面のようにも草原のようにも見える景色がどこまでも広がっている空間。
神界ともまた違う、この形容しがたい場所をマエリスは知っていた。
「んっふっふっふ……久しぶりだねー、リスちゃん? ちょっと見ない内に随分と変わったねー?」
かつて家庭教師としてマエリスを扱き、その後のスタンピードでも協力してくれた女性。
水色の髪と三角帽子が特徴的なシルエットは、十年の時を経ても何も変わっていなかった。
「久しぶりだね、ノア」
「あーん、ノアだって! あだ名で呼ばれるのって本当に嬉しいねー!」
うりうりとマエリスの左頬を突いた彼女はニコニコと笑う。
「エレノア・フェリーク! リスちゃんが西部に居るって聞いて、来ちゃったー!」
「来ちゃったーって。それならこんな不思議空間じゃなくて、普通に屋敷に来ればよかったのに」
「それはちょっと諸事情でできないんだよねー」
エレノアが肩を竦めながらマエリスから離れる。すると白い丸テーブルが視界に入り、そこには既にエレノア以外に二人の先客がいることに気が付いた。
「あれ、君は──」
「お昼ぶりだねお姉さん!」
一人はパン屋の店員だ。屋敷にお菓子を持ってきて、マエリスの意識を宇宙へ飛ばした彼女。彼女はマエリスの方へ大きく手を振っている。
もう一人も見覚えがある。昨日、パン屋前での騒動の際に、店から出てきた山盛りパンの女性だ。彼女はマエリスを一瞥すると、黙々とクッキーを齧っている。
「あ、振り返っちゃだめだよー。話しかけるのも禁止ねー」
他の人と言えば、未だにマエリスの頭を撫でている『誰か』。
意識がはっきりしたことで枕だと思っていたそれが人肌の温もりを持っていたことにも気付き、何となく正体を察したマエリスだったが、先にエレノアに釘を刺されてしまった。
「リスちゃんが誰を探しに来たのかは分かってるけどー、ご対面はまたの機会にねー。振り返れば夢の世界は終わり、今はそういう縛りを付けてるから」
「縛り?」
「そ。まーリスちゃんもおいでー。一緒にお菓子食べようよ。ここでならいくら食べても太らないよー?」
「お姉さんはむしろ少しは太った方がいいと思うよ! だから現実でもいっぱいお菓子食べようね!」
「手心が欲しいかなぁ」
地上と宇宙を何度も往復するのは、文字通り昇天しそうで怖いのだ。
新鮮なトラウマに震えていると、頭を撫でるのを止めた『誰か』がマエリスを席にまで運んだ。
(振り返りたい。無事かどうか問いかけたい。でもエレノアは本気だから、きっとそれは叶わない。ここは我慢……我慢……)
「ふふーん。ずっと夜会にリスちゃんを招きたかったんだー。やっとそれが叶って嬉しいなー」
「お菓子はいっぱい用意してますからたくさん食べてくださいね!」
「だから手心を──」
マエリスが苦情のために口を開けた瞬間に一枚のクッキーが飛び込んでくる。舌に触れた瞬間、マエリスの意識は再び宇宙へ飛び、数秒後に戻ってきた。
「はっ」
「あはは、呆けた顔しちゃって面白ーい。まだ人間のリスちゃんには早かったかな?」
そう揶揄うエレノアは同じクッキーを一枚口に放る。そして普通のお菓子を食べるように咀嚼し、嚥下し、もう一枚を手に取った。
「ねートルテちゃん、今回は何を使ったのー?」
「レムリア魔海域の海藻が偶然手に入ったからそれと、合わせで浮遊城の質の悪い枝。『オルレアン』で使ってるペーラ・ウルト大陸東部の小麦粉と、あと私の骨粉と紅阿片だよ!」
「ぶっ!?」
「うわーすっごい! レア物のオンパレードじゃん! 紅阿片なんてよく手に入ったねー?」
「この前偶然見かけた密航者が持ってたんだ。なんかお金持ちっぽい雰囲気してたけど、それ以外は大したことなかったな。かなり暴れてたから船を壊して沈めてきちゃった」
(それは麻薬の密輸船では?)
阿片──モルヒネは前世にも存在している薬物だが、そこに特殊な肥料や環境で育てることで依存性を高めたのが紅阿片だ。当然ながら所持しているだけでも違法な薬物である。
(それをお菓子に使ったって言った?)
「ん? 大丈夫大丈夫心配ないよ! 紅阿片の中毒性は特殊な波長の魔力で打ち消せるんだよ。レムリア魔海域の海藻がそうなんだけど、あれもあれで有毒なんだよね。だから浮遊城の素材も使ったんだ。悪い品質のを使ったのは、その方が美味しくなるから!」
「トルテちゃんのことだから、リスちゃん以外の子が食べた奴は合法の素材しか使ってないんじゃないかな?」
「そりゃそうだよ! お菓子だって食べられる相手と場を選ぶもん!」
「そういう問題かなぁ……」
掠れた声でそう言ってみるが、圧倒的にマイノリティな意見はこの場で封殺された。
「ねえ」
そこに短く、しかし背筋が凍るような声が響く。
「その無駄話にはどれだけの価値があるの?」
彼女がエレノアを、店員を、そしてマエリスを順に指さしていく。その瞬間マエリスは心臓を掴まれたような感覚に陥る。
本能が警鐘を大音量で鳴らす。死神がそこにいると。
マエリスが固まって何もできないでいると、店員が女性の前に大皿に乗った特大のパイを置く。
すると女性は指していた指を引っ込め、パイを黙々と食べ始めた。
ふと気が付けば、彼女の周囲の菓子はそれ以外になくなっていた。
「あー、びっくりしたよねリスちゃん。ハンデル先輩はお腹が空くと不機嫌になっちゃうだけだから」
「え、あ、はい」
そう語るエレノアだったが、そのこめかみに冷や汗が滲んでいることをマエリスは見逃さなかった。
(スタンピードの治療とかでエレノアもかなりの実力者だと思ってたけど、あの人はそれ以上ってこと……?)
リスのようにパイを頬張っている姿からは想像できないが、先ほどの底知れない圧は間違いなく本物だった。
(だからこそ、確かめなきゃいけない)
「……ノア」
「なあに? リスちゃん」
「君たちって、マノンと敵対する予定があったりする?」
そう尋ねた途端、エレノアと店員が同時に噴き出した。
「ぷっ、あ、あははははっ! 何その聞き方!? ストレートにも程があるじゃん!」
「リスちゃんってさ! 前から思ってたけど私たちの同類になる素質あるよねー! いっそ先輩の誰かを消して成っちゃう?」
「あの、ボクこれでも真剣に聞いてるんだけど……」
笑われたことでやや不機嫌になるマエリス。それを見てエレノアはゴメンゴメンと誤った。
「そうだねー。聖騎士とか聖女とかと敵対するかどうかはー、状況次第かなー」
「っ!」
マエリスの視線が鋭くなる。それを飄々とした態度で受け流し、エレノアは言葉を続けた。
「私たちは、『魔女』」
三対の瞳が妖しく輝く。
「最愛のために理を外れて、最愛のためだけに世界を守る──狂信者だよ」
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