手は再び繋がれた
真っ直ぐ射抜くような双眸を向けられて、レクスの口から放たれた言葉。
呆気に取られたのか、クオンは翡翠に輝く目を大きく見開いた。
「……兄さんの、為に……?」
クオンがレクスの言葉を反芻する。
レクスは「ああ。」と肯いた。
「クオンが自分を信じられねぇからって、死ぬことを選んで欲しくねぇんだ。それに俺は、クオンが死ぬところなんざ見たくもねぇ。……だからこそ、自分が信じられないなら、俺を信じてくれ、クオン。」
「……兄さんを、信じる……。」
「ああ。俺は、クオンの兄さんだからな。俺にとっては、クオンが笑って過ごしてくれるのが一番だ。悲しい事や、怒りたい事、悔しいと思っても、俺にぶつけてくれりゃいい。……クオンの為なら、安いもんだ。」
「……わたしは……兄さんの為に、生きてていいのですか? 隣にいても……いい、のですか?」
「当たり前じゃねぇか。クオンは俺の、大事な妹、なんだからよ。」
柔らかな微笑みとともに、にぃっとレクスはクオンへ顔を寄せた。
俯いたクオンは、我慢が限界だったのか。
ぽたぽたと、左目から滝のように雫がこぼれ落ちていた。
肩の震えが、更に大きくなった。
「……どうして、兄さんは……わたしを見てくれるのですか。……あんな酷いことを言ったのに。あの時に兄さんを見捨てたのに。恨んで……いないのです? 怒って、いないのです?」
「……そりゃあな。あの時は正直辛かったし、どうしてこうなったんだ、って思ったのも本当だ。……でも、よく考えてみりゃ俺だって悪ぃってな。皆のことを考えてたのに、俺の不甲斐なさがこうさせたのかってよ。」
「そ、そんなことはないのです! 兄さんは……全然悪いなんてことは……。」
「悪くなくても、だ。俺は、皆に甘えちまってたってことを思い知った。……でも、それは変えられねぇっぽくてよ。俺は結局、また手放せないもんが増えちまった。それも、沢山だ。だからせめて、皆が自慢できるようで有りてぇ、誇りを持てぇなって、そう思えたからからよ。クロウ師匠たちに出会えたのも、幸運だったって、そう思えんだ。……酷いことを言われて、確かに凹んじまったけど、な。それでもクオンを嫌いになったり、恨んだりするのはお門違いだろ。クオンだけじゃねぇ。リナやカレンだってそうだ。俺は、皆のおかげでここに立っていられるってな。……俺は、そんな皆が苦しんでるところは、見たくねぇよ。」
「兄さん……。わ、わたし、は……。」
「だから、俺はクオンを嫌っても、恨んでもねぇ。むしろ、クオン自身が幸せになってくれりゃ、それで良いんだ。……なんたってクオンは、俺にとって大切な家族で、妹だからな。」
レクスは、いつもクオンに向けるような優しげに下げた眼差しで、クオンを見つめた。
クオンは何かを堪えるように俯いている。
ずず、と鼻を啜るような音が聞こえた。
静かに星が浮かぶ闇の中で、ただ二人だけがそこにいるような静寂が満ちていた。
「いや……なのです。」
返って来たのはか細い声だった。
「……クオン。」
「もう、いや、なのです。……そんなこともわからない兄さんなんて、大嫌いなのです……。」
「……そうか。でも、俺は……。」
「わたしは! もう、兄さんの妹なんて嫌なのです! わたしは……! わたしは一人の女の子として兄さんの事が大好きだから! 何時までも妹じゃないのです! 私は……兄さんが欲しいのです! 妹じゃなくて……一人の女の子なのです! いつもリナお姉ちゃんやカレンお姉ちゃんばっかりを見ないで欲しいのです! わたしだって! 兄さんのお嫁さんになりたいのです!」
「ク……オン……?」
唐突なクオンの独白に、顔を上げたレクスは呆気に取られてしまっていた。
思考が追いつかず、真っ白になったレクスの頭を疑問符が埋め尽くす。
次の瞬間。
レクスの眼前に、熱を帯びた翡翠の瞳が迫っていた。
「……んちゅぅ……。」
森林の中にいるような優しい香りととともに、レクスの唇に柔らかいものが重なった。
いつの間にかレクスの背中に回された左腕が、身体の距離を詰める。
年に不相応なほどに育った双丘が、レクスの胸板で柔らかく拉げていた。
クオンと、キスをしている。
その事実に気づくことに、時間は掛からなかった。
(ク……オ……ン……?)
「……じゅる……れぇう……。」
驚くことに、クオンの舌がレクスの口内へぬるりと唇を割って入り込んだ。
雛鳥が餌を求めるように、舌を伸ばして啄むように。
ぴちゃぴちゃと唾液の音が静寂に響き、熱を帯びたクオンの舌はレクスの舌と口の中で、熱烈に絡まりあう。
ディープキス。
ひたすらにレクスの舌を、舐るように舐め回す。
硬い芯のあるようで熱を持った柔軟な舌先を、レクスの舌が自然と包み込むように受け取っていた。
じんわりとしたクオンの体温と、レクスの体温が混ざり合い、唾が自然に交換される。
味などない筈なのに、蜂蜜を濃縮したような、頭がじわじわと痺れるような甘さをレクスは感じていた。
まるでクオンと一体化したようにすら、レクスには思える程だった。
そして、クオンはレクスから唇を離す。
つう、と。
僅かに覗くクオンの紅い舌から、レクスの唇に糸を引いた橋が、月光に輝いた。
熱を持って蕩けたような翡翠の瞳が、ぼぉっと揺らめいてレクスを見つめる。
「クオン、お前……。」
「……これで、兄さんもわかってくれると思ったのです。……もう、兄妹は嫌なのです。わたしが好きなひとは、兄さんなのです。……もう、迷わないのです。わたしは、兄さんの為に生きるのです。」
「……良いのかよ? 確か俺はクオンと血は繋がってねぇ。でも、クオンにはもっと別の……。」
レクスの頬は真赤に染まり、その視線は真っ直ぐクオンを見ていた。
戸惑いながらも何とか言葉を搾りだしたレクスに、クオンはきっぱりと首を振った。
「そう言ったのは、兄さんなのです。他の誰のためでもないのです。わたしは、兄さんの為に生きる、のです。……勇者に穢されたわたしでも、一度兄さんを突き放したわたしでも。兄さんはわたしが必要って、言ってくれたのです。だから……わたしは、兄さんの隣で、生きていたいのです!」
クオンの左眼は、唖然としたレクスに訴えるかのように真っ直ぐだった。
幾らなんでも、これだけされてクオンの気持ちがわからない、なぞ口が裂けても言えないだろう。
その想いを目の当たりにして、レクスの心臓はどきんと大きく、身体中に響くように脈打っていた。
ずっと妹だと思っていた少女が、自身に愛を訴えたのだ。
驚きもあったが、何よりそこまで想われていることが、レクスにとっては嬉しい反面、複雑な気持ちもあった。
(……クオンが、そこまで。……俺も、何もわかっちゃいなかったってことか。)
クオンのことは、嫌いではない。
その容姿は、レクスの好みに合わせたかのように整っているし、その性格も、仕草も、好みすらも全てレクスが知っているのだ。
むしろ、好きであるという感情しか、レクスは持ち得ていないのだから。
だが、今まで「妹」としか思ったことのないクオンからその感情をぶつけられたことに、レクスは驚きの方が勝っていたのだ。
(……クオンが俺を好き、か。)
そう思うと、心にすとん、と何かが綺麗に収まったような、そんな感覚さえあった。
どうやら自分も相当軽い男なのかもしれない。
だが、向けられた熱意には応えなければならないという気持ちは強く心の中にあった。
「……クオン。俺には、もう四人も婚約者がいる。……良いのか? こんな俺でも。」
「四人? 全然構わないのです。……元々、兄さんはリナお姉ちゃんとカレンお姉ちゃんを共々娶るつもりだったことは知っているのです。わたしは、兄さんの側に何人いようと、兄さんと共に生きたいのです。わたしは、結婚するなら兄さんだけなのです。もう、兄さんを裏切ったりしたくないのです。……だめ、なのですか……?」
捨てられた子犬のような、寂しそうに縋り付く翡翠の瞳が、レクスに向けられる。
レクスはふぅ、と頭を掻きながら溜息を吐いた。
どのみち、レクスにはクオンの想いを受け入れないという選択肢は、一片たりとも存在しないのだから。
(……もう四人も婚約者がいんだ。今更か。……カティたちになんて説明すりゃ良いんだ? でも、クオンがそこまで想ってくれてるなら、俺も返さなきゃならねぇな。全力でよ。)
「……わかった。クオンにそこまで言われちゃ、俺も断われねぇよ。その想いは、しっかりと受け取った。どうにか皆に報告しねぇとな。」
「そこは言い切ってほしいところなのです。……でも、ありがとうなのです。兄さん。わたしは、兄さんの為に頑張っていくのです。……でも、その前に、なのです。」
クオンが何かに気が付いたように、レクスから少しだけ離れた。
何か他に言う事でも有るのかと思いつつ、レクスはクオンをその眼中に収めていた。
「……兄さん、今までごめんなさい、なのです。」
クオンがその場で、地面に頭を擦りつけるかのように頭を下げた。
クオンの謝罪に一瞬呆気に取られつつも、レクスは小さく優しげな笑みを浮かべながら首を横に振った。
「気にしてねぇよ。もう、過ぎたことじゃねぇか。確かに痛かったけど、クオンは反省してんだろ? 俺が不甲斐なかったことも事実だしよ。……なら、俺がとやかく言う事じゃねぇよ。それとも、反省してないのか? クオンが。」
「そ、そんな訳ないのです! 兄さん。わたしは……。」
「冗談だっての。……ちゃんと、わかってる。」
「……兄さんの意地悪、なのです。」
クオンは顔を上げて、ぷくっと頬を膨らませた。
紅く染まった頬が、頬袋のように張りつめた。
子供のような仕草にレクスはふっと笑いながら、左手をクオンに伸ばす。
「兄さん? これは……?」
きょとんとするクオンに、「ああ」とレクスは肯いた。
「だから、仲直りだ。クオン、握手……しねぇか?」
「……はい、なのです。兄さん。仲直り、なのです。」
クオンの左手が、レクスの左手に重なる。
握られた指は、すべすべとした白魚のような肌の感触を、レクスに伝えていた。
「……これからも、宜しくお願いするのです。今度は、お嫁さん、として……。」
「……そう、だな。……宜しくな、クオン。」
二人ともに、赤らんだ頬を向かい合わせた。
少し気恥ずかしくなったのか、僅かに視線をずらした。
それでもちらちらと視線は交差する。
「……ふふっ。」
「……ははっ。……似合わねぇな。」
「……兄さんこそ。締まらないのです。」
慣れない可笑しさからか、二人とも同時に噴き出した。
そんな中で、レクスは腰のポケットに腕を入れる。
おもむろに取り出したのは、一つの素朴な木製の指輪だった。
「兄さん……それ……。」
クオンはその指輪を目にして、目を丸くしながらも潤んだ瞳を、レクスへと向けた。
「ああ。欲しがってたろ? スキルを鑑定する日に渡そうと思ったけどよ。……結局、渡しそびれちまってな。……受け取ってくれ、クオン。」
「覚えてて……くれたのですか?」
「当たり前だろ。クオンから頼まれたことだ。……忘れる訳、ねぇよ。」
レクスはクオンへ向け、柔らかく目元を下げた。
指輪には、レクスが彫った丁寧な星のマークが描かれていた。
クオンをイメージした星のマークは、二つの星が寄り添うように重なっている。
「……はい、なのです。兄さん。」
クオンは肯く。
その嬉しそうに細まった眦から、つう、と。
透き通った雫がこぼれ落ちた。
レクスはクオンの左手を手に取り、薬指に指輪を填める。
ぴったりの大きさだった。
「計算通り、ぴったりだったな。」
「……ありがとう、なのです。兄さん。」
「……なんで泣いてるんだよ、クオン。もしかして、寸法があってなかったか?」
「ちがう、のです。……嬉しい、のです。……にい、さん……。」
ぎゅ、と。
クオンがレクスの身体を抱き、背中に腕を回した。
クオンの温もりと柔らかさが、レクスの身体にじんわりと伝わった。
抱き締める左手が、もう離さないと言わんばかりに服を掴んで皺を寄せる。
レクスの肩に顔を埋め、クオンの肩が震えていた。
「兄さ……ん……。うぁっ……あっ……ああっ……。」
聞こえる嗚咽と共に、レクスの肩が冷たく濡れた。
そんなクオンの背中を、レクスはぽんぽんと優しくたたく。
「……おかえり、クオン。頑張ったな。」
「……た、だ……いま……な……のです……。にいさ……あっ……ああっ……うあぁっ……。」
二人が抱き合いながら寄り添う光景。
祝福するように、夜の星がきらきらと明滅していた。
それはまるで、輝く星と月が、二人だけを優しい光で見つめているようだった。
お読みいただき、ありがとうございます。




