繋ぎて留める
その時間、とある老婆は自宅の書斎で本の頁を捲っていた。
幾何学模様の描かれた薄桃色の絨毯の上で、ゆらゆらと揺れるロッキングチェアに身を任せていた。
魔導灯の黄色い光の下で、一人の時間を愉しみながら、グランドキングダムで「最強」と謳われた老婆は口笛を吹かす。
薄桜色の髪を揺らし、本の文章に目を向けては時々含み笑いすら零していた。
持っていた本をパタンと閉じると、膝の上に置く。
寝間着のポケットから煙管を取り出し、就寝前の一服を楽しもうかとした、その瞬間だった。
ぴきん、と。
直感が閃いた音が、頭に鳴り響いた。
薄桃色の瞳を顕にして目を見張る老婆だったが、その次の瞬間には。
「……カハハッ。そうかいそうかい。」
いい笑顔で口元を吊り上げていた。
にやりと可笑しそうに口元を歪め、天井を仰いだ。
「レクス。お前さん、あの子の運命を変えたってことかい。……これで、美味い煙草が吸えるさね。」
機嫌が良くなった老婆は、ふんふんと鼻歌混じりに煙管に葉を詰め始めた。
老婆の脳裏に走ったものは、ある光景が粉々に砕け散ったイメージだった。
麗しい黒髪の少女が、血の海が拡がった《《石畳の上》》で、右眼から血を流して息絶える光景。
そのイメージが、急にガラスが割れるように砕け散ったのだ。
それはつまり。
「……滅多にないことを、やり遂げたもんさねぇ。クククッ。実に気分がいいもんさ。」
老婆は可笑しさが込み上げたように、笑みを含んで呟いた。
可笑しくない、訳がなかったからだ。
それは老婆のスキルである「占い師」の預言に勝ったという「証明」。
◆
(……あれ? まだ……しんでないのです……?)
空に身を委ねるように飛び降りたクオンだが、未だに身体を叩きつけられる衝撃は全く感じていなかった。
感じるのは、吹き上げる風の感覚と、左手首を固く縛られたような、そんな痛みだった。
ゆっくりと、目を開く。
「あ……れ……?」
眼前には、白い病院の外壁がクオンの瞳に映る。
生温い風が、クオンの頬と髪を優しく撫でた。
宙に投げ出した身体は、ぶらんと吊り下げられたように浮いていた。
戸惑いながら、上を見上げる。
掴んでいた人物の荒い呼吸がクオンの肌にあたる。
その翡翠の瞳が、大きく見開かれた。
「はぁ……はぁ……。おい! 何してんだ!」
レクスが伸ばした左手が、クオンの左腕をがっちりと掴んでいた。
歯をくいしめた必死の形相で、頬には汗が浮かび上がっている。
右手は木製のフェンスを鷲掴みに握り込んで、血管が浮き上がっている程だった。
足は病棟の壁面を踏みしめるように踏み込まれ、固定されたように動いていなかった。
「に、にいさ……ん……? なん……で……?」
驚いたように目を向けるクオンに、レクスは左手の力を強めた。
「待ってろ! 今引き上げるからな! 痛いかもしれねぇけど、我慢してくれよ!」
ぐぐぐっと、クオンの身体は持ち上げられていく。
力を込められたせいなのか、がちがちに握られた腕がへし折られそうに握り込まれていた。
歯を立たせながら、レクスはクオンの腕を引きながら屋上の床へと登っていく。
ぷるぷると震えるレクスの身体が、胆力の強さを物語っていた。
信じられなかった。
レクスが自身の手をとってくれるなど、出来過ぎているとすら思う程に。
だが、腕を掴まれている力強さは妄想でも、ましてや幽霊などでもない。
現実の痛みだった。
そんなレクスに抵抗することもなく、クオンはただただ引き上げられるのみだった。
腕を縮めてレクスは木製のフェンスに身体を擦らせながら乗り越える。
「そら、クオン。」
先に屋上の床へと戻ったレクスは、クオンを抱きかかえる。
ぎゅっと抱えられたレクスの体温は、やはりクオンに温もりを感じさせるのには十分だった。
引き上げられたクオンは、その身体をレクスに抱えられ屋上の床へと引き戻された。
冷え切った床の感触が、クオンの太腿を伝う。
クオンをぺたんと座り込ませると、レクスは力を出し切ったと言わんばかりにクオンの前で腰を落とした。
「……なぁ、クオン。どうし……。」
俯いたクオンに、レクスが声をかけようと首を寄せた時だった。
「……どうして、なのですか。」
ぼそり、と呟いた。
「クオン?」
「どうして、このまま死なせてくれなかったのです!」
叫びとともに、クオンが顔を上げる。
目元は歪み、その眦には大量の雫を溜め込んで、溢れていた。
クオンの表情を目の当たりにして、レクスは相当驚いたのか、目を丸くしてクオンの瞳を覗き込んでいた。
「……何が、あったんだ?」
「放っといて欲しいのです! わたしは……にいさんと違ってもう、何もないのです! 弓も引けない、拠り所もないわたしなんて……生きている意味はないのです! あれだけ兄さんを傷つけて……笑ってるわたしなんて兄さんも嫌な筈なのです! ……お願いだから……死なせて、欲しいのです……。」
堪えるように歯を食いしばりながら、憤った声をレクスに向けてぶち撒けた。
レクスは一瞬だけはっとしたように口を開きかけたが、目を泳がせながらすぐに口をつむいだ。
俯いて、口を歪めた。
そのままクオンは、レクスにまくしたてた。
「わたしはもう、弓は引けないのですっ……。もう、わたしを見てくれる人は、誰もいる訳がないのです! 兄さんには酷いことを言ってっ! 勇者にいいように使われて! お姉ちゃんたちにも嫌われて! 「スキル」まで奪われたわたしにっ! 生きてる意味なんてないのですっ! 調子に乗って村を出たわたしが……今更父さんやお母さん、マオ母さまにも合わせる顔なんてない、のです。……お願い、なのです。わ、わたし、を……しなせ……て……。」
翡翠の瞳から、ぼろ、ぼろと大粒の涙が溢れだした。
顔を伏せ、どうしようもない気持ちでクオンは嗚咽をあげる。
ここまで言っても、まだ死なせて貰えない事がクオンには苦しかった。
すぐにもう一度立ち上がり、駆け出せばいいのかもしれない。
だが、レクスに手を掴まれた時から。
クオンは腰が抜けたのか、その場から立ち上がれなくなってしまっていた。
まるで、身体がクオンの死を拒むように。
咽び泣き、頬を伝う涙がぽたぽたと地面に水たまりを拡げていった。
顔を伏せ、ただ何も出来ない自分が嫌で仕方がなかった。
心が、悲鳴を上げていた。
兄が、レクスがクオンを追って来るということなどクオンからしてみれば考えてもみなかったことなのだ。
一度や二度ならず、三度も。
クオンは、レクスにその命を掬い取られたのだから。
「……クオン。……そんな悲しいこと、言うんじゃねぇよ。」
咽び泣くクオンに、ぽつりと声がかかった。
それはいつも村で聞いていた、優しい声。
クオンがゆっくりと、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げる。
目の前のレクスはクオンの瞳を真っ直ぐ見つめて、優しげに目を細めていた。
◆
(……そうか。……あの、野郎……!!)
クオンには優しい顔を向けるレクスの中では、燃え盛るような怒りの感情がふつふつと湧き上がっていた。
しかし、それはクオンの前だから抑えられていた。
今のクオンに、怒り狂うような表情など見せる訳にはいかないからだ。
クオンの話の内容や棘の無い声色から、クオンに掛けられたスキルが解かれた、という事はなんとなくレクスにはわかっていた。
その上で、リナとカレンに何をさせたのかという事すら、想像がついていた。
リナとカレンの二人が、クオンを貶すような態度をとることなど、レクスには考えられなかった。
あの二人なら、逆にクオンを庇うだろう、と。
そう思える程に、二人を信じているからだ。
その上でリナとカレンがクオンを貶したという事は、リュウジの「スキル」による好感度の操作しか考えられなかった。
だが、今はそう思ってもどうしようもない。
目の前のクオンが壊れてしまいそうならば、己が受け止めるしかない。
そう思いながら、レクスはクオンの視線に紅い瞳を合わせた。
赤く泣き腫らしたクオンの眦から、指先で涙を掬い取る。
唐突な仕草にきょとん、とした表情を、クオンは浮かべた。
そんなクオンに向け、レクスは柔らかく口の端を上げた。
「クオン。……悲しいこと、言うなよ。……クオンが役に立たない? そんなことはねぇ。あの時、クオンがいなけりゃダンジョンの突破なんて出来てねぇよ。」
「でも……わたしには、もう、スキルなんて……。」
レクスは首を横に振った。
「なんでスキルがなくなったのかはともかく、スキルがあるかねぇかなんて、関係ねぇよ。あの時、俺やキューはクオンに助けられたんだ。少なくとも、俺やキューはクオンを見てる。誰にも必要とされないなんて思うのは、悲しいじゃねぇか。」
「……それは、兄さんだから言えるのです。兄さんを必要としてくれる人がいて、帰る場所があるからなのです。……そんな場所、わたしにはもう、ないのです。」
「そんなことはねぇ。……クオンのことを心配してるのは、俺だけじゃねぇ。親父や母さん、シルフィ母さんもいる。アオイだって、心配してたんだ。クオンが知らないところで、心配してる奴がいる。だから、死ぬなんて簡単に言わないでくれよ。クオン。」
「でも、わたしは兄さんに酷いことを言ったのです。散々罵って、兄さんの気持ちも考えてなかったのです。……それに、勇者に沢山、わたしは穢されたのです。右眼も、右手も失くしちゃったのです。こんな醜いわたしに……何を求めるのです?」
「……それでも、だ。俺はクオンに生きてて欲しい。醜いだ? そんなことねぇよ。いつだってクオンは可愛いじゃねぇか。それに、クオンが死んだら俺が悲しむ。親父も、母さんも、シルフィ母さんも悲しむだろうが。……そんなこと、俺は望んじゃいねぇよ。」
口元を下げながら、レクスは視線を落とす。
首を振るレクスに、クオンは身体をぷるぷると震わせていた。
クオンの左手が、ぎゅっと握り込まれる。
「……なら! わたしは! 何の為に生きて行けばいいのですか! もう、わたしにはわからないのです! わたしの心すら、信じられないのです! ……知っているなら、教えて欲しいのです! 兄さん!」
涙の混じった荒ぶった声が、煌めく宵闇に響き渡った。
クオンの叫びに、レクスは目を大きく拡げた。
涙を溜め込んで、くしゃくしゃになった顔をレクスに向ける。
その翡翠の瞳は、何処か縋るようにさえ見えたかのように、レクスへと注がれていた。
「そう……だな。」
クオンの言葉に、レクスは少し考え込む。
一つ、言葉が浮かんだ。
だが、それは自分自身のエゴでしかない。
ある種の呪いにもなり得るだろう。
それでも、今のクオンに必要なように思えた。
ふぅ、と息を付き、紅い双眸をクオンへ返す。
「……もし、クオンが自分すら信じられねぇなら、だ。」
「……その時は……どうすればいいのです?」
レクスは、濁りきった翡翠の瞳を見つめながら。
自分勝手の塊であるその言葉を、解き放った。
「俺の為に、生きてくれ。」
お読みいただき、ありがとうございます。




