剥奪の片翼
目の前に立ちはだかるのは、黒く焼け爛れたような人型のナニカ。
クオンは目を見開きつつ、ゴクリと喉を鳴らして息を呑んだ。
それは、姿かたちは人に近しい。
だがその全身は焼け爛れたように黒く、二本脚は獣のように逆関節で立っているようだった。
髪の毛などの体毛は何処にも見当たらない。
眼球が入るはずの黒い眼窩には、青い焔がめらめらと灯っていた。
さらに異様に映るのは、そのナニカの腕が明らかに人のそれではない。
手首の先が大きな鎌状の刃となり、きらりと紅い光を反射していた。
そんな化物が、じりじりとクオンに躙り寄る。
距離を詰めてくる化物の口からは、嗤い声が漏れ出していた。
「ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ! ナツカシイ……ナツカシイ……!」
ボソボソと口の中を転がすように喋る魔物など、クオンが知るはずもない。
ましてやクオンに、魔獣の知り合いなぞいない。
ゆっくり、ゆっくりと近づくその化物は、まるで面白がるようにクオンへと近づいていた。
(な……なんなのですか……!? まじゅう……なのです……?)
化物の姿に、クオンの目と口元は大きく引き攣った。
それは、クオンの知る人間とはかけ離れたように醜い、嫌悪感を放っていた。
言葉を話しているが、話し合って分かってくれるような相手ではないと、クオンの頭が激しく警鐘を鳴らしていた。
じゃり、と。
クオンの足が下がった。
顏を引き攣らせ、身構える。
それはクオンの恐怖から来るものであったが、化物はクオンを見て口元を歪めた。
「ヒャハハハハハハハハハハハハハハハ……コワガッテヤガル、コワガッテヤガル。……オマエモ、コワシテヤル……!」
蒼炎を灯した瞳が、クオンを射抜くように見据えた。
対するクオンは、怖れながらも弓を手に持った。
震える瞳で、化物を見つめる。
(た、たおさなきゃ……。たおさなきゃ、かえれない……)
ずたずたになった心と震える腕で、クオンは背中の矢筒に触れる。
矢の本数は十本そこらだ。
目の前のナニカを斃すには、あまりにも心許ない。
だが、やるしかない。
クオンはおもむろに矢を三本、筒から引き抜いた。
構えた弓に、即座に番える。
恐怖で目を引き攣らせようと、その動きは精密だった。
クオンのスキル「弓聖」は自身の恐怖とは関係なく、機械的に身体が動く。
それは、まるで「呪い」のようでもあった。
矢を番えたまま、姿勢を低くしてクオンは正面を見据える。
「ヒャハハハハハ! ヒャハハハハハ!」
ナニカは、嘲嗤うように声を立てながらクオンへと迫っていた。
動きは緩慢なようにも見えるが、それは余裕の表れなのか、はたまた煽っているのか。
逆関節の脚をひょこひょこと動かし、両手の鎌を交差し掲げてクオンへと近づいていく。
茹だるような灼熱の熱気と、不気味なナニカが醸し出す異様に狂った雰囲気がクオンの恐怖心を煽り、心臓の鼓動を掻き鳴らす。
目の前のナニカは、何を見ているのかはクオンにはわからない。
だがその真っ黒に煤けて鼻のない顔面は、間違いなくクオンの方を向いていた。
クオンの掌に、汗が滲んだ。
既に付けっぱなしの弓懸の中は、汗で蒸れきっている。
まだ、真っ黒なナニカとは距離があった。
いつでも弓を引けるように、僅かに弦を引く。
つう、と。
こめかみの辺りから頬を水滴が伝った。
ぐん、とナニカの姿勢が低く下がった。
合図だと、クオンは悟った。
異形はドンと大地を踏み込み、高く跳躍した。
「クカカカカカカカカカカカカカカーーーー!」
嗤い声とも雄叫びともとれる声を張り上げ、ナニカは空中で己が両腕を振りかぶった。
「ひぃっ……!?」
恐怖に抗いながらも、反射的にクオンの身体は動いていた。
震える脚で蹴り出し、横に跳ぶ。
”ガンッ”と。
一瞬遅れて、クオンの立っていた場所に二振りの鎌が突き立った。
鎌の威力に大地が削れる。
微細な小石が弾け飛んだ。
小石がクオンの頬を掠め、僅かに赤い線が走った。
クオンはその威力に、怖れを隠すことなど出来なかった。
あの鎌が自身に触れれば、いとも簡単に切り裂かれてしまうだろう。
クオンも鎧を身に着けているとはいえ、最小限しか身に着けていない。
弓の邪魔になってしまうからだ。
さらに、射手が戦闘の前線に立つことなど、普段通りの戦いでは絶対に起こり得ない。
基本的に射手は後衛であり、前線に立つ剣士などの補助が主な役割なのだ。
通常はリナがその役割を受け持ち、クオンに魔獣が寄ってくることなど殆どなかった。
しかし今、いつも頼れるリナはいない。
クオンのみで、気味の悪い”ナニカ”に対処しなければならないのだ。
その相性は、最悪といえた。
ナニカを横に見て着地したクオンは、直ぐに駆け出した。
番えた弓矢を下方に構え、痛む脚を懸命に動かす。
その様子を、”ナニカ”は首を横に向け、嗤いながら見ているようだった。
はっ、はっ、と息を切らし、クオンはステージの外周を走る。
(いや……いやなのです……! しんじゃうのは、いやなのです……!)
走る間も、湧き上がる恐怖からか涙が溢れていた。
外周をかけるクオンを嘲笑うように、”ナニカ”は鎌を地面から引き抜く。
余裕を持ったように、クオンへと振り向いた。
首をぐりんと曲げ、ニタニタと口元を吊り上げ嗤う。
「オイカケッコカァ……? イイゼェ……。」
鎌を横に拡げ、異形はドン、と地面を蹴り抜く。
跳躍に適した逆関節の脚は、爆発的な加速でクオンに迫った。
瞬間。
クオンはくるりと向き直り、弓を構えた。
震える手で弓を引き絞る。
震えていようと、「スキル」に支障は無い。
ひょうと、矢を放った。
三本の矢は拡散し、ナニカの眼前に迫る。
絶対に躱すことの出来ない矢は、異形の首や顔に飛び込んでいく。
だが、そのナニカは。
「ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
声を大にして嗤っていた。
瞬時に脚を突いた。
脚を軸に身体を捻る。
人間にはあり得ない動きで上体を逸らした。
すぱん、と。
直後に鎌の一閃が迸り、三本全ての矢を打ち払った。
クオンはその光景を目にして、呆気に取られた。
「そん……な……。」
あり得ない、と。
クオンはそう思うほかなかった。
そのまま”ナニカ”は曲芸のように地面を踏みしめ、立ち上がる。
「ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハ! オマエノユミジャ、オレニカテネエヨ!」
嘲笑う”ナニカ”は、再びクオンにその蒼炎の眼差しを向ける。
ぞわり、と。
クオンの背筋を、怖気が一気に駆け上がった。
(こわいのです……いやなのです……しにたくない……しにたくない……しにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくない………………!)
生物的な嫌悪感、異物への恐怖感、そして……死への恐怖感。
綯い交ぜになった恐怖が、クオンの頭に波のように押し寄せる。
勝てない。
それは、直感だった。
だが、死にたくもない。
直ぐに矢を矢筒から引き抜き、番えた。
恐怖心に抗うように、一気に弓矢を引き絞る。
「……サンダードレープ……!?」
クオンが魔術と共に矢を放とうとした、その時。
異形が、右手の鎌を振るった。
絶対に届かない距離のはずだった。
瞬間。
鎌が、伸びた。
それは、紐が延びることで攻撃距離を延ばす、いわば蛇腹剣。
伸びきった蛇腹の鎌が迫るのは、クオンの構えた弓。
ぱきん、と。
呆気なく、弓が両断された。
壊された弓の残骸に、クオンの目の前が真っ白になる。
(あ、あ、あああああああああああああああああ!!?)
声にならない悲鳴が、クオンの震えた喉から漏れ出る。
それは、「詰み」だった。
武器である弓を破壊されてしまえば、クオンはただの非力な女の子にしか過ぎないのだ。
弓以外の攻撃方法は、魔術だけであった。
だが、クオンの魔術媒体である弓を破壊されたことで魔術を唱えることが出来ない。
返す手段は、無かった。
振り抜かれた蛇腹鎌が、するすると戻っていく。
「ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハ! ……コノニオイ……オマエ……エルフダロ? ……ユルサネエ……ユルサネエ……ユルサネエ……エルフノセイデ、オレハコンナトコニイル! コンナカオ二ナッチマッタ……! アノクソエルフトオナジニオイ……!」
異形が底冷えするような声を放ち、叫ぶ。
眼窩に灯る蒼炎が強く燃え上がり、クオンを睨みつけているようだった。
身の毛がよだつような嗄れ声に、クオンの奥歯がかたかたと震える。
「ひ……ひっ……な、に……をいって……。」
既に歪みきったクオンの眼からは、恐怖で止めどなく涙があふれ出していた。
身体は動かない。いや、動けないのだ。
恐怖と、疲労を貯め込んだ身体の限界。
逃げ出したいのに、身体がいうことを拒否していた。
「オレハ……エスランクノボウケンシャダッタ……ソレナノニオマエガジャマシヤガッタ!……ケンペイ二タレコミヤガッテ!」
訳の分からない言葉を一人で語りながら、異形はクオンを青い焔の目で睨みつける。
クオンはただ、怯えながら立ち竦んでいた。
「シィィィィィィィィィネェェェェェェェェ!」
異形が、両手を振り抜く。
鎌が紐を伝い、大きく伸びた。
クオンに、今なす術はない。
逃げ場も無い。
もろに当たってしまえば、この世との別れは確実だった。
だが、クオンは。
(……しにたく……ない……!)
その思いが、僅かに身体を動かした。
ほんの僅かに身体を捻り、顏を引いた。
刹那。
酷く強烈な、身体を裂かれる痛みがクオンに襲いかかった。
「がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっっっっっっ!!!!」
それは、想像を絶する激痛。
繊維がぶちぶちと断ち切られる感覚に、白い喉が絶叫で震えた。
視界が、紅く染まった。
目の裏返るような激痛に耐えながら、クオンは膝から崩れ落ちる。
切り裂かれたポーチから、集めた魔核がバラバラと溢れ落ちた。
同時に黒く透き通った液体の入る瓶も溢れ落ち、パリンと音を立てて割れる。
音と共にクオンの存在理由が、自身の中で消え失せたように感じていた。
少し遅れて、ぽちゃん、と何かが溶岩溜まりに落ちた音が虚しく響いた。
肉の焼ける臭いが、じんわりと辺りに漂った。
痛みの走る右肩をクオンは押さえる。
ぐちゃりと濡れた肉の感触が伝わり、手がべたつく液体で赤く染まった。
右の肩から先が、《《無かった》》。
左手で押さえ込んでもだらだらと流れ落ちる赤い血液が、服を濡らし地面を滴って流れる。
顏の右側からも、生暖かい液体が流れ落ちていた。
深く抉られたように、右眼が潰れていた。
膝を折ってへたり込み、輝きを喪った左眼で異形を見つめる。
異形は蛇腹鎌を振り回し、嗤っていた。
「シナナカッタカァ! ヒャハハハァァ! ブザマダナァ! クソエルフゥ! オマエノセイデ……オレハシンダンダヨォ!」
怒りを顕に、異形は腕を振りかぶる。
次こそ、クオンに避ける術は無い。
血の噴き出る右肩を押さえながら、虚ろな瞳で上を天井を見た。
(……しにたく……ない……。)
迫る死を、クオンは受け入れられなかった。
まだ、生きたかったのだ。
誰かに褒められて、必要とされたかった。
可愛い服でお洒落して、街を歩きたかった。
大切なひとたちと、笑い合いたかった。
だからこそ、クオンは己の死を否定した。
「た……す……け、て……。」
それは、ほぼ無意識に口から溢れ出た。
ふと脳裏に浮かぶのは、最も頼りになるひと。
大嫌いなのに。
顔も見たくないのに。
頭に灼き付いて何時までも離れないその顏が、にっこりと脳裏で微笑んだ。
じわりと、左目に涙が滲んだ。
「に……い……さ……。」
「ああ。待ってろ。」
クオンの前に、すとんと誰かが降り立った。
襤褸切れのようなローブがはためき、橙色の髪が太陽のように翡翠の瞳に映った。
きん、きんと。
その人物は手に持ったX字型の銃剣を巧みに振るい、蛇腹鎌を弾き出した。
そのまま流れるように、銃口を向ける。
発砲した。
”ドドドン”と三発の光弾が放たれた。
「ギャッ……!?」
炸裂。三発の光弾が胸元に着弾し、異形が仰け反る。
のたうつ異形を尻目に、ちらりと紅い瞳がクオンに向けられた。
「あ…………。」
声が、出ない。
そこに居るはずのない、脱出したはずの人物が、クオンの前に立っている。
自身が最も嫌い、顔すら見たくないと望んだ男。
だが、何があっても絶対に信じられるという相反する感情を、クオンは持っていた。
少年の背中を見て、クオンの心臓が跳ねる。
噴き出づる紅焔を宿したその瞳は正面に向き直り、異形に向けて鋭い視線を飛ばしていた。
「……ごめんな。遅れちまってよ。」
かけられた言葉は、いつもと同じ優しい声だった。
どんな時も、クオンを心配してくれた優しい声。
どんな時も、クオンを励ましてくれた優しい声。
どんな時も、クオンが勇気をもらった優しい声。
ぽろぽろと、左眼から雫が溢れ落ちる。
憎々しいほど、話すことすら嫌な筈なのに。
クオンの心臓が、苦しいほどに痛み出した。
「な……ん……で……。」
「決まってんだろ。俺は、クオンの「兄さん」だからな。」
僅かに口元が上がった次の瞬間に、その口元は真一文字に結ばれる。
「……てめぇ……クオンに酷ぇことしてくれたな……。」
「ヒャハハ……。ハ……!?」
ふらりと立ち上がり、嗤い飛ばそうとした異形が、ぶるりとその身体を震わせる。
明らかに、クオンの目の前に立つ少年を畏れていた。
少年から放たれる怒気を感じ取ったからなのかもしれない。
じゃきり、と。
少年は黒光りする銃口を異形に向け直した。
「ナンダ……オマエ?」
「……誰だっていいだろ。……てめぇを地獄に送ってやる。直ぐにでもな。」
静かに、されど声に極寒の闘気と殺意を乗せて。
大切なものを踏み躙り、切り刻もうとした相手に向かい合う、少年の怒気は膨れ上がっていた。
若き闘鬼が、比翼の雛鳥の前に舞い降りた。
お読みいただき、ありがとうございます。




