始まり-3
その日の午後。叔父さん遅いなあ、と思いつつエリシアが本を読んでいると、遠くの方から爆発音のようなものが聞こえた。その数秒後に、外から悲鳴が聞こえ始める。
エリシアは慌てて家の外に出た。すると、村人はみな西の方角を見て震え上がっている。倣ってそちらへ目を向けてみれば、大きな煙と火がそちらから上がっていた。そして、風に乗って聞こえてくる金属音と怒声……
「戦……?」
嘘だ、なんでこんなところで。いきなり、こんな時に。馬の足音とか聞こえそうなものなのに、全く聞こえなかった。……何で。
(村の方まで来たら、どうしよう)
そんなことを考えていると、手足の先からどんどん冷たくなるようだった。ゾッとする。だめだ、そんなこと、させない。エリシアは反射的に家の中へと戻り、素早く叔父への伝言を残した。そして裏口から出て行き、人目につかないよう森の方へと向かう。そして森の中に入り、アギオンの姿に変わった。
(まさか、一日に二度もこの姿になるなんて……)
戦争に行って欲しくないと言った、叔父の顔が過る。だが、別に参加するつもりはない。ただ、どれくらいのところまできているのか、そして規模はどのくらいなのか、それを確認するだけ。だから、大丈夫。
エリシアはギュッと目を瞑り、そしてまた開いた。それを合図に、木の枝へと上って行き素早く枝を伝って森の中を駆けて行く。神の力とは偉大だ。何の神の力かもわからないエリシアの神力だったが、それでもこのように人間離れした速さで駆けることができる。戦争に使いたくなるのもわかる。
時折葉や枝が顔を掠めて擦り傷を作るが、構わなかった。構わずに走っていると、ようやく森を抜けた。森の端っこにあるその木の枝から見下ろす景色は、想像もつかないようなものだった。
広大な草原に、エリシアから見て右……王都側に人間の軍、そして左に魔族の軍がズラリと並んでいた。それほど大きな戦ではないのかもしれないが、それにしてもエリシアにとっては初めての経験だ。方々で踊るように燃えている真っ赤な炎、薄く高く上がっている煙、そこかしこに倒れる人や魔族、広がる赤黒い液体、噎せ返るような鉄と土のにおい、地を震わすような怒号、空気を震わせる金属音ーーーー全てが、エリシアの心を震わせた。恐ろしい、と思った。逃げ出したい、と反射的に思った。戦争に行って欲しくないと言った叔父の言葉が、わかるような気がした。そして同時に、気づく。
(叔父さんは、戦を見たことがあるんだ……)
この光景を見たことがあるのだ。それは戦う側か、それとも今のエリシアのように傍観していたのか、わからない。けれど、見たことがあるのだ。この空気を肌で感じたことがあるのだ。そして同じように恐怖したに違いない。
「……こんなもの、どうすれば……」
神力があったって、こんな大勢はどうすることも出来ない。まず、エリシアは自分がどんな力を持っているのかすら知らないのだ。小さい頃から使わないようにしてきたのだから。神の力と言ったって全てが戦に応用できるものではなく、例えばメティスのように知恵を使うような神だっているのだ。
逃げた方がいいのか、と考えていると、ヴン、という音が耳元で響いた。その直後にすぐ横の木の幹に矢が刺さる。ハッとして前方を見ると、誰かがこちらを指し示して何か叫んでいるようだった。するとその周りの人々がエリシアの方を向き、武器を構えてやってくる。マズい、とエリシアは森の中に逃げた。だが、どうすればいい。このまま村に近付いたら、兵がそちらまで行ってしまう可能性がある。ならば、なるべく離れなければならない。
エリシアは自然と、王都から離れる方角へ向かっていた。それはつまり、魔族軍の後方へ行くということだ。それはわかっていたが、でも、他にどうしようもなかった。木から降りて、木々の間を縫うように地面を駆けて行く。ふと、後ろから何か鋭いものが飛んでくる音が空気を伝って聞こえてきた。唸るような音だ。走りながら振り返ると、近くに風の刃が迫ってきていた。反射的に飛び上がり、それを避けるとそのままの勢いで木の幹を蹴って宙に飛び上がった。枝に飛び乗り、葉の間に隠れるようにして息を潜める。
「…………」
下から落ち葉を踏む音が聞こえない。どこにいるのかすらわからない。どうしよう、と唾を飲み込んだ次の瞬間、身体がぐらりと揺れーーそのまま地面へと落ちていった。
「っ……」
何が起こったのかわからなかったが、近くに大きな枝もたくさん落ちていたことから、枝ごと切られたのだとわかる。ザク、と落ち葉を踏みしめる音が前から聞こえてきて、エリシアは慌てて立ち上がった。
目の前には、三人の魔族。各々角を持ち、その耳は尖っている。それ以外はあまり人間と変わらない容姿をしていた。
(一対三、しかも相手は剣を持っていて魔法も使える……)
対して私は、本当に微かな初歩的な魔法しか使えず丸腰だ。神力はあるが、今のところわかっているのは普通の人間の数倍の身体能力があることくらい。絶体絶命、四面楚歌とはこのことである。魔族はじりじりと距離を詰めてきて、そして何やら手を向けてきた。魔法を使う気だろう。きっと、これを受ければ私は死ぬ。嫌だ、と反射的に思ったのと彼らの手が光ったのは同時で、その一秒後には私は彼らの前に移動していた。
「なっ!」
彼らの一人が声をあげる。私は何かに操られているかのように、その一人の腹に拳を叩き込んでいた。そして落ちた剣を取り、その刃で残りの二人の腹を斬りつける。真っ赤な鮮血が飛び散り、エリシアの白いワンピースのような服に飛び散った。
ドサ、という音と共に魔族はみな落ち葉の上に倒れた。傷は浅いようで、流血は少ない。が、それでも辺りを覆い尽くすくらいには濃い鉄臭さに、エリシアはようやく我に返った。そして自分の手の中の血で汚れた剣と魔族たちを見比べ、小さく悲鳴を上げる。
「うそ……違う、私は……」
私はやってない。私じゃない。そう言おうとしたが、言葉は出てこなかった。代わりに喉からはヒューヒューと乾いた空気が出るだけで、エリシアは後ずさってその背中を木の幹にぶつけた。そしてそのまま、ズルズルと地面へ座り込む。
違う、私じゃない。けど、私がやった。この手で。感触が、残っている。やけにリアルな、肉を断つ感覚だ。最初は刃を入れにくいが、一度入ればそのままスルスルと切れてしまう。動物の肉を斬る感覚と、殆ど同じだ。それを理解した途端、全身が粟立つ感覚を覚えた。
「……は、」
上手く呼吸ができない。足にも上手く力が入らない。そんな状況なのに、右手は剣を握りしめたままだった。まるでそれが普通で、正しいことのように。
「なんなの……」
エリシアは顔を歪めて、忌々しげに汚れた剣を見つめた。しかし、少し離れたところから爆発音が再度聞こえてきたせいで、すぐさまそちらへ意識を傾けた。そして唐突に、逃げなければ、と思い、立ち上がる。しかし、その時には魔族の軍はエリシアの存在に気づいていた。
ちょうどエリシアは魔族軍の後方におり、回り込んだ状態だった。森があれば、もちろん戦略として回り込むことも考えるだろう。魔族軍は王国軍のその行動を警戒して終始森の方に目を光らせていたらしい。そしてそのことを更に読んでいた王国軍は、わざわざ森に兵を分散させて魔族の狙い通りになるようなことは、しなかったのだろう。
けれど、王国軍でないエリシアがそんなことを知るわけもない。ただ、魔族三人が向かったなら大丈夫だと、エリシア一人くらい殺せると、高を括っていたらしい。魔族軍はその誤算にようやく今気づき、そして動き始めたのだった。数人がエリシアの元へと猛烈なスピードでやってくる。魔法で飛んでいるのだ。エリシアはその間に、考えた。どうせ逃げられるはずもないのだから戦わねばならない。その場合、森に入るのはリスクがでかい。足音で場所がバレるし、登ろうものならこの辺一帯の木を全て切り倒しかねない。かといって草原に出れば、遮るものがない。
「けど、遮るものがないのは彼らも同じ……」
魔法は詠唱までに若干だが時間がかかるのが難点だ。また、一度集中を削がれると魔法を構築する式がブレてうまく発動しない場合もある。だからだろう、魔族はきちんと武器も持ち、かつ鎧も身にまとっている。肉弾戦に持ち込まれてもある程度は対抗できるように対策しているのだ。剣と魔法を扱える戦いの猛者数人と、今日初めて剣を握り神力もまともに使えない素人一人。どちらが有利かは、目に見えている。
(きっと、どちらにせよ死ぬわ……)
もう逃げられない。森に入って逃げ惑った末に殺されるか、草原に出て戦って殺されるかだ。エリシアは唇を噛み締め、……そして草原へと飛び出した。
運が悪かった、そして自業自得だ、としか言いようがない。叔父の言葉を尊重して、何が何でも近づかなきゃ良かった。まあ、そんなことも今更後悔しても遅い。エリシアは自嘲するように口元を緩めた。不思議と死ぬことは怖くない。ただ、唯一の家族である叔父のオーウェンを残していくことだけが気掛かりだった。
(ごめんね、叔父さんーー)
心の中で謝りながらエリシアは剣を構え……そのままの勢いで敵にそれを振るった。




