第2話 返していただくだけです
前編「その値では売れません」からの続きです。
商魂を取り戻したルーシー・アンが、夫と向き合います。
馬車の車輪が、石畳の継ぎ目を拾うたび、小さく軋んだ。
ベッツ侯爵邸からの帰り道は、行きよりも長く感じられた。
向かいの席には、フランツが座っている。屋敷を出てから、まだ一言も口をきいていない。
ルーシー・アンは、窓の外の暗がりを見るともなく見ながら、まったく別のことを考えていた。
あの花器。新興の商家なら、店の顔として欲しがる家が二軒は思い浮かぶ。藍の平皿は、まず好事家の食卓に十枚。三か月後に窯元の名を出して――。
疲れているはずだった。腰も重い。それなのに、頭の芯だけが、久しぶりに冴えていた。
「皇女殿下と、何を話していた」
フランツの声が、車内の静けさを破った。
「陶器の値付けと、売り先について少し」
ルーシー・アンは、正直に答えた。
フランツは、窓のほうを向いたままだった。
「ずいぶん楽しそうだったな」
責める調子ではなかった。けれど、褒めてもいなかった。
「君はもう、トゥーリア家の商人ではない」
フランツは続けた。
「ベレレス男爵夫人だ。ああいう場で商売人のように振る舞うのは控えてくれ」
馬車の軋みだけが、しばらく続いた。
以前の自分なら、ここで「申し訳ございません」と言った。言ってから、窓の外を見て、何も考えないようにした。
今夜は、言葉が喉で止まらなかった。
「皇女殿下から尋ねられたことへ、お答えしただけです。お尋ねを受けて黙っている方が、失礼にあたりましょう」
フランツが、初めてこちらを見た。
黒い瞳に驚きが浮かび、すぐに眉間へ浅い皺が寄った。
だが、彼はそれ以上言わなかった。
ルーシー・アンも、それ以上言わなかった。
ただ、夫婦の間を満たす沈黙は、もう以前と同じものではなかった。
◇
翌朝、ルーシー・アンは執務室へ呼ばれた。
フランツは机の向こうに座り、その脇にグスタフが立っていた。少年は、落ち着かない様子で義母と父を見比べている。
「今後、帳簿と契約書は、私とグスタフで扱う」
フランツは、前置きなしに言った。
「屋敷や領地の取引について、今後は私の許可なく指示を出さないでもらいたい」
昨日までの「確認を得てから」ではなかった。
出すな、だった。
「それから」
フランツは、机の上へ手のひらを差し出した。
「帳簿棚の鍵を、返してもらおう」
ルーシー・アンは、腰の小物入れへ目を落とした。
五年間、毎朝そこにあった鍵。真鍮の把手は、もう指になじむほど擦れていた。
鍵には、手を伸ばさなかった。
代わりに、顔を上げた。
「では、葡萄酒商との契約更新は、どのようになさいますか?」
「……何の話だ」
「今月末が更新期限です」
フランツは、わずかに眉を寄せた。
「これまでどおり更新すればいいだろう」
「昨年と同条件ではございません。来期から二割上がります」
執務室が、静かになった。
「先方は値上げの打診状を寄越しています。今のうちに他の商会と相見積もりを取れば、据え置きか、一割増しで押さえられます。放っておけば二割です」
フランツは、答えなかった。
「麻布の仕入れは」
ルーシー・アンは続けた。
「南街の問屋に、質のよい在庫がまとまって出ています。今週中に押さえなければ、他家へ流れます。冬までに使用人の衣類を新調するなら今が一番安い」
「…………」
「ご存じでしたか?」
フランツは知らなかった。
グスタフも当然知らない。少年は、助けを求めるように父を見て、それから義母を見た。
ルーシー・アンは、グスタフへは何も向けなかった。十五歳の少年が、昨日今日で知っているはずのないことだ。
向けるべき相手は、決まっていた。
「グスタフへお教えになるのでしたら、まず現在動いている契約から説明なさるべきです」
「細かなことは、これから覚えればいい」
フランツの声に、苛立ちが混じり始めた。
「細かなこと、ですか」
ルーシー・アンは、静かに問いを重ねた。
「では、胡桃と蜂蜜の今の売り先を、いくつご存じですか? 帝都の菓子職人は三軒。それぞれ支払いの期日が違います。一番大口の職人の支払いは収穫の二か月後。その間の資金は、どこから回しますか?」
フランツは、答えられなかった。
「今年の収穫の見込みは? 取引先ごとの掛けの上限は――」
「もういい」
フランツが、苛立たしげに言葉を遮った。
ルーシー・アンは口を閉じた。だが、目は逸らさなかった。
「わたくしを外されるのでしたら、最低限、これらを把握していただかなければ困ります」
ただ、五年間この家を回してきた者として、引き継ぎに必要なことを並べただけだった。
だが、フランツの顔は、そうは受け取っていなかった。
「……だから何だ」
声が、荒くなった。
「君は商人の家で育った。金勘定が得意なのは当然だろう」
「五年前は、その商人の知識が必要だったのではありませんか」
「もう借金はない」
フランツは、机を平手で押さえた。
「この家の当主は私だ。いつまでも商人の娘に、ベレレス家の采配を振るわせるつもりはない」
――商人の娘。
ルーシー・アンの中で、五年分の言葉が、一本の線につながった。
商人なら、金勘定は得意なのだろう。
この家のことは、最終的には私が決める。
社交の場で商売の話をするのは控えてくれ。
そして昨夜、皇女の前で商売を語る妻を見ていた、あの強張った顔。
感謝が減っていったのではなかった。
感謝しなければならないことが、増えていったのだ。この人の中で。
「あなたは」
ルーシー・アンは、静かに尋ねた。
「わたくしがこの家を立て直したことを、恥じておられたのですか?」
フランツは、すぐには答えなかった。
その沈黙が、どんな言葉よりも長く響いた。
やがて、彼は目を逸らした。
「……周囲が何と言っているか、君には分からない」
絞り出すような声だった。
「ベレレス家は奥方でもっている。男爵は妻の言いなりだ。そんなことを、何年も――」
言いかけて、フランツは口を閉じた。
言いすぎたと気づいた顔だった。
だが、もう遅かった。
夫は、妻が必要なくなったから遠ざけたのではなかった。
妻がいなければこの家を立て直せなかったこと。自分より妻のほうが有能だったこと。
その事実を受け入れられないまま、五年間を過ごしてきたのだ。
フランツは咳払いをひとつして、当主の声に戻った。
「君はもう十分働いた」
穏やかな声だった。前にも聞いた種類の。
「これからは子を産み、男爵夫人として家を守ればいい」
ルーシー・アンは、腹元へ手を置いた。
少し仕事を減らした方がいい――数日前のあの言葉と、形はよく似ていた。
けれど、今日の言葉は違った。
これは気遣いではない。この先の自分の生き方を、この人が決めるという宣言だった。
ふと、昨夜の光景が胸をよぎった。
長話を始めたのは私だな、と、椅子ひとつのことで自分の非を引き取った人がいた。
その記憶は、ただ通り過ぎた。
決めるのは、自分だ。
「分かりました」
ルーシー・アンは言った。
フランツの肩から、目に見えて力が抜けた。妻が折れた。そう思った顔だった。
「では、離縁いたしましょう」
執務室が、凍りついた。
グスタフが、息を呑む音がした。
「……何を言っている」
「あなたは、わたくしにこの家のことへ口を出してほしくない」
ルーシー・アンの声は、静かなままだった。
「わたくしは、自分の仕事を捨てたくない。でしたら、夫婦であり続ける理由がございません」
「正気か。身重の体でどこへ行くつもりだ」
「トゥーリア家がございます」
「男爵夫人の地位を捨てると言うのか。商人の娘に戻って、それで――」
「わたくしは五年前から、ずっと商人の娘です」
フランツが、言葉に詰まった。
「子供はどうする。腹の子は、私の子だぞ」
「離縁の条件については、改めて正式にお話しいたします」
ルーシー・アンは、それだけを告げて頭を下げた。
腰の小物入れの中で、鍵が小さく鳴った。
まだ、渡さなかった。
◇
その日の夕方、部屋の扉が控えめに叩かれた。
グスタフだった。
少年は敷居のところで立ち止まったまま、しばらく床を見ていた。
「母上」
やがて、顔を上げた。
「父上が母上に冷たくなっていたことは、分かっていました」
ルーシー・アンは、黙って続きを待った。
「僕は、止められなかったんじゃありません」
グスタフの声が、震えた。
「怖くて、止めなかったんです」
十五歳の目に、涙が盛り上がっていた。
ルーシー・アンは、すぐには慰めなかった。
嘘になる言葉は、この子には言いたくなかった。
「怖かったことを、なかったことにしなくていいわ」
彼女は、静かに言った。
「でも、次に同じことを見た時、どうするかは、あなたが決めるのよ」
グスタフは、唇を噛んで、何度もうなずいた。
その夜、アリスは泣いた。
「わたしが、何かいけないことをしましたか?」
しゃくり上げながら、そう尋ねた。
「お義母様は、わたしのこと、嫌いになりましたか?」
「いいえ」
ルーシー・アンは、小さな体を抱き寄せた。
「あなたと家族だった五年間まで、なくなるわけではないのよ」
アリスは、ルーシー・アンの胸に顔を押しつけて、長いこと泣いた。
やがて、濡れた顔を上げた。
「お手紙を、書いてもいいですか?」
「もちろんよ」
答えた声が、思ったよりも掠れた。
腹の子が生まれたら絵本を読む、とこの子は言った。
その約束の形は、変わってしまう。
ルーシー・アンは、アリスの黒い髪を撫でながら、天井を見上げて、目の縁に溜まったものを止めた。
これは、勝つための選択ではなかった。
大切なものを、置いていく選択でもあった。
◇
協議の前日、廊下でフランツに呼び止められた。
二人きりだった。
「……考え直せないのか」
フランツの声から、当主の響きが抜けていた。
ルーシー・アンは、答えなかった。
フランツの視線が、彼女の腹元へ落ちた。
「その子まで、連れていくつもりか」
「この子と、わたくし自身の人生を、今度はわたくしが決めます」
自分の言葉だった。
誰の借り物でもない。
フランツは、何も返せなかった。
◇
翌日。
ベレレス男爵家の応接室に、長い卓が据えられた。
ルーシー・アンとフランツ。トゥーリア家から来た代理人。ベレレス家側には家令。卓の端には公証人が座り、傍らには会計担当が帳簿の束を抱えて控えていた。
会計担当は、何も言わなかった。
ただ、求められた帳簿を、求められた順に、正確に卓へ載せていった。五年分の数字を、誰よりも近くで見てきた男の手つきだった。
協議は、淡々と進んだ。
ルーシー・アンが婚姻前から持っていた財産は、本人へ返還する。
婚姻時に彼女が男爵家へ投じた私財は、帳簿と証書の記録に基づいて精算する。
五年の間に彼女個人の財布から立て替えられた支出も、同じく返還する。
離縁に伴う補償は、双方の代理人が妥当と認めた額とする。
腹の子は、出生後、ルーシー・アンが養育する。フランツの実子であることは、記録に残す。
グスタフ、アリスとの文通と、本人たちが望む範囲での交流は、妨げない。
そして――爵位、領地、領地収入、男爵家の基幹となる資産には、ルーシー・アンは一切手をつけない。
彼女名義の財産はそのまま返還され、それ以外の精算金も、男爵家の余剰資金と、売っても家の屋台骨に響かない資産の範囲で賄えるよう組まれていた。
この家を再び借金まみれにしない範囲を、誰よりも正確に計算できるのは、他の誰でもない、彼女自身だった。
条文を読み終えたフランツが、書面から顔を上げた。
「……ここまで持っていくのか」
声に、怒りはなかった。ただ、呆然としていた。
ルーシー・アンは、顔を上げた。
「持っていくのではありません」
卓の上の帳簿と証書へ、そっと指先を置く。
「返していただくのです」
フランツが、言葉を失った。
「爵位も、領地も、借金のない男爵家も残ります」
ルーシー・アンは続けた。
「わたくしは、あなたからベレレス家を奪うつもりはございません」
「……なぜだ」
フランツの声は、ほとんど独り言だった。
「五年間、守ろうとしてきた家ですもの」
ルーシー・アンは、静かに答えた。
「壊したいと思ったことは、一度もありません」
フランツの顔に、初めて別の色が浮かんだ。
ようやく何かに思い至ったように、ルーシー・アンには見えた。
だが、その理解が来るのが、五年遅かった。
公証人が、署名を促した。
フランツが、先にペンを取った。長いためらいの後、署名した。
ペンが、ルーシー・アンへ回ってくる。
彼女は、書面を最後にもう一度確かめた。
数字。日付。条件。署名欄。
どれも間違いがない。
五年前、嫁いできた日に見た帳簿と、同じ確かめ方だった。
ルーシー・アンは、署名した。
ペンを置く。
それから、腰の小物入れを開け、真鍮の鍵を取り出して、卓の上へ静かに置いた。
把手のすり減った、五年分の鍵だった。
会計担当が、両手でそれを受け取り、深く、深く頭を下げた。
誰も、何も言わなかった。
窓の外は、まだ午後の明るさの中にあった。
ルーシー・アン・ベレレス男爵夫人としての五年間が、そこで終わった。
お読みいただきありがとうございました。
本編はここで一区切りです。
次話は後日談「お騒がせ皇女は品を持ち込む」。
離縁から一ヶ月後、今度はサージェッツァ皇女の視点から、その後を描きます。




