第3話 後日談 お騒がせ皇女は品を持ち込む
本編後の後日談です。
今回は「お騒がせ皇女」サージェッツァ視点。
ルーシー・アンの離縁から一ヶ月後のお話です。
皇女宮の私室には、朝から品物が積み上がっていた。
若い陶工から届いた花器。画家の習作。銀細工師が試しに拵えたという銀細工の小箱。添えられた目録と紹介文。
サージェッツァは、そのうちの一つ――胴の張りに癖のある花器を手に取り、光へかざした。
釉薬の流れが、以前見せられたものより整っている。
悪くない。だが、値と売り先を決めるのは、自分の仕事ではない。
「ドレン」
サージェッツァは、振り返らずに命じた。
「ベレレス男爵夫人を呼べ。見せたい品が増えた」
控えていた侍従は、すぐには動かなかった。
「殿下」
静かな声だった。
「あの方はもう、ベレレス男爵夫人ではございません」
サージェッツァは、顔を上げた。
「……何?」
「先月、ベレレス男爵と正式に離縁なさいました。旧姓へ戻られ、現在はルーシー・アン・トゥーリア様です」
ドレンは、淡々と続けた。
離縁の協定はすでに成立していること。
財産についても、男爵家を再び負債へ沈めない範囲で精算を済ませたこと。
そして、帝都の大通りから一本入った場所に小さな店舗を借り、商屋を開いたこと。
「なぜそうなった?」
「家庭の事情、としか」
ドレンは一度言葉を切った。
「ただ、社交界では別の噂も出ております」
「聞こう」
「ベッツ侯爵家の夜会で、殿下がベレレス男爵夫人と長く話しておられた。その直後に離縁したため――」
ドレンは、わずかに間を置いた。
「殿下が離縁を勧めたのではないか、と」
サージェッツァは、しばらく黙った。
「私は、品の値を聞いただけだぞ」
「そのとおりでございます」
「離縁しろとは、一言も言っておらん」
「はい」
沈黙が、少しの間、部屋に落ちた。
「では、すべてあの女が自分で決めたのか」
「左様でございます」
サージェッツァの口元が、わずかに上がった。
「……ますます気に入った」
だが、その笑みはすぐに消えた。
「しかし、いくら私でも、他人の離縁まで私のせいにされてはかなわんな」
「男爵家とトゥーリア家の双方から、殿下の関与はない旨の声明は出ておりますが……」
「それでも噂は消えんか」
「噂とは、そういうものかと」
サージェッツァは小さく鼻を鳴らした。
「私の評判など、どうでもいい」
そこで一度、言葉を切る。
「だが、あの女が自分で決めたことまで、私が決めたことにされるのは気に入らんな」
「その点につきましては、私も同感でございます」
サージェッツァは少し考えた。
「私からは何も出すな」
「よろしいので?」
「私まで騒げば、かえって本当らしくなる。それに、あの女の離縁を私の話にする気はない」
ドレンは静かに一礼した。
「すでに帝都に店を出したと言ったな」
卓の品々を見渡し、彼女は立ち上がった。
「ルーシー・アンを呼べ。品もまとめて――」
言いかけて、止まった。
前に会ったとき、あの女は身重だと言っていた。一ヶ月が経った。今頃は、腹もあの時より重くなっているだろう。
「いや。こちらから行く」
「皇女殿下が、わざわざ商屋へお出ましになるのですか?」
「妊婦を皇女宮まで呼びつけるよりはましだろう」
ドレンが、わずかに眉を寄せた。
「ですが、今の噂がございます」
「分かっている。目立たなければよい」
サージェッツァは少し考え、口元を上げた。
「皇女宮の侍女服を一着用意しろ」
「……殿下がお召しになるので?」
「他に誰が着る」
その日の午後。
サージェッツァは、濃紺の簡素な侍女服に白いエプロンをつけ、赤みを帯びた金髪をきっちりとまとめて帽子の中へ押し込んでいた。
さらに地味な外套を羽織れば、遠目には皇女宮の使用人にしか見えない。
皇室の紋章を掲げた公式の馬車は使わず、目立たない私用の馬車を用意させ、供はドレンと護衛一人だけにした。
「……妙に楽しそうでございますね」
「滅多に着る機会などないからな」
選んだ品を収めた箱をドレンに持たせ、サージェッツァは何食わぬ顔で馬車へ乗り込んだ。
◇
店は、大通りから一本入った場所にあった。
間口は狭い。看板も控えめで、気をつけていなければ通り過ぎる。
サージェッツァは、外套を馬車へ残し、侍女服の裾を軽く払ってから扉をくぐった。
そして、すぐに足を止めた。
棚の品数は、多くない。
骨董がいくつか。工芸品。若い職人の手らしい小品。鑑定待ちなのか、帳場の脇に布を掛けられた一角もある。
だが、まばらではなかった。
一つずつ、間を取って置かれている。隣の品と比べさせない。手に取らせ、一点として見せる並べ方だった。
どの品を、どの客へ見せるつもりか。
棚を眺めただけで、それが読める店だった。
「いらっしゃいませ。本日は、お使いものをお探しでしょうか」
帳場の奥から、ルーシー・アンが顔を上げた。
濃紺の侍女服に白いエプロン。皇女宮の使用人と見て、商人の顔で応対しようとしたのだろう。
その榛色の瞳が、こちらの顔を捉えて、止まった。
「――……殿下?」
「静かに」
サージェッツァは、帽子の縁へ軽く指を当てた。
「今日の私は、皇女宮の使いだ」
ルーシー・アンは、二度ほど瞬きをした。
それから、何かを言いかけて、飲み込んだ。妙な噂が流れていることは、この女の耳にも入っているのだろう。訪問の形について、それ以上は聞かなかった。
栗色の髪。榛色の瞳。腹は、一ヶ月前よりはっきりと丸みを帯びている。
慌てて立ち上がろうとするのを、サージェッツァは手で制した。
「立つな。店主が倒れては、店が閉まる」
ルーシー・アンは、座ったまま深く頭を下げた。
サージェッツァは、遠慮なく店内を見て回った。
棚の一部には、品が抜けた跡がある。売れたのだ。
だが、店の中に客はいない。繁盛、という言葉からは遠い。
「繁盛しているか?」
「開店一ヶ月の店に、何を期待しておいでですか」
サージェッツァは、喉の奥で笑った。
初めて会った夜、この女は皇女に意見したことへ青ざめていた。
今は、座ったまま、こともなげに言い返してくる。相手が侍女服だろうと関係ないらしい。
「それで。実のところは」
「骨董を数点。工芸品の仲介がひとつ。あとは目利きの依頼がいくつか」
ルーシー・アンは、帳場の帳簿へ目を落とした。
「家賃と仕入れ代を払って……とりあえず、今は店を閉めずに済みそうです」
「ずいぶん控えめだな」
「まだ一ヶ月ですから」
誇張も、卑下もない。
数字を読む声だった。
◇
「品を持ってきた」
サージェッツァが目で示すと、ドレンが箱を帳場へ運び、蓋を開けた。
中身は、あの若い陶工の新作だった。
同じ意匠で揃えた花器と小皿の組。藍の平皿。それぞれに、小さな紙が添えられている。
陶工の名。それから、何を作りたいのかを短く記した一文。
「言われたとおり、名と、何を作りたいのかを言わせたぞ」
ルーシー・アンは、一点ずつ手に取った。
光へ透かす。裏を返す。縁を指でなぞる。
その手つきを、サージェッツァは黙って見ていた。
初めて会った夜と、同じ手つきだった。だが、あの夜より迷いがない。
「花器と小皿の組は、お預かりします」
ルーシー・アンは言った。
「藍の平皿も。文様の出方が、前のものより料理に映えます」
そして、最後の一点――大ぶりの鉢を手に取り、しばらく重さを確かめてから、静かに卓へ戻した。
「これは、まだ売り物になりません」
サージェッツァは、片眉を上げた。
「なぜだ?」
「この重さでは、日々食卓へ運ぶには扱いづらすぎます。飾るだけなら、この作り手の売りである実用の藍が死にます」
理由は、それだけだった。
長々と欠点を並べもしない。
「相変わらず、容赦がないな」
「売れない品を棚へ置く余裕はございません」
「分かった。本人にもそう伝えておこう」
サージェッツァは、声を立てて笑った。
皇女が持ち込んだ品を、開店一ヶ月の店主が突き返す。
それでいい。皇女だからと、無条件に品を引き受ける目利きに用はない。
ルーシー・アンは、預かる品を選び分けると、条件を口にした。
最初は少数のみ。委託販売。売れた分から手数料を受け取り、期限までに売れなければ返却する。
「それから、殿下のお名前は、看板にも口上にも使いません」
「私の名を使った方が早く売れるぞ?」
試すつもりで、サージェッツァは言った。
「皇女殿下のお名前があれば、客を呼べるでしょう。ですが――」
ルーシー・アンは、少しも迷わず、まっすぐに答えた。
「殿下のお名前で一度売れても、次も売れるとは限りません」
買い手に残すべきは、後ろ盾の名ではなく、作り手の名。
あの夜、広間で聞いた理屈と、同じ筋だった。
それに――と、サージェッツァは侍女服の袖へ目を落とし、内心で付け加えた。
今の噂を思えば、この店に皇女の名を掲げさせない判断は、店のためでもある。ルーシー・アン、そこまで読んでいるのかもしれない。
「よかろう」
サージェッツァはうなずいた。
ドレンが、帳場の端で条件を書き留めていく。
援助ではない。施しでもない。
作り手は売り場を得る。店主は手数料を得る。パトロンは、支援する才能の販路を得る。
それぞれに役割と利益のある、ただの商取引だった。
そして、それこそが、ルーシー・アンの欲しかったものなのだろう。
◇
商談の途中、サージェッツァはふと、帳場の端に目を留めた。
二通の手紙が、文鎮の下に揃えて置かれていた。
一通は、丸みのある子供の字。
もう一通は、丁寧だが、まだ硬さの残る少年の字。
サージェッツァは、封書へ手を伸ばさなかった。
「誰からだ」
「グスタフとアリスからです」
ルーシー・アンは、隠さなかった。
「男爵の、先妻の子らか?」
「はい」
アリスからは、何度も届いているという。庭の花が咲いたこと。読み終えた本のこと。腹の子の体調を気遣う言葉。自分の身の回りのことを、少しずつ自分でやるようになったこと。
「学びや衣服の費えの一部は、成人までわたくしが持ちます。ただし、金子は家へは渡しません。教師と仕立屋へ、直接支払います」
「男爵家を養う気はない、か」
「あの家には、あの家の当主がおります」
線の引き方が、明快だった。
五年間、娘だった少女は支える。だが、出てきた家は養わない。
グスタフのほうは、実務を学びたいと手紙で申し出てきたという。
ルーシー・アンは、信頼できる商屋を一軒、紹介した。
条件はひとつ。男爵家の嫡男としてではなく、ただの見習いとして扱われること。
「男爵は知っているのか?」
「商屋へ通うことは伝えているそうです。わたくしの紹介であることは――」
ルーシー・アンは、少しだけ言葉を選んだ。
「まだ、話していないようです」
今は荷の確認と在庫数えから始めていると、手紙にはあった。帳簿には、まだ触らせてもらえないらしい。
「十五歳で始めるなら、遅くはない」
サージェッツァは、率直にそう言った。
荷を数え、在庫を確かめる。帳簿を任されるより、よほどまっとうな始まり方だ。
グスタフの手紙には、父親の近況も短く書かれているという。
夜会を減らしたこと。自分で帳簿を開くようになったこと。分からない箇所を、家令や会計担当へ尋ねるようになったこと。
葡萄酒商との契約更新には、間に合ったこと。
麻布は、以前より高くついたが、冬の分は確保できたこと。
「遅いな」
サージェッツァは短く言った。
「学ばぬよりは、よろしいかと」
ドレンが、手を止めずに返した。
「……そうですね」
ルーシー・アンはそれだけ言って、手元の帳簿へ視線を戻した。
サージェッツァは、それ以上フランツの話をしなかった。
妻は戻らない。手放した信用も、すぐには戻らない。
それでも、爵位も、領地も、借金のない男爵家も、やり直す道も残っている。
ルーシー・アンが、そう組んで出てきたのだ。
◇
選ばれた品が、棚の空きへ収まっていく。
サージェッツァは、その様子を眺めながら、狭い店内をもう一度見回した。
離縁を決めたのも、条件を詰めたのも、この店を借りたのも、棚の品を選んだのも、すべてルーシー・アンだ。
自分がしたことといえば、花器の値を尋ね、品を見てくれと頼んだ。それだけだった。
あとは全部、ルーシー・アンが自分で選んだ。
立ち上がる力は、最初から彼女の中にあったのだ。
悪くない気分だった。
「次は、画家と銀細工師の品を持ってくる」
サージェッツァが立ち上がると、ルーシー・アンが釘を刺した。
「一度にお持ちになるのは、おやめください」
「注文の多い店主だな」
「棚にも、資金にも、限りがございます」
サージェッツァは笑った。
皇女へ品を突き返しても、もう顔色ひとつ変えない。
かといって、何もかも手に入れた成功者がいるわけでもない。
小さな店と、選び抜かれた棚と、これから育てていく商売があるだけだった。
それで十分だと、店主の顔が言っていた。
◇
扉の前で、サージェッツァは足を止めた。
振り返る。
帳場のルーシー・アンの腹は、一ヶ月前より、はっきりと丸い。
サージェッツァは、ほんの一瞬、言葉を探した。
「ルーシー・アン」
「はい?」
「元気な子を産めよ」
小さな商屋の窓から、午後の光が静かに差し込んでいた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『商魂を取り戻した男爵夫人は、夫と別れて独り立ちします』は、これにて全3話完結です。
またどこかで「お騒がせ皇女」が顔を出しましたら、お付き合いいただければ幸いです。




