第1話 その値では売れません
お読みいただきありがとうございます。
「お騒がせ皇女」シリーズ第2作です。
本作単体でもお読みいただけます。全3話完結です。
最後の残高欄に「零」と書き入れたとき、羽根ペンの先が、わずかに震えた。
ルーシー・アン・ベレレス男爵夫人は、机の上に広げた帳簿と、債権者から届いたばかりの受領書を、もう一度だけ照らし合わせた。
日付。金額。署名。封蝋の紋。
どれも間違いがない。
「奥様」
向かいに立った会計担当が、声を詰まらせた。五十を過ぎた男が、手にした受領書の束を胸へ抱えるようにして、深く頭を下げた。
「これで、本当に最後でございます」
ルーシー・アンは、帳簿の残高欄をじっと見た。
零。
五年前、この家へ嫁いできた日には、その欄に並んでいた数字を、彼女は今でも諳んじることができる。
利息を払うだけで精いっぱいだった。元本には、指一本触れられなかった。
まず婚姻時に持ち込んだ自分の資金を充て、トゥーリア家の信用を使って、法外な利息のついた借入を低利のものへまとめ直した。そこからが本当の仕事だった。
仕入れ先を替えた。屋敷の支出をひとつずつ削った。
誰も見向きもしなかった領地産の胡桃と蜂蜜に値をつけ直し、帝都の菓子職人へ持ち込んだ。
取引条件を書き換え、支払期日を組み替え、商人たちと何度も卓を挟んだ。
五年。
「今月の給金は、期日どおりに出せるわね」
「はい……はい、奥様」
会計担当の目尻が濡れていた。
この家の使用人たちは、給金が半月遅れるのが当たり前だった時代を知っている。薪が足りず、厨房の火を落とした冬も知っている。
もう、そういう心配をしなくていい。
ルーシー・アンは椅子の背に体をあずけ、そっと腹元へ手を置いた。
五か月。まだ、外からは分かりにくい。けれど、確かにここにいる。
――本来なら。
こういう報せは、夫と二人で分かち合うものだった。
ルーシー・アンは立ち上がり、帳簿を閉じた。
◇
「完済いたしました」
書斎の扉を閉めてすぐ、ルーシー・アンはそう告げた。
フランツ・ベレレス男爵は、書き物の手を止めて顔を上げた。黒い瞳が、大きく見開かれる。
「……本当か」
「はい。今朝、最後の受領書が届きました」
フランツは息を吐き、椅子から立ち上がった。
喜んでいる。それは分かった。
肩から力が抜け、口元がゆるみ、彼は窓のほうへ二歩ばかり歩いた。
だから、次の言葉を、ルーシー・アンは黙って待った。
「そうか」
フランツは、窓の外を見たまま言った。
「これでようやく、トゥーリア家へ頭を下げずに済む」
ルーシー・アンは、口の中の空気が、ゆっくり冷えていくのを感じた。
小さな違和感だった。指に刺さった棘のような。
五年間の帳簿でも、削った支出でも、開いた販路でもなく。
この人が最初に喜んだのは、商家へ礼を言わなくてよくなったことだった。
「……よろしゅうございました」
自分の声が、思っていたより平らに響いた。
フランツは振り返り、機嫌よくうなずいた。
「これからは、男爵家を本来の形へ戻していきたい」
「本来の形、と申しますと」
「グスタフも十五になった。そろそろ嫡男として、家政や領地のことへ関わらせるべきだろう」
それは、もっともな話だった。
ルーシー・アンも、いずれそうすべきだと考えていた。むしろ、去年のうちから帳簿を見せておきたいと思っていたくらいだ。
「では、わたくしのほうで手順を――」
「君も身重なのだ」
フランツは、穏やかに遮った。
「少し仕事を減らした方がいい」
労わりの言葉だった。
少なくとも、そう聞こえる形をしていた。
ルーシー・アンは、開きかけた唇を閉じた。
「……ご配慮、ありがとうございます」
書斎を出て、扉を後ろ手に閉める。
廊下は静かだった。
祝いの言葉を待っていた自分が、急に子供じみたもののように思えて、ルーシー・アンは軽く目を伏せた。
◇
あの人は、最初から冷たかったわけではない。
廊下を歩きながら、ルーシー・アンは思った。
嫁いできた年、貴族の茶会で使う菓子皿の格を間違えたことがあった。笑い者になりかけた彼女を、フランツは「私が選んだのだ」と言って庇った。
グスタフとアリスが彼女へ懐きはじめたとき、この人は本当に嬉しそうにしていた。
帳簿へ手を入れはじめた頃には、こうも言った。
「君が来てくれて、本当に助かった」
あれは、嘘ではなかったと思う。
変わったのは、数字が減りはじめてからだ。
「商人なら、金勘定は得意なのだろう」
高利の整理が終わった年。
「この家のことは、最終的には私が決める」
領地産品の売り先を変えた年。
「社交の場で商売の話をするのは控えてくれ」
商人たちが「ベレレス家は奥方でもっている」と言いはじめた年。
感謝の言葉が減った分だけ、爵位と家格の話が増えた。
ルーシー・アンは階段の手すりに触れ、そこで思考を止めた。
考えたところで、数字のようには片づかない。
◇
その夜の食卓は、いつもより明るかった。
黒髪に黒い瞳のベレレス家の三人と、栗色の髪に榛色の瞳の自分。並んで座ると、いつも、絵の具の色がひとつだけ違うようだと思う。
「お義母様」
アリスが、スープの匙を置いて身を乗り出した。十歳の頬が、蝋燭の火で赤く光っている。
「赤ちゃんにも、わたしが絵本を読んであげます」
「まあ」
ルーシー・アンは、自然に笑った。
「それは、頼もしいこと」
「まだお腹の中でも聞こえるんですって。乳母が言っていました」
「では、いい声で読んであげてね」
アリスが得意そうに胸を張る。
この五年が、すべて不幸だったわけではない。この子の背が伸びていくのを、自分は隣で見てきた。
「……あの、母上」
グスタフが、遠慮がちに口を開いた。
「借金のこと、聞きました。その、おめでとうござ――」
言いかけて、少年は父の顔を見た。
フランツは、水の杯を口へ運びながら、表情を動かさなかった。
グスタフの声が、そこで細くなる。
「……ございます」
「ありがとう、グスタフ」
ルーシー・アンは、そう答えるにとどめた。
フランツが杯を置いた。
「グスタフ。近いうちに、帳簿を見せる」
「僕にですか」
「嫡男だ。当然だろう」
グスタフの目が、少しだけ明るくなった。父に必要とされた顔だった。
ルーシー・アンは、それを見て、素直に良かったと思う。
だから、口を挟んだ。
「でしたら、まず現在の取引先と契約条件から――」
「その辺りは、私から教える」
短い言葉だった。
声を荒げたわけでもない。ただ、扉が一枚、静かに閉まっただけだ。
グスタフが、何か言いたそうに顔を上げ、そして目を伏せた。
アリスは気づかず、絵本の話を続けている。
ルーシー・アンは、皿の上の肉を小さく切り分けた。
それ以上は、言わなかった。
◇
翌日の午前、いつもの通りに指示を出そうとして、初めて壁に触れた。
「今後、奥様のご指示は、旦那様のご確認をいただいてから実行するようにと……」
家令が、書付を両手で持ったまま、深く頭を下げていた。
白髪の交じった頭が、なかなか上がらない。
「旦那様からの、お達しでございます」
「……そう」
ルーシー・アンは、手元の書付へ目を落とした。
葡萄酒商との契約が、今月末で更新期限を迎える。去年の条件のまま更新すれば、来期の支払いは二割方重くなる。
それから、麻布の仕入れ。今動かせば安く押さえられるが、来月では遅い。
どちらも、フランツは知らない。
知らないまま、机の上で確認するのだろう。
五年前の自分なら、この場で書斎へ乗り込んでいた。証拠になる数字を三つ並べて、認めるまで帰らなかった。
今は。
――言っても、また「商人には貴族のことは分からない」と返される。
そう思ったとたん、喉の奥の力が抜けた。
言い返せないのではない。
言い返すことに、疲れてしまった。
「頭を上げてちょうだい」
「……奥様」
「あなたが謝ることではないわ」
家令は頭を下げたまま、しばらく動かなかった。
顔を上げたとき、その目は苦しそうだった。
誰も、自分を嫌ってはいない。
それなのに、手の中から、指示を出す権利だけが、静かに抜き取られていく。
◇
それから二日後、ベッツ侯爵家から一通の招待状が届いた。
美術や工芸、骨董を好む侯爵夫妻が、ときおり開いている私的な集まりへの招待だった。二人ともトゥーリア家でも名を聞くほどの好事家で、古い品ばかりでなく、まだ名のない若い作り手の作品にも目を向けるという。
「夫婦そろっての招待だ。顔を出しておこう」
フランツはそう言った。
ルーシー・アンは、あまり気が進まなかった。
貴族の集まりに出れば、どうせまた「トゥーリア家の娘」として見られる。
それに、このところ身重の身体は以前より疲れやすかった。
それでも、男爵夫人として断るほどの理由はなかった。
そして数日後。
ベッツ侯爵邸の広間は、格式ばった夜会とは似ても似つかなかった。
絵画と陶器と工芸品が壁際に並び、若い作り手の試作品らしい、まだ荒いものまで無造作に置かれている。
美術や工芸、骨董はもちろん、まだ名もない作り手の新作まで面白がる者たちが集う、私的な催しである。
招待状に書かれていた装いの指定は、たった一行だった。
「なるべく楽な服装で」
ルーシー・アンもその言葉に甘え、腹まわりを締めつけない、ゆったりとしたドレスを選んでいた。
ルーシー・アンがフランツとともに広間へ入ってしばらく経った頃、入口のあたりがざわめいた。
赤みを帯びた金の髪を燭台の光にきらめかせた長身の女性が、黒いタキシードを着ていた。
男物をそのまま着ているわけではない。腰まわりは身体の線に沿って絞られ、肩から胸元にかけては窮屈にならないよう立体的に仕立てられている。重い裾を引くこともなく、女性の足取りは軽かった。
サージェッツァ皇女。
ルーシー・アンは、思わず杯を持つ手を止めた。
――あれが、皇女殿下?
隣では、フランツがわずかに眉をひそめていた。
「相変わらずだな」
小さくそう漏らすと、彼は近くの貴族へ挨拶すると言って、その場を離れていった。
ルーシー・アンは返事もできず、遠ざかる夫よりも、黒い男装姿の皇女を見つめたままだった。
皇女がタキシードを着ている。
若い男の芸術家を何人も皇女宮へ出入りさせている――そんな噂なら、いやというほど聞いていた。
自由気ままなお騒がせ皇女という評判が、目の前の姿を見て、急に現実味を帯びた。
「男は楽でいいな、侯爵。上着とズボンを整えれば、それで格好がつく」
皇女の声は、広間の端まで届いた。
「夜会でご婦人や令嬢方の装いを見るたび、男に生まれたことを、つくづく親に感謝しておりますよ」
白髪の混じった黒髪をきれいに撫でつけたベッツ侯爵が、腹の前でゆったりと両手を組んだ。六十を越えてなお背筋は伸びているが、きっちりと正装した姿にはどこか肩の力が抜けている。
サージェッツァの黒い装いへ目を移すと、侯爵は片眉を上げた。
「殿下、その上着も相当に手間のかかった仕立てとお見受けしますが」
「先日見つけたデザイナーに仕立てさせた」
サージェッツァは、黒い上着の前を軽くつまんで見せた。
「その手間のおかげで、私は楽ができる」
笑いが起きた。
侯爵は杯を掲げ、いかにも世間話のように続けた。
「そういえば殿下、例の子息に求婚されたとか? おめでとうございます」
「人が悪いぞ、侯爵」
皇女は、まったく声の調子を変えなかった。
「断ったところまで知っていて聞いているだろう」
また笑いが起きて、話はそれきり別の絵の話へ移っていった。
ベッツ侯爵夫妻は、ルーシー・アンにも丁寧だった。
夫人は、彼女の杯が空いていないかを気にかけ、東方の壺の来歴を尋ねてきた。それは社交辞令ではなく、本当に知りたそうな顔だった。
問題は、その他の客だった。
「まあ、ベレレス男爵夫人。トゥーリア家のお嬢様でしたわね」
扇の陰から、笑顔とともにそう言われた。
「よい品を見る目をお持ちだこと。ご実家のお仕事柄かしら」
「……恐れ入ります」
「男爵家のご負債も、ご実家のお力で?」
どれも、丁寧な言葉だった。
無礼だと指摘できる言い方は、ひとつも混じっていない。
ただ、彼女たちは決して「ベレレス男爵夫人」の話をしなかった。話すのは、いつも「トゥーリア家の娘」の話だった。
壁際の棚に、変わった釉薬の小皿があった。
「これは、南方の土ではありませんか。焼き締めの具合が――」
ルーシー・アンがそう言いかけると、輪の空気がすっと薄くなった。
誰も遮らない。誰も否定しない。
ただ、話題が別のところへ移る。
品を見る目があることは認めても、その話を対等に聞く気はないらしい。
ルーシー・アン自身を、仲間に入れる気もない。
フランツは広間の反対側で、年配の貴族たちと笑っていた。
こちらへは、戻ってこない。
ルーシー・アンは水の杯を持ち、壁際へ寄った。
腰が重い。足の付け根が鈍く痛む。
早く帰りたい、と思った。
そのすぐ後、広間の中央にいた皇女と目が合った。
サージェッツァは、彼女を見つけるなり、まっすぐに歩いてきた。
躊躇がなかった。人の間を縫うでもない。会話が途切れ、道が割れる。
周囲の視線を、まるで気にしていなかった。
「ルーシー・アン・ベレレス男爵夫人か」
鮮やかなアズライトの瞳が、間近にあった。
ルーシー・アンは慌てて杯を持ち替え、頭を下げた。
「はい。皇女殿下」
サージェッツァは、しばらく彼女の顔をじっと見た。アズライトの瞳には、遠慮のない好奇心が浮かんでいる。
ルーシー・アンは、なぜ自分がこれほど見られているのか分からず、わずかに身を固くした。
「五年でベレレス家の借金を消した女だな」
周囲がざわついた。
少なくとも、ルーシー・アン本人の耳へ届く形で、そう言われたのは初めてだった。
なぜ、皇女がそんなことを知っているのか。
皇女は、すぐ近くの台に置かれていた器を手に取った。
小ぶりな花器だった。胴の張り方が独特で、釉薬が縁のあたりで薄く流れている。若い作り手の手だと、ひと目で分かる。
「若い陶工の作だ。これを帝都で売るなら、いくらをつける?」
ルーシー・アンは、息を詰めた。
皇女が庇護する作品を、本人の前で値踏みし、売り方にまで口を出す。求められたこととはいえ、男爵夫人の自分が軽々しく答えてよいものか迷った。
「わたくしのような者が、殿下のお品へ申し上げることでは……」
「私が聞いている」
皇女は引かなかった。
ルーシー・アンは、助けを求めるようにベッツ侯爵へ目を向けた。
侯爵は苦笑して、肩をすくめた。
「殿下には以前、腕のよい陶工を紹介していただいたことがありましてね。こうなると、もうお止めできません」
助け舟を出す気は、ないらしい。
サージェッツァは構わず、その花器につけるつもりの値段と、売り込もうとしている相手を告げた。
ルーシー・アンは、思わず眉を寄せた。
値が高すぎる。それも問題だが、それ以上に売り先が違う。
その値と、その相手の組み合わせでは、この花器はまず売れない。
黙るべきだという理性と、間違った値付けを見過ごせない商人の癖が、喉元でせめぎ合った。
「……その値では売れません」
広間の空気が、止まった。
自分が何を言ったのかに気づいて、ルーシー・アンの顔から血の気が引いた。
背中が冷たい。フランツの声が、耳の奥で鳴る。社交の場で商売の話をするのは控えてくれ。
けれど、皇女は怒らなかった。
「ほう? なぜだ。言ってみろ」
アズライトの瞳が、楽しげに細められていた。
ルーシー・アンは、最初、慎重に言葉を選んだ。
「……品そのものは、悪くございません。むしろ、胴の張り方には見どころがあります」
「では何が悪い」
「殿下が挙げられた売り先は、代々の家格を重んじる御家です。あの方々が求めるのは、由緒のある窯の名でございます」
言葉が、少しずつ滑り出す。
「無名の作り手の品に、その値をつけて持ち込めば、値が高いから買わないのではなく、名がないから買わないと言われます。値を下げても同じです」
「下げても売れんか」
「値を下げれば、今度は品そのものが安く見えます。この釉薬の流れは、他所では出せません。それを安売りすれば、次の品まで安くなります」
背筋が、いつのまにか伸びていた。
「では、どこへ売る」
「帝都の新興のご商家です。とくに、この二、三年で店を構えた方々」
ルーシー・アンは、花器の縁を指し示した。
「あの方々は、由緒を買えません。ですから、誰も持っていない新しさを買います。この品には、それがございます」
皇女が、片眉を上げた。
「もう一つ。この置き方では売れません」
「置き方?」
「今、この花器は、他の完成品と並べて置かれております。比べられれば、荒さばかりが目につきます」
彼女は、少し離れた棚を目で示した。
「同じ作り手の小さな器と組み合わせて、二点、三点で見せるべきです。ひとつの品として弱くとも、その手の癖が揃えば、選ぶ理由になります」
皇女は、別の作品を持ってこさせた。
「では、これは?」
濃い藍で文様を描いた平皿だった。
ルーシー・アンは、それを両手で受け取り、光へ透かした。
「……これは、値をつけずに贈ってしまってもよろしいかと」
「捨てろというのか」
「いいえ。買っていただく前に、使っていただくのです」
彼女は、皿の裏を返した。
「この藍は、料理を載せてはじめて生きます。棚の上では半分も伝わりません。好事家のご夫人方の食卓へ、二枚ずつお預けなさいませ。三か月もすれば、どこで手に入るのかと聞かれます」
「ふん」
皇女が、面白そうに喉を鳴らした。
「作り手の側にも、問題がございます」
「ほう?」
「先ほど、殿下は『若い陶工の作』とおっしゃいました。それでは、誰が作ったのか買い手に残りません。名と、何を作りたいのかを、短く言えるようにさせるべきです」
いつのまにか、ベッツ侯爵が横で腕を組み、興味深そうに聞いていた。
言葉が、止まらなかった。
どこへ売るか。誰になら売れるか。いくらなら買い手がつくか。
それを考えることが、こんなにも楽しかったことを、ルーシー・アンは久しぶりに思い出した。
――ふと、広間の向こうが目に入った。
フランツが、こちらを見ていた。
貴族たちの輪の中で、杯を持ったまま、顔を強張らせていた。
ルーシー・アンの喉が、一瞬つかえた。
それでも、彼女は口を閉じなかった。
「よく見ている女だ」
皇女は満足そうに言い、給仕を呼び止めた。
「飲め。話の礼だ」
差し出されたのは、深い色の葡萄酒だった。
ルーシー・アンは、慌てて首を振った。
「酒は……身重ですので」
皇女の視線が、彼女の腹元へ落ちた。
衣装の線では目立ちにくかったが、ルーシー・アンは妊娠五か月だった。
ほんの一瞬、皇女の表情が止まった。
アズライトの瞳の奥で、何かが揺れた。
「……そうか」
皇女はそれだけ言い、何か月なのかも、体調のことも、それ以上は尋ねなかった。
代わりに、背後を振り返った。
「ドレン、椅子を」
「ただいま」
控えていた侍従が、驚くほど静かに動いた。三十代後半か、四十ほどの男で、少しも慌てていない。
こういうことに慣れているのだ、とルーシー・アンは思った。
背もたれのある椅子が、すぐに運ばれてくる。
「まったく、気の利かないやつだ」
そう言ってから、サージェッツァは眉を寄せた。
「……いや。お前も今知ったばかりか」
自分で納得したようにうなずく。
「悪い。長話を始めたのは私だな」
ルーシー・アンは、思わず目を瞬いた。
一度口にした責任を、皇女はすぐに自分へ引き戻した。
――そういう人を、しばらく見ていなかった。
その違いは、うまく言葉にならないまま、胸の底へ残った。
「座れ。話はまだ終わっていない」
「……失礼いたします」
腰を下ろすと、体が思っていた以上に重かったことに気づいた。
「私は、若い作り手を何人か支援している」
皇女は、杯を片手に切り出した。
「作る才能はある。だが、値をつける才能も、買い手を見つける才能もない者が多い。作れば売れると思っている」
ルーシー・アンは、黙って聞いた。
それは、実家でも何度も見た光景だった。
「先ほどのような話を、あれらの品についてやってほしい。目利き、値付け、どこへ持っていくか、どんな買い手に合うか」
「……わたくしがでございますか」
「他に誰がいる」
皇女は肩をすくめた。
「大げさに考えるな。まずは何点か見て、値のつけ方や売り先について簡単に助言してくれ。それでいい」
サージェッツァにとっては、何点か品を見るだけの軽い頼みなのだろう。
だが、社交界もフランツも、ただの助言としては見ないだろう。
「わたくしは、ベレレス男爵夫人でございます」
しかし皇女は、その肩書きを笑いもしなければ、否定もしなかった。
「知っている」
そして、まっすぐに言った。
「だが、私が用があるのは男爵夫人という肩書きではない」
アズライトの瞳が、彼女を捉えていた。
「今、私の品へ『売れない』と言い切った女だ」
ルーシー・アンは、言葉を失った。
この五年、社交界で自分に向けられた言葉を、彼女はいくつも覚えている。
商人上がり。男爵夫人。男爵家へ金を入れた女。
どれも、出自か嫁ぎ先か、家へ持ち込んだ金の話だった。
今この場で自分が何をしたのか。
それを能力として認め、真正面から必要だと言った人間は、目の前の皇女だけだった。
ルーシー・アンは、膝の上の自分の手を見下ろした。
貴族の夫人にしては、指の節が太い。
帳簿をめくり、仕入れを選び、品物を裏返して光へ透かし、商人と何時間も卓を挟んだ手だった。
この手が、ベレレス家の借金を消した。
男爵夫人になったからといって、この手が別のものへ変わったわけではない。
変わったのは――自分が、何も言わなくなったことだけだった。
「それで。やるか?」
皇女が尋ねた。
ルーシー・アンは、すぐには答えられなかった。
腹の子がいる。
アリスは、その子に絵本を読んでやると言った。
グスタフも、父の顔色を窺いながら、それでも祝いの言葉を口にした。
五年間暮らしたあの家を出るなど、まだ考えもしなかった。
ただ、男爵夫人という肩書きの下に、まだ失っていない自分がいた。
ルーシー・アンは顔を上げた。
「……まず、品物をすべて見せていただけますか」
榛色の瞳に、光が戻っていた。
お読みいただきありがとうございました。
次話は後編「返していただくだけです」。
商魂を取り戻したルーシー・アンが、今度は自分の人生について答えを出します。




