11 パスポート
熱が出た。喉も痛い。
「ママ、ごめんなさい。台無しにしちゃって」
「病気はしかたないわよ。千夏が悪いんじゃないもの」
一口サイズに切って種をひとつひとつ取りのぞいたスイカ。千夏の口中にあふれるのは、ママの優しさと許しだ。
「やり直すなら、今度は夏休みがいいかな」
ママは意外そうに千夏を見た。
「あら、千夏が嫌なら急がないのに、いいの?」
「だってママには絶望してほしくないもん。幸せになってもらいたいもん。授業でやったよ、ひとには幸福追求の権利があるって」
「絶望とか権利とか、大げさ。でも、そうね、夏休みにみんなでどっか行くのはいいかもね」
笑顔のママを見れて千夏はほっと息を吐いた。
「パパはともかく、沙月くんとは話がしてみたいな。わたしよりあの子の気持ちを優先してほしい」
あの子はまだ小学校低学年で、肉親はパパだけだ。大人の意向に振り舞わされているなら可哀想だ。
「どうしたの千夏。うれしいけど、急に大人になったらママが戸惑っちゃう」
「大人になるって、自分のことよりほかの誰かのことを大切にできるようになることなのかな」
「さあ、それはママにもわからない。だって千夏はママの一部のようなものだもの」
「パパのことも沙月くんのことも大事にしてるじゃん。あ、どっか行くで思い出した」
ママは無言で「なに?」と聞いてくる。
「海外赴任の話、聞いてる?」
「……聞いてる。多分、中国だろうって」
「中国……。ついていくことになるの?」
真帆と別れるのは嫌だ。日本の大学に進学したい。言葉の通じない異国に暮らすのは自分には無理だと思った。
「千夏は日本に残ってもいいのよ。大学進学のことも考えないといけないし。わたしは1年の半分を日本、半分を赴任先で考えていたけど。パパには沙月くんを日本で預ってもいいと伝えてあるの。でもパパは連れて行きたいみたい」
千夏が蚊帳の外の状態で具体的に話が進んでいたようだ。さみしくもあるが、千夏に選択肢を残してくれていたことは嬉しかった。
「そういえば修学旅行、台湾になったって。パスポート作らなきゃ。ママも一緒に作る?」
「ママは持ってる。あ、どうだろ。更新してないから切れたかも……」
「え、ママ、持ってたの? 見せて見せて」
「結婚前に作って惰性で更新してただけだから……。ちょっと待ってて。タンスの底から発掘しないといけないし。あ、まだ熱があるんだから寝てなきゃだめよ」
ママはぶつぶつ呟きながら出て行った。ベッドにに転がりながら、暇つぶしでスマホをいじる。パスポートの取得方法。事務的で面白くない。中国について検索。中国は日本の11倍の人口、25倍の面積、5倍のGDP。
「でっか……」
検索して出てくる画像は、それが自然の情景であろうが人工の建造物であろうが、なにもかもが大きい。空は果てしなく広がっていて、奥行きがある。ロボットのダンスとドローンショーの動画は胸が躍った。中国の時代劇の衣装を着て、歴史遺産を背景に記念写真を撮っているのは単純に羨ましい。やってみたい。そのとき隣に真帆がいてくれたら最高の思い出になる。
遊びに行くだけなら、真帆と一緒なら、ちょっとだけいいかも、と心が揺れた。
大好きな韓国のアイドルグループが中国ツアーを計画している。中国のファンが描いたファンアートを見つけていいねを押した。千夏がそのグループのファンであることは真帆にはすでに話していたが、反応はほとんどなかった。いや、あることはあった。
「へえ。日本のアイドルのが良くない?」
千夏は日本のアイドルが嫌いなわけではなくて、たまたま韓国のアイドルを好きになっただけだったのだけど、真帆はそもそもアイドルに関心が薄かったので、そのまま流すことにした。真帆から在日韓国人に嫌がらせをされたと聞いたとき、ようやく腑に落ちた。真帆は韓国全体をうっすらと苦手にしているのだ。
韓国だけでなく、中国もうっすらと嫌っていたような気がする。アイシャの国インドネシアもうっすらと見下している。真帆のことは大好きだけど、そこはやはり気になる。フェアじゃない気がする。真帆のことが大好きだからこそ、気になってしまう。
修学旅行はいいきっかけになるのでは、と千夏は考える。場所は違うけれどいい思い出になれば、また行きたいと思うかもしれないし、もしかしたら一緒に卒業旅行に行けるかもしれないし、直接外の世界に触れることで真帆の偏見が消えるかもしれない。
熱からではない興奮に神経をたぎらせ、千夏は台湾について検索しようとしていたら、ママが戻ってきた。
「これよ。写真はちょっと若いから、笑わないでよ」
「え、あれ……? 紺色かエンジ色じゃなかったっけ」
ママが寄越したパスポートは緑色だった。




