12 ショックがショックで
「古いからね。更新したら紺色になるみたい」
紺色は5年、エンジ色は10年という期限の違いがあることは知っている。未成年者は紺色の5年になることも。千夏が知らないだけで、紺色の前は緑色が普通だったのだろうか。
「あ、ママは国会議員とかじゃないからね。日本だと公用パスポートは緑色でしょ」
面白い冗談でも言っているかのようなママの口振りだが、意味がわからず、表紙をしげしげと眺めた。そこには「REPUBLIC OF KOREA」とアルファベットが踊っている。
リパブリックオブコリア。コリアは韓国のことだ。つまり韓国のパスポートである。
表紙をめくると、少し若いママがいた。
「ママの国籍……?」
「ああ、韓国なの、話してなかったっけ」
千夏の目は見開いたまま凍りついた。ママはあっけらかんとしている。
「韓国といっても、日本で生まれ育ったから、韓国語はまったくわからないし、韓国の文化も風習も知らない。特別永住許可の、いわゆる在日韓国人なのよ」
「知らなかった……」
急にめまいがして全身の筋肉が強張った。足下にぽっかりと大きな穴が開いたようだ。
ママはそんな千夏のようすには気づかずに、話を続ける。
「話してなかったっけ。千夏の曽祖母の本貫は北朝鮮で、曾祖父が韓国なのよ。お祖父ちゃんが韓国籍でね、お祖母ちゃんは日本人。だからママはダブルなのよねえ」
母方の祖父母は今はもういない。祖父は5年前に癌で、祖母は3年前に脳出血で相次いで亡くなった。年に一、二回訪ねるくらいだったが、家の中に韓国を連想させるものはなにも置いてなかった。民族衣装を着ている姿も見たことがない。
「わたし、も……韓国人、なの?」
おそるおそる尋ねる。言葉が喉に張りついてスムーズに出てこなかった。
「千夏の国籍は日本。千夏は日本人よ。パパは日本人だし、お祖父ちゃんが亡くなってからは半島の親戚とは切れちゃってるから、煩わしく考えることないのよ」
ハアハアとせわしい音がする。自分自身の呼吸音だと気づいて、ぎゅっと胸をおさえた。
「わたしは……日本人……?」
「そうよ、千夏は日本人。そのほうが日本で暮らすには都合がいいからね」
「都合がいい……」
「日本で生活するなら日本人でいるほうが便利だからね。なんかあっても国が守ってくれるでしょ。外国人って理由で攻撃されないし。選挙権もあるし。女の子に生まれた苦労はまた別だけどね」
ママはカラカラと笑った。
ママのクローゼットにチマチョゴリはない。花火大会にそろいの柄の浴衣を親子で着た記憶はある。
千夏は目を瞬かせた。目の前にいるママは私の知っているママではない。知っていると思っていたママは在日韓国人ではない。在日韓国人のはずがない。ママが在日なら自分にもその血が流れているということだ。真帆の嫌いな血が。
千夏は呼吸を忘れるほどショックを受けていた。そしてショックを受けている事実がさらにショックだった。
「なんで日本の国籍にしないの? そしたら都合いいし便利なんでしょ」
「ママはね、民族教育は受けてないから、中身はそこらの日本人と変わらない。日本語しか喋れない。でも帰化はしない。自分のなかに流れているルーツを断ち切るのはそう簡単じゃないのよ。その必要性を感じたこともないし、わたしはわたしのままでいたいから、国籍は関係ない。侮辱されたり、差別されたりするけど、それよりも、憐れみや同情が嫌だったな。昔、学校の先生から帰化を勧められたときに腹が立ったの。その人は日本国籍でね、良かれと思って勧めてくれたんだけど、その善意が憎らしくてね。千夏にはわかんないでしょ」
「わかんない」
「そう、良かった」
朗らかに笑うママ。その笑顔には悲しみも濁りもない。なぜなのか千夏は理解できない。
ショックは次々に千夏を襲った。鼻の奥がつんと痛んだ。
自分の身にふりかからないと気づけない間抜けであったこと。自分とママはまったく違う人間であることをつきつけられたこと。
パパに恋するママが、千夏と近いわけがなかったのだ。
「驚いた。でも、き、北朝鮮じゃ、なくて、よかった」
きれぎれに言葉に出来たのはそんな台詞。北朝鮮よりは韓国のほうがマシだという言い方は、真帆の、韓国よりは台湾のほうがマシだ、と言っていた顔を思い出させた。真帆のように露骨な表情にならないように、無理やり笑顔を作った。
「あら、北朝鮮もママの祖国なのよ。本当はひとつの国だもの。もちろん、日本も祖国だと思ってる。ねえ、もしかして絶望してる?」
千夏の両目に涙の膜ができていた。かぶりをふると雫が飛んだ。
「違うよ、自分がバカすぎて哀しくなっただけ。絶望といえば絶望だけど……自分にあきれてるの」
手の甲で乱暴に目の縁をこする。頬が熱い。熱があがったのかもしれない。
「ママは絶望したことある?」
「うーん……そうねえ」
馬鹿な質問をしたと思った。自分がとうてい知り得ないような辛い思いをたくさんしてきたかもしれないのに。もう一度思い出させて語らせるなんて、自分は思いやりのない娘だ。ママの絶望を聞いたからといって、自分の浅はかさが薄まるわけでもないのに。
「シャンプーと間違えてコンディショナー買っちゃったときかな」
「え?」
「いつもシャンプーのほうが先になくなるでしょ。新しいの買うじゃない。さあ使おうかとプッシュしたらコンディショナーだったとき、お風呂で絶望したなあ。あれ、千夏には伝わらないかな」
「……わかる、気はする」
「よかった。さあ、もう寝なさい」
ママに促されてベッドに横になる。風邪のせいか、頭がぼんやりとしてきた。もう何も考えられない。




