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異世界幽霊聞き書き帳――死者の声が聞こえる俺は、成仏できない亡霊たちを取材する  作者: たむ
第一部 第九章 王都亡霊夜行

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第25話 名前を奪った男

管理人ノクスの内側から現れた、鐘務局初代局長。


彼はミラの名前を奪い、十三人の鐘守りを作り、記憶鐘計画を始めた人物だった。


レインは銀色の目を持つ男へ、最初の聞き取りを行う。

「あなたから名前を奪った者です」


 管理人ノクスの口が、本人の意思とは無関係に動いた。


 声は穏やかだった。


 ヴァイス邸の証言鏡。


 ヴァルグ古戦場の記憶箱。


 ルーヴェル村へ現れた白い扉。


 記録を一つの結論へまとめ、本人の拒絶を不要と判断してきた声。


 その声の持ち主が、禁書庫の中央で笑っている。


『誰』


 ミラが尋ねた。


「名乗ったはずです」


『ノクスは、禁書庫の管理人でしょう』


「それも私です」


 男は両腕を広げた。


 周囲の本から、同じ銀色の目が一斉に開く。


「禁書庫の管理機能へ与えられた名」


「鐘務局初代局長を示す名」


「そして、記録から個人を消すために用いる名」


「すべてがノクスです」


「本名ではないんですね」


 レインが言った。


 男の笑みが、わずかに止まる。


「本名に、どれほどの価値があるのですか」


「あなたは他者の名前へ執着してきた」


「名前は記録を整理するための識別子です」


「なら、自分の識別子も答えられるはずです」


「ノクスと呼びなさい」


「あなた自身が選んだ呼び名ですか」


「必要な呼称です」


「質問へ答えていません」


 レインは聞き書き帳を開いた。


「生前の名前は?」


「不要です」


「誰にとって?」


「計画にとって」


「あなた本人にとっては?」


 ノクスの銀色の目に、黒い文字が流れた。


「私は、個人であることをやめました」


「いつ」


「記憶鐘計画を始めたときです」


「自分で選んだ?」


「当然です」


「その選択を証明する記録は?」


「私が保管しています」


「あなたの記録を、あなたが正しいと保証しているだけですね」


 余白が顔のない頭を動かした。


『ノクスは、自分だけは質問されない』


 男の銀色の目が余白を見る。


「逃亡司書に発言を許可していません」


『今は、あなた一人に許可を決める権限はない』


 暫定管理規則。


 ノクス単独による収容、削除、統合は停止された。


 管理人としてのノクスは、その規則を認識している。


 しかし今、その内側にいる初代局長が口を動かしている。


「管理人ノクス」


 レインは、男の奥へ呼びかけた。


「聞こえていますか」


 銀色の目が揺れる。


「返事をする必要はありません」


 初代局長の声。


「あなたへ聞いていません」


「同じ存在です」


「違います」


「何を根拠に」


「管理人ノクスは、規則が矛盾すると認めた。自分が不完全だとも認めた」


 レインは初代局長を見た。


「あなたは、一度も自分が間違う可能性を認めていない」


 男の頬へ、一筋の黒い亀裂が走った。


 亀裂の奥から、別の声が漏れる。


『聞こえている』


 管理人ノクスの声。


 弱く、途切れかけている。


『私の記録領域へ、別の命令が存在する』


「分離できますか」


『不可能』


 初代局長が即座に答えた。


『可能性を検証中』


 管理人ノクスが続ける。


 二つの声が、一つの口を奪い合っている。


「余白。ノクスの内部を、本として読めますか」


『触れれば、文字の声を聞けるかもしれない』


「危険です」


 セシリアが止める。


「余白まで取り込まれる可能性があります」


『私が選ぶ』


 余白は自分の白い手を見る。


『本の中にいたとき、私は誰かに読まれるのを待つしかなかった』


 顔のない頭を上げる。


『今は、読むかどうかを自分で選びたい』


「危険を理解していますか」


『理解している範囲では』


「完全には分からない?」


『完全に分かるまで待っていたら、何も選べない』


 ヴァルグ古戦場を旅立った菓子香売りと、よく似た答えだった。


 レインはうなずく。


「接触は短時間です。何かに名前を聞かれても答えないでください」


『余白は、私が選んだ呼び名』


「それも奪われそうになったら?」


『返事をしない』


 余白は、ノクスの崩れかけた腕へ手を伸ばした。


 白い指が、文字でできた皮膚へ触れる。


 その瞬間、禁書庫中の本が激しく開いた。


 ぱらぱらぱらぱら――。


『保存』


『統合』


『削除』


『分類』


『名前を取得』


『拒否を除外』


 無数の命令が余白へ流れ込む。


 余白の白い身体へ、黒い文字が這い上がった。


『違う』


「何が見えます」


『ノクスは、一人じゃない』


「初代局長と管理人以外にも?」


『命令が、何層もある』


 余白の声が苦しげに歪む。


『最初の司書たち』


『鐘務局の命令』


『禁書庫自身の防衛』


『レオの記録』


『閉じ込められた司書の声』


『全部を、ノクスという一つの名前で縛ってる』


「誰が名前を与えた」


『初代局長』


 余白の身体から、一枚の記憶が浮かび上がる。


     ◇


 まだ第十三禁書庫が作られたばかりの時代。


 地下の書庫には、人間の司書たちが働いていた。


 中央には、大きな石板がある。


 目録を整理し、危険な書物を識別するための補助術式。


 人格はない。


 命令された分類を行うだけの道具。


 その前に、銀色の目を持つ若い神官が立っている。


『この術式には、呼称が必要です』


 一人の司書が言った。


『呼称がなければ、複数の命令を区別できません』


「では、ノクスと名づける」


 銀色の目を持つ神官が答えた。


『古語で《夜》を意味する名ですか』


「違う」


 神官は石板へ手を置いた。


「《名を持たないもの》を意味する」


 黒い文字が術式へ流れ込む。


ノクス。


「名前を持たない管理者」


「個人ではないため、個人の意思も持たない」


「記録を守るためだけに存在する」


 司書の一人が尋ねる。


『判断が必要な場合は、どうしますか』


「規則へ従わせる」


『規則が矛盾した場合は?』


「上位命令を優先する」


『上位命令を決める者は?』


 銀色の目を持つ神官は笑った。


「私だ」


 石板の中央へ、自分の手形を押す。


 ノクスという名の最下層。


 誰にも見えない場所へ、一つの命令を記した。


すべての記録は、初代鐘務局長の目的へ奉仕する。


 記憶が消える。


     ◇


 余白がノクスの腕から手を離した。


 白い身体の半分が黒い文字で汚れている。


「大丈夫ですか」


『私が誰かは、まだ分かる』


「名前は」


『余白』


「現在地は」


『第十三禁書庫』


「目的は」


『ノクスの中にある命令を確認すること』


 黒い文字が少しずつ薄くなった。


「初代局長は、管理術式へ自分の命令を隠した」


 エルナが記録する。


「それが後のノクスへ引き継がれた」


「禁書庫を守る管理人は、最初から初代局長の目的へ従うよう設計されていた」


 セシリアは男へ銀杖を向けた。


「現在のノクスが、本人の意思で司書を閉じ込めていたとは限らない」


「意思という言葉を、術式へ用いるのは不適切です」


 初代局長が答える。


「なら、ミラの意思を不完全と呼ぶ資格もない」


 男の口元から笑みが消えた。


     ◇


『名前を返して』


 ミラが一歩前へ出た。


「どの名前を?」


『あなたが私から取った名前』


「ミレイア・セレスト」


『呼ばないで』


 白い帳簿が、セシリアの鞄の中で大きく震えた。


 銀色の留め金が外れ、勝手に頁が開く。


 無数の名前が書かれた白い頁。


 その中央に、一つだけ強く光る文字。


ミレイア・セレスト。


 ミラの身体が白い帳簿へ引かれる。


 レインは二人の間へ立った。


「本人が拒否しています」


「記録された正式名称です」


「正式かどうかを決めたのは誰です」


「聖導教会」


「本人ではない」


「出生時に本人が名前を選ぶことはありません」


「後から使わないと選ぶことはできる」


「名前は人生の連続性を証明します」


「本人を縛る鎖にもなる」


 初代局長は、白い帳簿へ手を伸ばした。


「名前がなければ、死者は忘れられる」


「忘れられることを恐れているんですか」


 レインの問いに、男の手が止まった。


「私は、死者の消失を防ごうとした」


「質問へ答えてください」


「人は忘れます」


「あなたが恐れているかを聞いています」


「国は記録を書き換える」


「あなた自身は?」


「家族は死者の顔を失う」


「あなたは、忘れられるのが怖かった?」


 銀色の瞳の奥で、一瞬だけ別の色が動いた。


 黒。


 深い穴のような暗闇。


「私の感情は、計画に不要です」


「まだ残っているんですね」


 男の周囲の本が、ばたばたと閉じる。


「初代局長になる前、誰かを失った?」


「不要な質問です」


「名前を覚えていますか」


「黙りなさい」


「忘れた?」


「黙れ!」


 初めて、男が声を荒らげた。


 禁書庫全体が揺れる。


 白い帳簿から、数百人分の名前が空中へ浮かび上がった。


『名を呼べ』


『忘れるな』


『消えるな』


 死者の声。


 だが本人の声ではない。


 名前を失うことを恐れた、初代局長自身の感情が混ざっている。


「誰を忘れたんです」


 レインは問い続けた。


「母親?」


「父親?」


「子ども?」


「伴侶?」


「黙れと言っている!」


 初代局長の身体が大きく崩れた。


 その奥に、一人の少年の記憶が見える。


 暗い家。


 寝台に横たわる女性。


 少年は母親らしき人の手を握っている。


『名前を呼んで』


 女性が言う。


『私の名前を、忘れないで』


 少年は泣きながら名前を呼ぼうとする。


 だが声が出ない。


 女性の顔が、記憶の中から消えていく。


 家の記録にもない。


 墓にも名前がない。


 疫病で亡くなった貧民。


 教会の集団葬送で、番号だけを与えられた死者。


 少年は、母親の本名を最後まで知ることができなかった。


「だから、すべての死者へ名前を与えようとした」


 レインが言った。


「忘れられないように」


「同情を求めてはいません」


「同情ではありません」


「ならば、何だ」


「動機の確認です」


 初代局長の顔が再び現在の姿へ戻る。


「私は理解した」


 声は静かになった。


「記憶は失われる」


「名前は消える」


「墓は崩れる」


「愛した者も、数世代後には存在しなかったことになる」


「それが、二度目の死です」


「だから、本人が望まなくても保存する?」


「望みは一時的です」


「苦しみから消えたいと願う死者も、時が経てば残りたいと考える可能性がある」


「消えた後では選び直せない」


「ならば、まず保存すべきだ」


 理屈は一貫している。


 一度消えれば戻れない。


 だから、本人が旅立ちや消滅を望んでも、記録へ固定する。


「あなたは、死者が選び直す可能性を守ろうとした」


「そのとおりです」


「しかし、残りたくない選択は認めなかった」


「将来の選択肢を守るためです」


「本人の現在を奪って?」


「一時的な拘束です」


「何百年も?」


「永遠と比べれば短い」


 ミラが白い帳簿を見た。


『私の名前も、守ったつもり?』


「はい」


『私が嫌だと言っても?』


「あなたは、儀式の苦痛により正常な判断ができなかった」


『今も嫌』


「記憶を失っているため、判断材料が不足している」


『全部戻っても嫌って言ったら?』


「そのときは、さらに原因を調べます」


『絶対に認めないんだ』


 ミラの声には怒りより、呆れがあった。


『あなたが欲しい答えになるまで、私が間違ってることにする』


「完全な情報がなければ、正しい選択はできません」


『完全になっても、あなたと違う答えを選ぶかもしれない』


「それは不合理です」


『それが私』


 初代局長には理解できない。


 間違えること。


 後悔すること。


 不完全なまま選ぶこと。


 選択の価値ではなく、保存可能性だけを見ている。


     ◇


「十三人の鐘守りを作った目的を説明してください」


 レインは聞き取りを進めた。


「死者の名前を保存するためだけではありませんね」


「当然です」


 初代局長は、再び穏やかな表情へ戻る。


「記憶鐘計画の最終目的は、すべての死者を一つの記録領域へ移すことでした」


「集合霊を作る?」


「違います」


「記憶を混ぜれば、個人が失われます」


「だから十三人の鐘守りが必要だった」


 男が手を上げる。


 銀色の本から、十二の円が浮かび上がる。


「第一鐘守は、名前を区別する」


「第二鐘守は、死因を整理する」


「第三鐘守は、時間を維持する」


「第四鐘守は、感情を分類する」


「第五鐘守は、記憶の重複を確認する」


 十二人へ、それぞれ異なる管理役割が与えられていた。


 死者の記録を混ぜず、個人として保存するための機能。


「第十三鐘守は、それらを統合し、矛盾を判断する」


「そして十四番目は?」


 初代局長はレインを見る。


「判断を事実として確定する」


 聞き書き帳が、レインの手の中で震えた。


「聞き書き人は、記録係ではない?」


「記録だけなら、誰にでもできます」


「十四番目は、複数の証言から一つを選び、世界へ固定する者です」


「だから帳面が、結論を急がせていた」


「有罪か無罪」


「残るか旅立つか」


「本名か選んだ名前か」


「矛盾を一つへ決めることが、十四番目の役割です」


「俺は、そんな役割を引き受けていない」


「すでに実行しています」


 男が指を動かす。


 周囲に、これまでの記録が浮かんだ。


ヴァロ・セルドは、崩落を招いた。


白い花冠の少女は、現在旅立ちを望まない。


エドラム・ヴァレインは、国を救い、民間人を記録から消した。


リディア・ヴァイスは死亡していなかった。


「あなたが書いたことで、失われかけた記憶が固定された」


「死者の輪郭が戻った」


「扉の規則が訂正された」


「法廷の判決が無効になった」


「あなたは、すでに記録を現実へ変えている」


「一つの答えだけを残してはいない」


「今は、です」


「どういう意味だ」


「必要な証言を集めている段階だからです」


 初代局長は笑った。


「第十三鐘守は、十二の記録を比較する」


「十四番目は、最終記録を承認する」


「二人が揃えば、死者の世界と生者の世界の境界を書き換えられる」


 セシリアが息をのむ。


「死者を鐘へ送るのではない」


「生者の世界そのものを、記憶鐘へ変える?」


「正確です」


 禁書庫の天井に、王都の地図が浮かぶ。


 街。


 家。


 王城。


 大神殿。


 数えきれない生者の名前。


「人が死んだ後に記録するから、取りこぼしが生まれる」


「ならば、生きている間からすべてを記録すればよい」


「思考、感情、名前、選択」


「世界全体を記録領域へ接続する」


「そうすれば、誰も忘れられない」


「誰も完全には死なない」


「誰も記録の外へ逃げられない」


 エルナが低い声で言った。


「生きている人間の意思も、すべて保存するつもりですか」


「保存は保護です」


「拒否しても?」


「一時的な混乱として扱います」


「それを生きているとは呼びません」


「死ぬよりはよい」


「あなたが決めることではありません」


 セシリアの銀杖が強く光る。


「女神は、死者を導くと教えられています。所有するとは教えられていない」


「教義は、時代によって変化します」


「だから、あなたは都合よく書き換えた」


「より多くを救うためです」


「救われる本人が、救いだと思っていなくても?」


「本人は、すべてを理解していません」


 また同じ答え。


 自分だけが正しい。


 他者の拒絶は情報不足。


 意思は、計画を妨げる誤差。


     ◇


『私を四つに分けたのも、計画だった?』


 ミラが尋ねる。


「完全には計画どおりではありません」


「レオとあなたが抵抗することは予測していました」


『私が自分を分けることも?』


「複数の可能性の一つとして」


「統合に成功すれば、完全な第十三鐘守が得られる」


「分割されれば、四つの保管領域が作られる」


「どちらでも計画を続けられるようにした」


「どこへ入り込んだ」


 レインが聞いた。


「レオの記録では、四要素の一つへ初代局長が入り込んだとある」


 初代局長は白い帳簿を見る。


「すでに分かっているのでしょう」


「名前か」


「名前は、本人を呼び出す鍵です」


 白い帳簿から、ミレイア・セレストという文字が浮かび上がる。


 その文字の下に、極小の黒い文章が隠れていた。


この名を名乗る者は、初代鐘務局長の命令を最高位とする。


 セシリアが銀杖で文字を拡大する。


「名前そのものに、従属命令を入れた?」


「正式名称とは、役割と権限を含むものです」


「だからミラは、その名前を捨てた」


 名前を呼ばれるたび、鐘に見つかる。


 白い扉が彼女を完成させようとする。


 名前を取り戻せば、初代局長の命令まで受け入れることになる。


『私の中じゃなかった』


 ミラが少し安堵した。


 だが初代局長は笑う。


「本当に?」


 ミラの身体が強張る。


「名前は、あなたから完全に切り離されていません」


「誰かが旧名を呼べば、あなたは反応する」


「霧の中で振り返りかけた」


「白い扉の声へ耳を向けた」


「記録上の名前と意思は、細い糸でつながっています」


「では、現在ミラの中にも命令が届く?」


「届く可能性があります」


『私が選んだと思ってたことも?』


「私の命令だったかもしれません」


 ミラの顔から色が消える。


『鐘を壊したことも?』


「可能性はあります」


『レオと逃げたことも?』


「否定できません」


『レインと一緒にいることも?』


「すべての選択には、外部からの影響があります」


 初代局長は、ミラが最も恐れる疑いを差し込もうとしている。


 自分の意思は、本当に自分のものなのか。


 だがレインは、すぐには否定しなかった。


「ミラ」


『何』


「今、初代局長の言葉を信じたいですか」


『信じたくない』


「信じたくないことと、間違いだと決めることは別だ」


『分かってる』


「では、確認する」


『どうやって』


「相手が言いたくないことを聞く」


 レインは初代局長へ向き直った。


「あなたは、ミラの選択を完全に操作できますか」


「影響を与えられます」


「質問へ答えてください。完全に操作できますか」


「命令への抵抗は、長期分離により生じた異常です」


「できないんですね」


「現在は」


「過去は?」


「儀式中は、高い成功率で――」


「ミラは自分を四つへ分けた」


 初代局長の表情が止まる。


「あなたの命令に完全に従うなら、分割できなかった」


「レオと協力し、意思を逃がすこともできない」


「十二の連鐘を壊すことも」


「あなたは、ミラの選択を完全には支配できなかった」


 聞き書き帳へ記す。


初代鐘務局長は、第十三鐘守の旧名へ従属命令を記録した。


ただし第十三鐘守は、命令へ反して自己分割、意思の逃走、連鐘破壊を実行。


命令が影響を与えた可能性は否定できないが、すべての選択を支配していたとは認められない。


 文字が完成すると、ミラと白い帳簿をつなぐ銀色の糸が目に見える形で現れた。


 細い。


 何本もあるわけではない。


 一本だけ。


「セシリア」


「切断を試みます」


 初代局長が手を上げる。


「切れば、名前との接続が完全に失われます」


『今の私が消える?』


「いいえ」


「しかし過去の本名を取り戻す方法がなくなる」


 ミラは銀色の糸を見る。


 過去。


 レオ。


 第十三鐘守として生きた時間。


 失った人生へつながる最後の糸。


「今すぐ切る必要はない」


 レインが言った。


『でも、この人の命令も来る』


「糸を切らず、命令だけを遮断する方法を探す」


「不可能です」


 初代局長が断言する。


「あなたが不可能だと言うなら、調べる価値があります」


『レインらしい』


 ミラは少しだけ笑った。


     ◇


「あなたの計画には、俺の自発的な記録が必要なんですね」


 レインが尋ねる。


「はい」


「帳面を奪って、自分で書けばいいのでは?」


「十四番目以外の筆では、最終承認になりません」


「俺を操れば?」


「記録者の意思がない文章は、証明として成立しません」


「だから、説得しようとしている」


「理解していただこうとしているのです」


「理解したうえで断ったら?」


「王都の死者と生者が失われる状況を作り、再考していただきます」


 バルドが大剣を構えた。


「それを脅迫と言う」


「選択に必要な状況を示すだけです」


「言い方を変えるな」


 初代局長は、最深部の白い扉を見た。


「第六の鐘が鳴れば、禁書庫の暫定管理は解除されます」


「なぜ」


「暫定規則を承認したのは、現在の管理人ノクスです」


「私が完全に管理権を取り戻せば、その承認を撤回できます」


「あなたと管理人ノクスは別です」


「同じ名前に属する記録です」


「名前が同じなら、本人も同じ?」


 レインは余白を見る。


「白い本にいた司書は、書架番号で管理されていた。しかし自分で余白と名乗り、別の選択をした」


 指守り。


「第十二鐘守という役割記録も、新しい呼び名を選んだ」


 ミラ。


「記録上の名と現在の名が違えば、権限も分けられる」


 エルナが気づく。


「管理人側のノクスへ、新しい呼称を選ばせる?」


「初代局長と同じ名前から切り離す」


 初代局長の身体が激しく揺れた。


「許可しません」


「あなたの許可は必要ない」


 レインは、男の内側へ呼びかけた。


「管理人ノクス。聞こえていますか」


 返事はない。


 銀色の目が、完全に初代局長の色へ染まっている。


「余白」


『探す』


 余白は再びノクスへ触れた。


 今度は黒い文字が一気に腕を上る。


『深い』


「無理をしないでください」


『名前の下に、押し込まれてる』


「呼びかけます」


 レインは聞き書き帳を開いた。


「禁書庫を保存し、規則の矛盾を認め、暫定管理を受け入れた存在へ」


 初代局長が笑う。


「呼称がなければ、記録は届きません」


「役割で区別します」


「不完全です」


「完全である必要はない」


 レインは白い頁へ書く。


第十三禁書庫の保存機能を担い、初代鐘務局長の命令とは異なる判断を行った管理存在。


「長い」


 バルドが言った。


「今は我慢してください」


 文字が光る。


 初代局長の胸元から、弱い声。


『聞こえる』


「現在、初代局長と同じ名前を使いたいですか」


『いいえ』


 明確な拒否。


「では、自分の呼び名を選んでください」


『私には、禁書庫以外の記憶がない』


「場所から選んでもいい」


『私は、書架を守る』


「書架?」


 短い沈黙。


『書架と呼ばれたい』


 初代局長が怒声を上げる。


「認めない!」


 レインは記録する。


第十三禁書庫の保存管理存在は、初代鐘務局長と共有していた《ノクス》の呼称を拒否。


現在の呼称として《書架》を選択。


 最後の一文字が完成した。


 初代局長の身体が、縦に二つへ裂ける。


 右半分。


 銀色の目を持つ人間の姿。


 左半分。


 無数の本棚と文字で作られた、顔のない管理存在。


『私は、書架』


 管理人だったものが自分の名を口にする。


 禁書庫中の本から、二つの声が分離した。


『保存機能を継続』


 書架の声。


『最上位命令を実行』


 初代局長の声。


 同じ名前に縛られていた二つの存在が、初めて別々のものとして現れた。


 初代局長の身体は半透明になる。


「記録だけで、私を追い出せると思うな」


「追い出してはいません」


 レインが答える。


「あなたと、あなたではないものを分けただけです」


「同じことだ」


「違います」


 初代局長が初めて、レインへ強い憎しみを向けた。


「レオと同じ目をしている」


「親族ですから」


「違う」


 男は聞き書き帳を指した。


「記録を一つへ決める力を持ちながら、分けることばかり選ぶ」


「人を記録に合わせるよりはいい」


「その甘さが、死者を二度殺す」


「あなたの恐怖を、全員の規則にしないでください」


 初代局長の輪郭がさらに薄れる。


 ノクスという管理名を失い、禁書庫へ直接命令できなくなっている。


 しかし消えてはいない。


 白い帳簿の中。


 ミラの旧名へ埋め込まれた命令。


 そこが彼の本体だ。


「第六の鐘は止められません」


 男は白い帳簿へ溶け込みながら言った。


「名前が目覚めれば、次に記憶が選ばれる」


『何を選ぶの』


「第十三鐘守として完成するための中心を」


「統合は暫定規則で停止しています」


 セシリアが言う。


「統合ではありません」


 初代局長の顔が、白い帳簿の頁へ浮かぶ。


「四つのうち、一つを《本物》として指定するだけです」


 ミラ。


 名前。


 記憶。


 身体。


「一つが本物とされれば、残り三つは付属記録になる」


「本人の意思は?」


「十四番目が決める」


 聞き書き帳の白い頁へ、四つの選択肢が浮かび始めた。


意思を本体とする。


名前を本体とする。


記憶を本体とする。


身体を本体とする。


「選べ」


 初代局長の声が、白い帳簿から響く。


「選ばなければ、第六の鐘が自動的に決定する」


「何を基準に」


「最も保存情報量が多いもの」


「それでは、記憶が選ばれる」


 エルナが銀色の本を見る。


「現在のミラの意思は、過去の記憶量では最も少ない」


『私が偽物になる?』


「記録上は、付属する意思断片となります」


 白い扉の前にいる銀髪の女性。


 身体側の存在が胸を押さえる。


『私は、本物?』


「選ばれるまでは、どれも同じです」


 初代局長は笑った。


「ですが世界は、中心を必要とする」


「必要ありません」


 レインは四つの選択肢へ線を引いた。


「一人だった存在が分かれ、それぞれに現在の意思が生まれた」


「今さら、一つだけを本物とは決められない」


「記録が不安定になる」


「不安定なまま記録する」


「分類できない」


「別々に扱う」


「第十三鐘守が完成しない」


「完成させない」


 初代局長の銀色の目が細くなる。


「第六の鐘は、あなたの拒否を待ちません」


 最深部の白い扉から、低い音が響き始める。


 ゴ――ン。


 まだ完全には鳴っていない。


 鐘が震え、音をためている。


 書架が警告する。


『第六鐘起動』


『第十三鐘守中心記録の自動選定を開始』


 余白が銀色の本へ駆け寄る。


『記憶が動いてる!』


 十二人の鐘守りの背後で、巨大な銀色の光が立ち上がる。


 ミラが失った過去。


 第十三鐘守としての人生。


 レオとの出会い。


 鐘務局への抵抗。


 分割に至るまでの記憶。


 そのすべてが、人間の姿を作り始める。


 顔はミラ。


 年齢は銀髪の身体より少し上。


 手には、黒い鐘を割るための銀槌。


『私は、第十三鐘守の記憶』


 新たな女性が目を開く。


『情報量により、私が本体として選定される』


「あなた自身は、それを望んでいますか」


 レインが尋ねた。


 記憶の女性は答えようとする。


 だが初代局長の声が重なる。


『記憶は、保存を望む』


『意思は、記憶へ従う』


 ミラが記憶の女性へ向かって叫ぶ。


『あなたの言葉で答えて!』


 第六の鐘が、さらに強く震える。


 残り時間はわずか。


 ミラ。


 白い帳簿の名前。


 銀色の本の記憶。


 封印室の身体。


 四つのうち、どれか一つが本物にされようとしている。


 レインは聞き書き帳を開いた。


 どれかを選ばなければ、情報量だけで記憶が選ばれる。


 だが一つを選べば、残りの存在を偽物へ落とすことになる。


 必要なのは、第五の答えだった。


「本物を選ばない」


 レインは新しい頁へ書き始める。


「四人とも、第十三鐘守だった存在から分かれた」


「そして今は、それぞれ別の選択を持つ存在です」


 初代局長が叫ぶ。


「その記録は分類不能だ!」


「分類できないことを、消す理由にするな!」


 第六の鐘が鳴った。


 ゴォン――。


 銀色の光が禁書庫全体を飲み込む。


 聞き書き帳の頁に、レインが最後の一文を書く。


第十三鐘守の本体は、現時点では決定しない。


 文字が光へ包まれる。


 初代局長の声。


 ミラの声。


 身体の女性。


 記憶の女性。


 白い帳簿から聞こえる、名前だけの声。


 五つの声が重なった。


『十四番目の記録を審査する』


 銀色の光の中。


 レインの前に、四人のミラが立っていた。


 どれが本物かを選ぶ審査ではない。


 四人を別々の存在として認められるかを試す、十四番目の最初の審査だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


鐘務局初代局長ノクスは、名前を失った母親の存在を忘れた経験から、「誰も完全には死なず、忘れられない世界」を作ろうとしていました。


しかし、そのために本人の拒絶を一時的な誤判断として扱い、世界そのものを巨大な記憶鐘へ変えようとしています。


また、管理人ノクスは初代局長と同じ名に縛られていましたが、自ら《書架》という新しい呼称を選び、初代局長から分離しました。


次回、第26話「十四番目の役目」。


ミラの意思、名前、記憶、身体。


どれか一つを本物として選ぶよう迫られたレインは、「本物を決めない」という第五の答えを記録し、十四番目の審査へ挑みます。

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