第1話 誰もいない墓地から、声がする
墓守の息子レインには、死者の姿が見える。
だが、それは誇れる力でも、便利な魔法でもなかった。
今夜までは。
死者は、夜になると話が長くなる。
レイン・アスターがその事実に気づいたのは、七歳の頃だった。
昼間の死者は静かだ。
墓石のそばに座り、通り過ぎる雲を眺めている者。
自分の墓に供えられた花を、嬉しそうに見つめている者。
誰かが迎えに来るのを待つように、墓地の門を見つめ続けている者。
彼らはほとんど口を開かない。
だが、日が沈むと違う。
誰にも聞いてもらえなかった話。
生きていた頃の自慢。
家族への愚痴。
死んだ理由。
自分の葬儀に来なかった親戚への文句。
それらを一斉に話し始める。
しかも死者は、自分の話が終わるまで相手が帰らないと思っている。
「だから、俺は夜の墓地が嫌いなんだ」
レインは手にした角灯を掲げながら、深いため息をついた。
夜の共同墓地には、冷たい霧が漂っていた。
石造りの低い塀に囲まれた墓地は、町リベルタの北端にある。昼間は日当たりがよく、丘の上から麦畑を見渡せる穏やかな場所だった。
しかし夜になると、別の顔を見せる。
角灯の光が届かない場所で、墓石が人影のように並んでいる。
風が枯れ枝を揺らすたび、誰かが歩いているような音がした。
そして、レインにだけ見える住人たちが、そこかしこに立っている。
『若いの。少し聞いてくれんか』
「聞かない」
道端に座っていた老人の幽霊が、半透明の手を上げた。
『まだ何も言っておらんぞ』
「昨日も同じ話を聞いた。若い頃に南の街でパン屋をしていて、王女様にパンを売った話だろ」
『王女ではない。王女に仕えていた女官の妹だ』
「さらに遠くなってるじゃないか」
『それでも王家にパンを売ったことには変わりない』
「変わるよ」
レインは足を止めずに通り過ぎた。
老人の幽霊は不満そうに頬を膨らませたが、追ってはこなかった。
この墓地で長く過ごす幽霊たちは、レインが会話できることを知っている。
だから油断すると、次から次へと話しかけられる。
『レイン、わしの墓に雑草が生えている』
「明日の朝に抜く」
『今抜いてくれ』
「暗くて見えない」
『わしには見えるぞ』
「俺は生きてるから見えないんだよ」
墓石にもたれかかっている男の幽霊へ返事をし、レインは墓地の奥へ進んだ。
今夜ここへ来たのは、死者の話を聞くためではない。
墓地の外れにある古い柵が倒れたため、その確認を父親から頼まれたのだ。
父のダリオは、この共同墓地の管理人を務めている。
本来なら父が確認するはずだったが、夕方から腰を痛め、動けなくなっていた。
息子が墓地の幽霊を見られることを、父は知らない。
正確には、レインが誰にも話していない。
幽霊が見えるなどと口にすれば、ろくなことにならないからだ。
聖導教会の教えでは、死者の魂は女神セレネの導きによって光の彼方へ旅立つ。
地上に残る死者など存在しない。
存在してはならない。
幽霊を見たと言えば、魔物に惑わされたか、精神を病んでいるか、死霊術に関わったと疑われる。
どの扱いを受けても、平穏な人生からは遠ざかる。
レインは英雄になりたいわけではなかった。
特別な力を認められたいとも思っていない。
静かに働き、食事をし、暖かい寝床で眠れれば、それでよかった。
「柵を確認したら帰る。誰に何を言われても帰る」
自分に言い聞かせる。
だが、その言葉は墓地の奥から聞こえてきた声によって止められた。
『ねえ』
少女の声だった。
レインは立ち止まった。
墓地にいる幽霊の顔と声は、ほとんど覚えている。
少なくとも、少女の幽霊はいなかったはずだ。
『そこの人』
再び声がした。
レインは聞こえなかったことにして歩き出した。
『見えてるでしょう』
「見えてない」
『まだ姿を見せてないのに?』
足が止まった。
レインは自分の失言に気づき、額を押さえた。
墓石の陰から、少女が顔を出した。
年齢は十五歳ほどに見える。
肩まで伸びた淡い銀色の髪。
膝丈の白い服は、ところどころ土で汚れている。
裸足だった。
肌は月光よりも青白く、身体の輪郭が薄く透けている。
間違いなく幽霊だ。
少女は墓石の後ろから出ると、嬉しそうに笑った。
『やっぱり見えてる』
「見えてない」
『目が合ってる』
「たまたまだ」
『私が右に動いても?』
少女が右へ一歩動く。
レインの視線も無意識に追ってしまう。
少女は左へ動く。
また視線が追う。
『見えてる』
「……見えているとして、何の用だ」
『認めた』
「帰る」
『待って』
レインが背を向けると、少女はその前へ回り込んだ。
幽霊なので、足音はしない。
『少しだけ話を聞いて』
「少しだけと言って、本当に少しだった幽霊を俺は知らない」
『私は話すことがないから大丈夫』
「それはそれで困る」
少女は不思議そうに首を傾けた。
レインは改めて彼女を観察した。
衣服の形は、この地方のものと大きく違わない。
貴族のような装飾はなく、農村の娘が着る簡素な服に近い。
目立った傷はない。
血もついていない。
死因につながる特徴は見当たらなかった。
「お前は、いつからここにいる?」
『分からない』
「どこの墓に入っている?」
『分からない』
「名前は?」
『分からない』
少女は困ったように笑った。
『何も覚えてないの』
珍しいことではなかった。
幽霊は生前の記憶をすべて持っているとは限らない。
名前だけを忘れている者。
家族の顔だけが思い出せない者。
自分が死んだ瞬間だけを失っている者。
長く地上へ残るほど、記憶が曖昧になる幽霊もいる。
だが、何も覚えていない幽霊をレインは初めて見た。
「自分が死んでいることは分かるのか?」
『たぶん』
「たぶん?」
『あなたの身体は向こう側が見えないけど、私の身体は向こう側が見えるから』
少女は自分の腕を掲げた。
半透明の皮膚を通して、背後の墓石が見えている。
『それに、さっきから何度も地面を踏もうとしてるけど、少し浮くの』
言われてみれば、少女の裸足は地面から指一本分ほど浮いていた。
『だから、死んでるんじゃないかな』
「妙に冷静だな」
『泣いたら生き返る?』
「生き返らない」
『それなら、話を進めたほうがいいでしょう』
死者からもっともなことを言われ、レインは黙った。
少女は明るく振る舞っている。
だが、目の奥には不安があった。
自分が誰か分からない。
なぜここにいるか分からない。
自分の墓さえ分からない。
それでも話せる相手をようやく見つけたのだ。
レインは放っておけない自分の性格を恨んだ。
「少しだけだ」
『ありがとう』
「分かっていることを順番に話せ。ここへ来る前、何を見た?」
『暗い場所』
「墓の中か?」
『違うと思う。狭くなかったから』
「誰かいたか?」
『たくさん』
レインの表情が変わった。
「何人だ」
『分からない。みんな声だけだった』
「何を話していた?」
少女は答えようとして、口を閉じた。
『思い出せない』
「では、最後に覚えていることは?」
『音』
「音?」
『鐘の音』
夜風が止まった。
木々のざわめきも消え、墓地全体が静まり返る。
レインは無意識に周囲を見回した。
町の教会にある鐘は、日没後には鳴らされない。
まして今は真夜中だ。
「どこの鐘だ」
『分からない』
「何回鳴った?」
『それも分からない。でも、すごく遠くから聞こえた』
少女は両手で耳を塞ぐような仕草をした。
透けた指が髪に沈む。
『聞いていると、自分のことが少しずつ消えていく気がした』
「それで名前も忘れたのか?」
『たぶん』
「その言葉ばかりだな」
『何も分からないんだから、仕方ないでしょう』
少女は頬を膨らませた。
先ほどまでの不安そうな姿より、その表情のほうが年相応に見える。
「鐘が鳴った後、ここへ来たのか?」
『気づいたら、あの墓の前にいた』
少女が指さした。
墓地の外れにある、古びた墓石だった。
表面は風雨に削られ、刻まれていた文字もほとんど読めない。
レインは角灯を近づけた。
墓石の下部に、かすかな文字が残っている。
「ミ……ラ?」
『それ、私の名前?』
「分からない。墓石には、そう読める文字が残っているだけだ」
『じゃあ、私をミラって呼んで』
「簡単に決めていいのか」
『名前がないと呼びにくいでしょう』
「お前と長く話す予定はない」
『でも、もう話してる』
レインは返す言葉を失った。
少女――仮の名をミラとした幽霊は、満足そうにうなずく。
『あなたは?』
「レインだ」
『レイン。いい名前ね』
「普通の名前だ」
『私には普通かどうか分からないもの』
何気ない返答だった。
だがレインは、少女が何も持っていないことを思い出した。
名前も、記憶も、帰る場所もない。
彼女にとっては、普通であることさえ判断できない。
「今夜はここにいろ。明日、墓地の記録を調べる」
『手伝ってくれるの?』
「この墓に埋葬された者を確認するだけだ」
『それでもいい』
「ただし、勝手についてくるな」
『分かった』
「話しかけ続けるのもやめろ」
『分かった』
「ほかの幽霊と問題を起こすな」
『努力する』
「そこは分かったと言え」
レインは角灯を持ち直した。
倒れた柵を確認して、早く家へ戻りたい。
これ以上墓地にいると、別の幽霊まで寄ってくる。
ところが、数歩進んだところでミラが声を上げた。
『待って』
「まだ何かあるのか」
『さっき言おうと思ってたことがある』
「名前のことより先に言うべきことか?」
『たぶん』
「またそれか」
ミラは笑わなかった。
彼女は墓地の奥を見つめている。
そこには、今日埋葬されたばかりの新しい墓があった。
裕福な商人のものだと、父から聞いている。
墓の周囲には白い花が供えられ、土はまだ湿っていた。
『今夜、あの下から誰かが出てくる』
レインは眉を寄せた。
「幽霊なら、墓の下から出る必要はない」
『幽霊じゃないかもしれない』
「どういう意味だ」
『分からない。でも、ずっと音がしてる』
レインは耳を澄ませた。
何も聞こえない。
風もない。
虫の声さえしない。
「何の音だ」
『土を叩いてる』
その瞬間だった。
どん。
低い音が、墓地の奥から響いた。
レインの身体が固まる。
どん。
今度は、はっきり聞こえた。
新しい墓の下。
土の奥から、何かが棺を叩いている。
どん。
どん。
どん。
一定の間隔で、助けを求めるように音が続く。
レインの手から角灯が落ちかけた。
「まさか、生きたまま埋葬されたのか?」
『違う』
ミラは青ざめた顔で首を振った。
『あの人は、もう死んでる』
「では、何が棺を叩いている」
ミラが答える前に、声がした。
墓の下から。
厚い土と、閉ざされた棺の向こうから。
『誰か』
男の声だった。
『誰か、そこにいるのか』
レインは息を止めた。
声は生者の耳には届かない。
死者の声だ。
『頼む』
墓の中の男が、震える声で訴える。
『ここから出してくれ』
ミラがレインを見る。
『この人、自分が死んだことに気づいてない』
棺を叩く音が、夜の墓地に響き続けた。
レインは帰宅を諦めた。
同時に、まだ何も書かれていない古い帳面を持ってきたことを思い出す。
父から、墓地の修繕箇所を記録するために渡されたものだった。
レインは震える手で革表紙を開いた。
最初のページに、男の墓石へ刻まれた名前を書く。
そして、その下へ続けた。
――埋葬後も、自分が生きていると主張している。
これが、レイン・アスターによる最初の聞き書きだった。
後に世界の歴史を変えることになる一冊は、誰にも知られず、夜の墓地で始まった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
名前も記憶もない少女の幽霊ミラと、自分が死んだことに気づいていない商人。
次回、レインは墓の中の男から、奇妙な「殺人」の証言を聞くことになります。




