106 / 父の背中
営業を担当する社員が持ち帰った受注書を読み込み、泰三はしばらく考えた後、オーケーサインを出した。
先代から引き継いだ、この「田島鉄加工」の社長になって三年経つが、これがはじめての仕事である。
その日の夜は二階の自宅で、母と美紀がこしらえた刺身料理を囲んで、家族だけのささやかな祝いの席が設けられた。
「お前も、社長としてやっと一人前だな」
そう言って酒をあおり顔を赤らめているのは、先代、つまり泰三の父の次郎である。
「父さんにそう言われると、これからも頑張れる気がするよ」
泰三は笑いながら、父の空いた杯に次の酒を注ぐ。
「もうお義父さん、あんまりおだてないでくださいよ。この人、すぐに調子に乗るんですから」
台所から嬉しそうな美紀の声が聞こえてきた。
「そうよ、あなた、お酒もほどほどにね」
今度は母の声である。
「いいなぁ。僕はまだまだ修行中だよ」
息子の淳がなぜだかすねだした。
ワン、ワン、と、飼い犬のトラも吠えながら上に乗っかってくる。
いつもより豪華な料理が並んでいるとはいえ、変わらずにぎやかな食卓であった。
しかし。
「なぁ、泰三。おまえ――」
と言いかけて、父の動きが止まった。
次の瞬間、父は飲み食いしていたものをその場で吐きだし、もがき始めたかと思うと、仰向けになって白目をむいて倒れてしまったのである。
「美紀、母さん、救急車!」
泰三はすぐさま指示を出し、自分は父の口に手を突っ込んで喉が詰まらないように中のものを指でかきだし始めた。
泰三の右手には、小指が、ない。
まだ若かった時に工場の機械でやったのだが、障碍者となってからも、泰三は以前にも増して仕事に打ち込むようになり、今では十名いる工場の従業員の中でも一位二位を争う腕の持ち主である。
その右手が、今、父の吐瀉物にまみれている。
機械とは違う、人間の肉体のやわらかな弾力を感じながら、泰三は冷静に今後のことを考えていた。
父が持ち直したとしても、もう今までのようには働けまい。
その場合、自分が何もかもを決める立場となる。
俺に、出来るか――。
やらなければ、生活が、いや会社そのものが立ち行かなくなる。
父がこのまま死んでしまっても、同じことが言える。
泰三の右手が震える。
それは動かし続けていたための痙攣であったか、はたまた武者震いであったか。
泰三は、このときはじめて、父の背負っていたものの大きさを知ったのである。




