147 / カンヴァス
モスグリーンとライムイエローをペインティングナイフで混ぜながら、詩織は、最近いろいろとうまくいきはじめた自分の人生を思う。
学生の頃の詩織は、気分の浮き沈みは激しく、三十分おきに気分が変わる酷い気分屋だった。
そんな詩織が、唯一心しずかに過ごせる場所が、美術室だった。
放課後、しんと静まり返った美術室では、先輩たちが自分の作品に向き合っていた。
美術部の教員は、そんな先輩たちの間をぬって、ゆくりゆくりと作品を眺めては、あれこれと小さくアドバイスをほどこしていた。
先輩たちの中に交じって、いっぱしにカンヴァスの前に座り絵筆をとるとき、詩織の心は、今までにないくらいに、しんと静まるのだった。
元々勉強は得意ではなかったので、大学は地方のFランに進んだ。
人生一度きりと、思い切り大学生活をエンジョイするつもりで進学したところ、時の学長が熱心な人だったらしく、「Fラン」の汚名を返上しようと詩織の代からカリキュラムが一新されるという事態が起こった。
全科目で義務となった出席確認とテストを苦々しく思いながらも出席を続けたが、結局、詩織は留年してしまう。
その反動からバイトに明け暮れたところ二度目の留年が決まり、もうこれ以上は援助できないと親が授業料の支払いをストップしたことにより、大学5年生の時に、詩織はめでたく除籍となった。
当然のように就職活動もしていなかった詩織は、とりあえず受かったファミレスのバイトを続け、そこで出会った男性と恋に落ち、結婚をする。
詩織、26歳の春のことである。
それから3年は、お互いをいつくしむ、非常に濃密な時を過ごした。
しかし4年目以降、二人の関係に慣れきった夫は、詩織を完全に家政婦扱いするようになる。
当然、うっぷんはたまる。
そうなると離婚は早かった。
再び、一人暮らしに戻った詩織は、これではいかんと、必死にとある資格の勉強をはじめた。
猛勉強の末に見事、合格を果たした詩織は、その資格を活かして就職した先で縁があり再婚を果たす。
新しい夫は詩織を家政婦扱いすることはなかった。
それどころか、詩織の唯一の趣味である油彩に関心を抱き、詩織を先生にして自分も始めたのである。
そういうわけで、詩織がカンヴァスに向かうとき、今では隣に夫がいる。
モスグリーンとライムイエローを混ぜながら、最近、とみにあたたかみを増してきた自分の絵を、詩織は、悪くはないなと思うのだった。




