137 / 松葉杖の先に
ちょっとした交通事故に巻き込まれて右足を骨折し、全治3か月との診断を受けた。
最初の頃は物珍しがって騒いでいたクラスメイトたちも、1か月が経つ頃にはすっかり慣れてしまったらしい、もう私の右足のギプスには何の関心も示さない。
それは両親も同じで、最初の頃は心配していたものの、今頃ではもう食卓の話題にものぼらない。
私も、最初の頃は松葉杖をついて歩くことに必死だったが、今ではすっかり慣れている。
しかし、思うには、私の怪我は、まだ治るからマシである。
松葉杖を壁にもたれかけさせ、自分の部屋のベッドにあおむけに寝転がって、これが一生直らない病気とかだったらどうだろう、と考える。
もし、明日から、一生歩けない体になるとしたら?
私は考えて、ゾッとした。
絶対に、「嫌」だ――。
そんな単純な、けれども強烈な拒絶反応が、心の内より自然に湧いてくる。
「嫌」だとは言っても、もしそうなったら、どうなるのだろう。
その先を想像してみる。
現に、今だって車椅子生活をしている人はいるのだし、生きてはいけるのだろう。
けれど、トイレとか、お風呂とか、まずそういったことが心配になる。
具体的に、車椅子生活の人は、それらをどうやってこなしているのだろうか。
それ以上は、なんだか失礼な気がして、想像してはいけない気がする。
調べるのもなんだか嫌だ。
でも、実際に車椅子生活になったら、「嫌」でもこなさなければならない事だ。
もし、車椅子生活になったら――。
私は、ギプスの内で足をわずかに動かしながら、想像する。
車椅子だと、まず、段差のあるところには行けなくなってしまうだろう。
行動範囲は「嫌」でも狭くならざるを得ない。
絶対、「嫌」だ――。
私は、その先を想像するのを、やめた。
そして、ふと、思った。
こうして、人はさまざまなことの「先」を想像するのを辞めてしまうのではないか、と。
こうして、その「先」を想像する一部の人々と、当事者や関係者によって、社会インフラやさまざまな制度が整えられているのではないか、と。
社会には、私の想像のその「先」で働く人々が、大勢いるのだ。きっと。
私は、松葉杖による脇の痛みを感じながら、そんなことを思った。




