128 / 良き夫・良き妻
「おい、妻が帰ったらおかえりなさいだろうが。男のくせに、そんなことも分からんのか」
妻の綾子は、子供が独立してしばらくたったころから認知症が進みだし、次第に言葉遣いが乱暴になっていった。
「はいはい、でも綾子、おまえ、今起きたばかりだろう」
と、最初は様子をうかがうように対応していた俺も、段々と面倒になり、最近では返事もしないことが増えてきた。
すると妻の方も、あまりに構われないので拗ねてしまい、歌を歌ったり、むやみやたらと怒鳴ったりするようになった。
妻は、働いていたころからそうだったのかは知れないが、特に男性蔑視がひどくなった。
認知症が進む前は、隠していたのかもしれない。
それが病気で我慢ができなくなり、表に出だしたのだ、と、私はふんでいる。
こんな人なら、最初から結婚しなけりゃよかった、と、思う。
誰だってそうだろう。
「男だから〇〇が出来なくて腹が立つ」と言われて、果たして喜ぶ男がどこにいるというのか。
相手のことを思いやれなくなった今の妻には、何を言っても仕方がないが。
しかし、そんな妻も、ふと正気に戻ることがある。
そんなときは、
「あれ、健司さん。私、またやっちゃったのかな」
などと、しおらしいことを言ってくるものだから、こちらも毒気が抜けて、
「大丈夫だよ綾子。君は病気なんだから、気にしなくていいんだよ」
と笑顔で優しく対応する。
しかし、しばらくすると、また、
「おい、近頃の男はどういうしつけをされて育っているんだ。私を誰だと思っている。おまえの妻だぞ」
などと怒鳴り散らしてくる。
そんなものだから、最近、俺の方も知恵がついて、
「綾子、『男だから』と言えば、こきおろしていいと思ってないか。上から目線で『男だから』『女だから』『ガキだから』『外国人だから』、そんなふうに言われたら、どんな人だって嫌な気持ちになるだろう。そんなことも分からないのか」
などと、妻が理解できないのをいいことに、毒のある言葉を吐いて、うっぷんをはらしている。
そんな日々が長らく続いたが、それも今日で終わり。
妻は明日から施設に入る。
大きな荷物が肩からおりる。
そんな気持ちを抱く一方で、毒を向ける相手がいなくなることに寂しさを感じる俺は、果たして妻にとって良き夫でありえたろうか。




