124 / 優先席の前で
娘が袖を引っ張る。
「こら。袖が伸びるから引っ張っちゃダメ。肩を叩いてくれればいいから、って何度も言ってるでしょ」
と、俺はいつものように手話で伝える。
耳の聞こえる娘が、
「はいはい」
と言った唇を読んで、俺はくすりと笑う。
同じく耳の聞こえない妻が、「どうしたの笑って」と尋ねてきたが、それには「べつに」と返しておいた。
ある日、家族旅行で電車に乗った。
家族と立って輪になり手話で話をしていると、近くの席に座っていた小学生くらいの男の子が、こちらを指さして、隣の席の母親らしき女性に何か話しているのを目撃した。
めずらしい光景ではないので、いつものようにスルーしていると、娘が、
「あの男の子、手話が一部理解できるみたい。自慢げに母親に伝えてたよ」
と娘が教えてくれた。
へぇ、そんなこともあるのだなと感心していたら、次の瞬間、娘が思い切り私の袖を引っ張った。
何事か、と思い娘を見ると、私の背後を指さしている。
そちらに視線を向けると、そこにはおなかの大きな妊婦さんが立っていた。
目が合った瞬間、彼女の唇が速く動いた。
私は読み取れずに、娘を振り返る。
すると娘が、
「そこをどいて欲しい、あなたの後ろにある優先席に座りたいので。だって」
と伝えてきた。
私は合点がいき、ぺこぺこと何度かおじぎをしてその場をどいた。
妊婦さんは笑顔で会釈を返してくれ、そのまま優先席におさまって目をつむった。
すると、その一部始終を見ていた例の男の子が、またもやこちらを指さして母親に何か告げていた。
「彼、今度は何と言っているんだ?」
と娘に尋ねてみると、
「あの人たちも優先席に座ればいいのにね。って言ってる」
と言い苦笑いをしてきた。
ははぁ。
俺は手話で娘に指示を出した。
娘はうなずいて、男の子によく聞こえるように、大きな声で、ゆっくりと、
「私たち、耳が聞こえないだけで身体はどこも悪くないから優先席に座らなくても大丈夫なんだよねえ」
と言った。
男の子は「あ、そっかー」と、私にも分かる口の動きをして、こちらと母親を見比べるようにして恥ずかしそうに笑っていた。




