119 / 紅茶のむこうに
「麻衣おばちゃんってさ、有閑マダムだよね」
姪の美咲にそう言われて、私は思わず「えっ」と言葉をもらした。
「だってそうじゃない。お金持ちのダンナさんがいて、専業主婦やってて、毎日友達とお茶会してて、おまけにペットの犬が三匹もいる。ドラマの中の有閑マダムそのものなんだよね」
私はふふと笑った。
まるで、何も悩みがなさそうなお気楽な人生だと言われたように感じたからだ。
「おばちゃんも、こう見えても苦労したんだよ?」
そうは言ってみるものの、美咲を過去に連れていくことができない以上、その苦労も嘘のように聞こえてしまうのだろう、美咲は「えー?ほんとにー?」と言ってケラケラ笑っている。
確かに今の私は、誰がどう見ても有閑マダムだ。
人によってはうらやましがられるし、嫉妬の対象にもなる。
しかし、そんなことはどうだっていい。
私が企業スパイだった過去を除けば。
20年以上前、私は一般的な試験を受け、某大手企業に入社した。
新人研修では珍しく、体育の実技があったが、それは大いなる布石だった。
学科試験も実技もほぼ満点で修了した私は、ある日、数名の同期と共に本社の大会議室に呼ばれた。
そこで、企業スパイという辞令が下ったのである。
それからの日々は怒涛のように過ぎていった。
セキュリティの基礎から組織の力学、人間関係や経営のいろはまで、みっちり3年間、基礎を叩きこまれた。
その後、私たちは各々指令がくだり、その任につくことになる。
表向きの私の再就職先は、海外の某大手貿易企業であった。
私は順調にそこのIT部門で昇進していった。
やがて、同じスパイ同期の宮本という男と結婚し、夫婦での活動をスタートさせた。
しかし、いきなり転機が訪れる。
宮本が、突然死したのである。
当然、スパイ活動がばれての結果である。
私はマニュアル通り、すぐに自分の活動を停止し、夫の死を悲しむ妻を演じつつ職場をあとにした。
その後、私は上層部にかけあい、夫を殺した男を突き止め、仲間に奴を殺してもらった。
さらに夫を殺す命令をくだした男をも突き止め、こうしてその男と結婚し、今に至るというわけである。
今の夫は実によく自分たちの所業について語ってくれる。
夫は知らない。
あと数日で自分たちの組織が壊滅させられるということを。
「美咲は、おばちゃんみたいな苦労はしなくていいからね」
姪と紅茶に口をつけながら、私は刻一刻と迫るその時を待ちわびている。




