118 / スリッパの上から
ガチャガチャと玄関で音がする。
妻の幸子が鍵をドアのカギ穴にあてている音だ。
先に帰っていた俺はいそいで椅子から立ち上がり玄関へと向かう。
やがて「ただいまあ」というかわいらしい声と共に幸子が姿を現した。
「今日、どうだった?」
と幸子が問う。
どう、というのは、仕事のことだ。
「曇ってたからそこまでしんどくなかったよ。でも気温は高かったからな、むしむしした」
警備員をしている俺は、今日一日の仕事ぶりを振り返る。
「さっちゃんはどうだったのさ」
「どうもこうもないわ。いつも通り。お惣菜作って、パックに入れて、売り場に並べて、お客さんの対応して。どこのスーパーでも同じよ。しかしあれね、経理よりは楽ね」
幸子はそう言ってケラケラと笑う。
「ああ、俺も研究員よりは楽だな。その代わり体力使うけど」
俺は前の会社で幸子と出会った当初のことを思い出していた。
あの頃はふたりとも、若かった。
「それよね。でもこの年になって運動がてら仕事できるなんて最高じゃない?ジムいらずよ」
「だな」
幸子がうるさそうに髪の毛をしばりあげる姿は、何年見ても見飽きない。
「ねぇねぇ、けんちゃん、何か忘れてない?」
幸子がにんまりとした笑顔を見せてきた。
「ふふ、あれだな、買い出しの牛乳の件か。忘れた。ごめん」
そう言って、俺は苦笑いを返す。
「うんもう!そうじゃなくって!他にないの?」
「他に、かぁ。ゴミ出しはしたし、リビングに掃除機もかけた。なんだろうな」
俺は問うように幸子の顔を見返す。
見る間に、その顔から笑顔が消えてゆく。
「もう、いい。けんちゃんのバカ」
そう言うと幸子はそのまま奥の部屋へと行ってしまった。
「ふふふ」
俺はいじわるな笑みを浮かべる。
しばらくして、俺は幸子を呼びに行った。
「なによ、私、まだ機嫌なおってないんだからね」
幸子は相変わらずぷりぷりしている。
しかし、その顔は、リビングのテーブルの上に飾られた小さな花束を見るなりぱっと笑顔に転じた。
「結婚記念日、おめでとう」
俺は幸子の肩に手をやり、ウインクをしてみせた。
「けんちゃんたら、覚えてたなら言ってよね!」
幸子はそう言って俺の足をスリッパの上からゆるく踏みつける。
これこれ、この感じ。
今でも続くこの妻のこの癖をひとりじめして、俺は今日も自分の幸せをかみしめる。




