86_かつて夫婦だった二人
打ち上げの後、つまりルーンデールを出発する日の早朝。私はエリザベスさんを訪ねていた。ビョルンさんはというと、まだ二日酔いで寝ぼけているので置いてきたのだが。
「本当にお人好しね」
エリザベスさんの屋敷となった旧伯爵邸の玄関口で、私を出迎えてくれたエリザベスさんは半ば呆れたように言った。
「すみません、わがままを言ってしまって……」
「ハルと会わせろと言われた時は、どうしようかと思いましたが。民の願いを叶えるのも管理者の勤めですもの」
彼女は扇を開いて、にこりと微笑んだ。しかしその隙のない立ち振る舞いに、私も姿勢を正して抱えていた紙袋を差し出した。
「お詫びと言ってはなんですが、パンを焼いたんです。おひとつ、召し上がってください」
「先程からいい香りがしていたから気になっていましたの。ふふ、甘くて良い香りね」
本来ならば貴族である彼女に貢物をする際は、毒味などが必要なはずだ。しかしエリザベスさんは使用人を手で制して、紙袋から取り出したパンに齧り付いた。
「マナー違反だなんて、言わないでくださいましね。わたくし、パンはこうして食べるのが好きなんですの」
「もちろんです。それにそのパンは、一気にかぶりついた方が美味しいですよ」
エリザベスさんはパンから溢れた赤い液体を指で掬って、ペロリと舐めた。貴族あるまじき行動に使用人たちは絶句していたが、エリザベスさんは楽しげにクスクスと笑う。
「中にイチゴジャムが入っているのね。こんなパンは初めてですわ」
「私の世界ではジャムパンと言うんです。こちらは日の出の果実のジャム、もうひとつは夕日の果実のジャムが入っています」
「まぁ楽しいこと。そう言えばあなたの商品、カレーパンだったかしら? クレイモアがたいそう気に入ったようでしてね、また作ってやってちょうだい」
「クレイモアさんが?」
「えぇ。クレイモアも食事には楽しみを見出す性格でしてよ」
「うれしいです。あの時は本当にどうしようかと思ったので」
ハルのユニークスキルを探る際に出店したカレーパン屋。目的を達成する前にハルから『店を撤収させろ』と言われた時は本当に肝が冷えたが、クレイモアさんの機転のおかげで助かったのだ。あの時からクレイモアさんには助けられてばかりだ。だからこそカレーパンを気に入ってくれたの素直に嬉しい。
「次にお会いするときは、たくさん作って持っていきますね!」
「そうしてやってちょうだい。わたくしもクレイモアの機嫌を損ねたくはありませんのよ」
「エリザベスさんもクレイモアさんに頭が上がらないんですか?」
「そうね。クレイモアは怒らせると怖いもの」
エリザベスさんはそう笑いながらジャムパンを平らげると、目を細めて私にこう言った。
「ご馳走様。商売に困ったらお言いなさい。公爵家召し抱えのパン屋としていつでも歓迎しますわ」
「ありがとうございます」
行商に拘らなくても良くなったら、そういう暮らしも楽しいかもしれない。街の片隅で、大きな竈のある家で、朝から生地の仕込みをしたり出来立てのパンを店頭に並べたり。そういうスローライフも悪くない。
「あぁ、でもビョルンさん朝苦手だからなぁ」
「そういう殿方は引っ叩いてやればよろしいのよ」
エリザベスさんは扇をピシャリと閉じてそう言い放った。この人はビョルンさんに何かと厳しい気がする。風魔法で昏倒させられたことを根に持っているのかもしれない。
エリザベスさんとの談笑は楽しいけれど、今日の本題はそれじゃない。エリザベスさんは穏やかな顔を引っ込めて、私に向き直った。
「ハルとルーンデール伯爵は地下にいますわ。もっとも、領地を取り上げられた現在では『ルーンデール伯爵』と名乗ることはできないでしょうけれど」
そして玄関の奥の、小さな扉に向かう。扉の先は豪奢な玄関とはうってかわって質素で冷たい石畳と石壁に囲まれた通路になっていた。
「行きますわよ、ルナ」
私を呼ぶ彼女の横顔は凪のように静かだけれど、瞳は憂慮に沈んでいた。無理もない。一度は生涯を誓い合った男性が変わり果てた姿になってしまったのだから。
「エリザベスさんは、ルーンデール伯爵とはお話されましたか?」
「いいえ。話せる状態にないのです。会ってもよろしいけれど、時間の無駄でしてよ」
「というと?」
彼女は地下通路に続く階段を降りながら、静かに話を続ける。
「自我の喪失とでもいうのかしら。此度の件のショックが大きかったのでしょうね。身を滅ぼすとわかっていながら抜け出せないとは、哀れみの情すら湧きませんわ」
エリザベスさんは、心底呆れたように深い息を吐いた。
「わたくしは、何者かが伯爵に召喚の儀について吹き込んだと考えていますの」
「こうなることをわかっていた人物がいるってことですか? いったい誰が何の目的でそんなことを?」
私の疑問に、エリザベスさんは肩をすくめる。
「この地は我が国の防衛、そして経済の要でもある場所です。内部から混乱させる目的があったのかもしれません」
その眼差しは遠くを見ている。
「送りこんだのは他国か、それとも魔王の手先か……いずれにせよ、何者かがルーンデールに対して悪意を持って伯爵に近づいたことは確実でしょう」
「あ、そっか。魔王がいる世界なんでしたっけ」
目の前の事件に完全に失念していた私は、ポロッと呟いた。エリザベスさんは少し呆れながら、ふっと笑った。
「これから外で商売をするのなら、気をつけなさいな。魔王の手先が潜んでいる可能性もありますもの」
「え、魔王の手先がいるんですか!?」
「えぇ。本来ならば国主導で守衛を固めるべきなのでしょうけれど、なかなかそうもいかなくて。外では被害が広がっていると聞きますわ、気をつけなさい」
エリザベスさんは立ち止まり、視線を下げる。
「本来ならば、領主の不祥事などで治安を乱すわけにはいかないのです。そのことは重々承知していたはずですが、欲には逆らえなかったのでしょうね」
階段を抜けた先には空の座敷牢が四つ、最奥に二つの独房があった。片方がルーンデール伯爵、そしてもう片方にはハルが収容されている部屋だという。
エリザベスさんはルーンデール伯爵の部屋を見つめて吐き捨てるように言う。しかしそこ横顔はどこか苦しげだった。
「……本当に、愚かな男」
その声音には未練を感じさせない。ただ、ほんの少しだけ切なさが滲んでいた。




