74_魔法にかけられて
「良い夢を」
エルフは朝と晩の挨拶を重んじる故、つい口からそんな祈りの言葉が出てしまった。長らく口にしていなかった言葉が居た堪れなくて、乱暴に頭を搔いた。
静まり返った客間。窓の外では冬の星座がゆっくりと天頂をなぞっている。少し捲れた毛布をかけ直してやってその場から立ち去ろうとした瞬間、寝具の擦れる音とともに、俺の右腕がずっしりと重くなった。
「んー……」
寝ぼけたルナが、俺の腕をがっしりと抱き込んできたのだ。
「……おい」
声を掛けたが、当然起きることはない。それどころか、満足気にふにゃふにゃ笑ってさらに右腕に絡んできた。引き抜こうと思えば容易いが、そうすればこの小娘は目を覚まして、また騒がしく喚くだろう。それが何よりも煩わしくて、俺は溜息とともに動きを止めた。
「間抜けな面だな」
低く呟いた言葉には、皮肉よりも苦笑が混じった。
舞踏会での大立ち回りはどこへやら、口元を緩めて無防備に眠るその顔は、お世辞にも有能な商人には見えない。見ているこちらまで気が抜けるような、しまりのない寝顔だ。
だが、この気の抜けた顔を見ていると、これまでの疲れと緊張がじんわりと解けていくのを感じる。今日一日の死闘の疲労が、この小娘の寝顔ひとつでこれほど容易く緩まされるとは、己の単純さに呆れてしまった。こちらの気も知らないで、小娘は子供のようにあどけない顔で眠っている。
そんな寝顔を見ながら、この小娘と出会う数時間前のことを、ふと思い出した。
あの日、いつもの通りポーションの材料採集のために入った森で見つけたのは、過去の儀式の痕跡が残された場所だった。ほとんど文字は読めず、なんの術式なのか掴むことは不可能だった。
誤作動することはないと判断して、積み荷を下ろした。石畳と石碑に囲まれたその場所は、モンスターの襲撃の可能性が少ない安全地帯となっていた。
『今日はここで野営……明日には、街には戻るか』
国境近くの森はルーンデールから数日かかる場所に位置する。採集に集中しすぎて随分と遠くまで来てしまったようだった。簡単な野営地を立てて、疲労からかすぐに眠りについてしまった。
その日もいつもと変わらない、いつも通りの悪夢を見た。
『もうお前をこのパーティーに置いておけない』
敬愛するリーダーであり、教え子であり、友だと思っていた彼の声。傷付けるつもりなど毛頭なかった。なのに、何故か俺の剣は彼の腹を貫いていたのだ。
『どうしてこんなことを……!』
仲間たちは血に塗れた彼を腕に抱きながら、俺に問いかける。
違う、俺じゃない。
その叫びに、彼らは失望と軽蔑の眼差しで俺を見下ろした。そして次に気がついた時には地下牢で、鎖に繋がれていた。その場で、俺の言葉を聞いてくれる者は誰一人としていなかった。
誰でもいい。誰か、俺を、俺の言葉を、聞いてくれ。
悪夢の中で、俺はいつもそう叫んで目が覚める。何も起こらず、ただ夜が明けるだけのはずだった。しかし、その日はいつもとは違った。
俺の言葉に呼応するように空が青く光る。そして。
『……!!』
青い彗星が空から目の前に落ちてきた。その光を直視した眼は光にやられ、激しく明滅を繰り返す。極彩色の光に脳髄が焼かれるような錯覚に陥って、その場に這いつくばった。明滅する視界に呻き、魔力を掻き乱される不快感。それは、魂を直接引き剥がされるような拷問だった。実際には数秒だったのかもしれないが、俺には永遠のようにも感じられた。
『なんだったんだ……』
ようやく持ち直して顔をあげると、そこには。
見知らぬ一人の小娘が、ずいぶんと呑気な顔をして眠っていた。
「異世界人召喚、か……」
それは数多の魔法に触れてきたこの俺ですら全容を掴めていない、未知の領域だ。手がかりを掴もうにも、あの森の石碑は跡形もなく消え去り、証拠になるものは一切残っていない。自分が何を引き起こしたのか解明できないままでいるのは、耐え難い屈辱であり、意図せぬ召喚などただの不祥事だ。
この小娘を呼び寄せた真意、そして帰還方法。それらを解き明かすのは、自分に課せられた責任だと感じていた。
もしも、自分の身勝手な行為で、この小娘の人生を狂わせてしまったのならば。
「責任は、果たしてやる。お前はそのままでいろ」
祈るように呟いて、小娘の前髪を払ってやった。くすぐったかったのか、ふにゃりと眉が垂れる。
帰還方法が分かるまでは、この小娘との旅も続くのだろう。
この小娘が次は何を売り、この世界をどうかき回して見せるのか。その幕引きと、儀式の全貌を見届けるまでは、隣で観測を続けても悪くはない。
「アニタとの契約もあるしな」
自分に言い聞かせるように呟き、ようやく弛んだ腕をゆっくりと引き抜く。
「明日、魔法道具の扱いには気をつけるよう注意するべきか」
ついでとばかりに高級品の鑑定グラスも外してやって、ようやく部屋の外に脱出することができた。闇に紛れるように部屋を出ると、廊下の冷気が、腕に残っていた熱を急速に奪っていく。
退屈凌ぎの娯楽をもたらすトリックスター。今はせめて、静かな夢を。
「ゆっくり休め」
その一言と共にドアを閉めて、自分の部屋へと歩き出す。窓の向こうでは、明けの明星が夜空で煌めいていた。




