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異世界にとばされた社畜OLですが、ツンデレエルフと行商ライフを満喫中です!  作者: しらたき 茶々麻呂
09_迷宮都市編

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220/235

220_みかん畑と金色の熊

 ひんやりとした一本道の通路を抜け、突き当たりの扉を蹴り開けた瞬間、埃とインクの匂いが鼻を突いた。


「……!」

 

 広がっていたのは、壁一面を古い本棚に囲まれた広大な書庫のような空間。その中央で、ルナとあの盾持ちの小僧が床に倒れ伏していた。二人の身体からは、赤黒い不気味な魔力の霧が立ち上っている。魔女の精神干渉だ。

 

「ルナ!」


「ルナ様、ユウ様!」 

 

 後ろでブランシュが息を呑む気配がした。俺は剣を握り、なりふり構わずルナの元へと駆け寄る。

 

「おい、ルナ! しっかりしろ!」

 

 その華奢な肩を掴み、強引に抱き起こそうとした。その瞬間、ルナの身体を覆っていた赤黒い霧が、蛇のように俺の腕に巻き付き、凄まじい力で脳内に侵入してきた。


「なるほど。こちらまでも食い殺そうとするつもりか」

 

 驚きはなく、酷く冷静だった。視界がぐらりと反転する。迷宮の石壁も、本棚も、ブランシュの叫び声も、すべてが濁流に呑まれるように消え去った。


 次に目を開けた時。そこは、薄暗い書庫ではなかった。

 

「ここは……」

 

 じりじりと肌を焼くような強い日差し。見上げる空は抜けるように青く、迷宮の天井などどこにもない。そして何より、鼻を突いたのはインクの匂いではなく、土の匂いと、妙に甘酸っぱい独特な果実の香りだった。

 

 周囲を見回すと、そこは緑の葉が青々と茂る低木の群れが、斜面一帯にどこまでも広がっている。枝という枝には、拳ほどの大きさの、鮮やかな橙色の果実が無数に実っていた。


『私の故郷の果実に似ているんです』


 そういえば、彼女の生まれ故郷にはこちらの世界で言う夕日の果実と似た果実がなると言っていた。それを彼女は『みかん』と呼んでいたのだったか。


「ルナ、どこだ」

 

 呆然とする俺の耳に、突如、けたたましい機械の駆動音と、人間の声が飛び込んできた。


『待ちなさい! 瑠奈を置いていくなんて、一体どういうつもりだ』


 木造の平屋から飛び出してきた老いた男が、喉がちぎれんばかりに叫んでいる。その視線の先には若い女が、大きな荷物を持って足早に歩いていた。

 

『うるさいわね! 私だって限界なの!』

 

 鋭い女の叫び声が響く。

 見れば、ルナに少し面影のある、だがひどく冷淡で、疲れ切った目をした女が、老人を振り切って奇妙な鉄の箱に乗り込もうとしていた。

 

 その女の服の裾を、短い手足で必死に掴んでいる小さな子供がいた。ボサボサの茶髪を振り乱し、泣きじゃくる哀れな少女。

 

『お母さん、待って、おいていかないで……! いい子にしてるから、お母さん……!』


「ルナ……?」

 

 五歳くらいだろうか。今よりもずっと小さく、細い腕で、泣き叫びながら母親に縋りついている。


『うるさい! ついてこないで!』


 だが、女はその小さな手を容赦なく振り払った。ルナが泥の地面に激しく転がる。女は振り返りもせず鉄の箱に飛び乗ると、黒い煙を吐き出しながら、凄まじい速さで走り去っていった。

 

『お母さん……! お母さぁん!!』

 

 遠ざかっていく鉄の箱を、幼いルナは裸足のまま、何度も転びながら必死に追いかける。だが、子供の足で追いつけるはずもない。やがて姿が見えなくなると、彼女はその場にへたり込んだ。

 

 駆け寄ろうとする老人を拒絶するように、幼いルナは立ち上がり、ふらふらと、誰の目も届かない果樹園の奥へと走り去ってしまった。

 

 胸の奥が、ぞっとするほど冷たく冷え切っていくのがわかった。


 これが、ルナの記憶。彼女が心の最深部に隠し持っていた、最も昏く、最も傷深いトラウマの再現。魔女は人間の最も弱い部分を見つけ、漬け込み、弄ぶ。

 

「ったく、趣味が悪い」

 

 俺は誰に言うでもなく悪態を吐き、橙色の実が乱雑に実る畑の奥へと足を進めた。枝が衣服に擦れる音が、妙にリアルに鼓膜を叩く。

 

 緑と橙の迷路をなぞるように進んだ先、一本の大きな木の根元に彼女はいた。

 

 泥だらけの小さな身体を丸め、膝に顔を埋めて、声を殺して震えている小さな少女。鑑定グラス越しではない瞳を久しぶりに見た気がする。

 

「ルナ」

 

 俺は彼女の前に立ち、なるべく穏やかな声で語りかけた。

 

 幼いルナが、びくりと肩を跳ねさせてゆっくりと顔を上げる。その瞳は涙でぐしゃぐしゃに濡れていて、絶望と、拒絶と、激しい孤独に染まっていた。


「……だれ?」

 

 怯えたような、掠れた子供の声。

 俺はボサボサの髪を掻きむしり、自身の耳が焦りでわずかに動くのを感じながら、彼女の前に片膝をついた。そして、現在の彼女にするのと同じように、泥に汚れたその小さな手の甲を、大きな手でポン、と軽く叩いた。


「ビョルンだ。覚えているか」


 ふるふる、と小さく首を振る。しかしその瞳に映っていた恐怖の色は少しだけ薄れていた。


「……熊さんみたい」


「熊?」


 こくん、と頷く小さな頭。おずおずと伸ばされた小さな掌が、俺の髪に触れる。戯れるように指で絡めるのは、今も昔も変わらない。


「熊が好きか」


「うん」


「そうか」


 俺の返答の何がおかしかったのか、ルナはくふくふと笑った。声を押し殺したような笑い方。俺の前で見せる屈託のない笑顔とは程遠い。


「熊さん、わたしを食べる?」


「お前は食いでがなさそうだ。それに俺は人は食わない」


 最近は特に、舌が肥えてしまった。目の前のこの娘のせいだが、今は文句を言ってる場合ではない。この娘を、魔女の悪夢から取り返さなければならないのだから。

 

「おいで。いいものを見せてやる」


 俺は試しに腕を広げてみた。警戒されるかと思ったが、やはり小さくても好奇心は変わらないらしい。ゆっくりと近づいて、腕の中に潜り込んでくる。


 その小さな身体を抱き上げて、立ち上がって見せた。


「わわっ!」


 落とさないようにゆっくりと立ち上がったつもりだが、急な視点の上昇に驚いたらしい。彼女は俺の首にしがみついて、そして息を飲んだ。


「たかい……!」


 眼下の坂道に広がる果樹園が、橙色と若葉の色を太陽に眩く反射させている。ルナは目を細め、頬を桃色に染めて俺を見上げた。


「おおきいねぇ」


「そうか」


 俺は短く答えると、彼女の頭をゆっくりと撫でてやった。すると彼女は俺に身体を預けて、強く襟を掴んで俯く。


「お母さん、見えなくなっちゃった」

 

 悲しげな声。その大きな琥珀色の瞳を涙で潤ませて、しゃくりあげた。


「わたしが悪い子だから、おいてっちゃったのかな」


「それは違う」


 俺は彼女の言葉を即座に否定する。どんな子供であっても、親に見捨てられることなどあってなるものか。まして、こんな健気な少女が悪であるわけがない。


 かといって、母親に捨てられた子供を慰める言葉が見つかるはずもなく。俺はただ、彼女を強く抱き締めた。


「お前は、ひとりじゃない」


 だから恐れるな。泣くな、悲しむな。 

 

「俺が傍にいる」


 お世辞にも優しいとは言えない声音。けれど、俺は真っ直ぐにその潤んだ瞳を見つめ返した。


「いつかきっと、お前を迎えに来る相手が現れる。それは母親ではないかもしれん。だが、お前をひとりにはしないと約束する」


 幼いルナの目が、驚いたように丸くなる。俺は彼女の小さな手を、今度は逃がさないように強く握りしめた。


「さぁ、帰るぞ。ルナ」


 俺は彼女を抱え直し、長く続く坂道をゆっくりと進む。ルナは俺の首にぎゅうと抱きつき、小さく呟いた。


「ありがとう、熊さん」



 瞬きを二度、三度繰り返すと先程の書庫に戻ってきていた。


「ビョルンさん……?」


 腕の中で、少女ではなく小娘の声が聞こえる。いつもの、凛とした声ではなく困惑の色が強い。俺の腕の中で身動ぎして、顔を額まで真っ赤にしていた。


「あ、あのぅ、これはどういう状況?」


「覚えていないのか」


 先程までの景色を覚えていないのか、彼女はうーんと唸った。


「熊の夢を見ました」


「はぁ」


「私がないていたら、熊さんが来て。食べられるかと思けど、なぜか抱っこしてくれたんですよね。不思議な夢だったなぁ」


 全く脳天気な小娘だ。だがその能天気さが、今はたまらなく懐かしく、愛おしい。掻き抱き、その小さな額に自分の額を押し付けた。 

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