219_エルフと亡国の孫娘
しまった、と思った時には既に遅かった。
咄嗟にルナの腕を掴もうと手を伸ばしたが、空間そのものが歪むような強制的な転移だった。
「あの、ビョルン様……」
次に目を開けた時、俺の隣にいたのはルナではなく、泣きそうな顔の小娘、ブランシュだけ。
「近くにルナ達の気配がする。だが遮断されてるようだ。突破するより迂回する方が効率的だ」
すぐ近くの壁の向こうからルナたちの声が聞こえたため、一度は声を交わしたものの、その壁は強固でびくともしない。俺はルナに先へ進むように指示を出し、我々もここから抜け出すために動き出した。
最初の部屋から伸びていたのは、どこまでも続く、ひんやりとした一本道の石造りの通路だ。俺とブランシュは、その道をひたすら歩き続けていた。
「……」
コツ、コツ、と我々の足音だけが静まり返った通路に響く。反響する足音のせいで、遠くへ行ったルナたちの気配まではもう何も聞こえない。ルナの側にあの盾持ちの小僧がいるとはいえ、やはり焦燥感が募る。自然と俺の歩幅が大きくなり、後ろを歩くブランシュが必死に小走りでついてくる気配がした。
「あ、あの」
重苦しい沈黙が続く中、ブランシュが息を切らしながら、意を決したように俺の背中に向かってぽつりと声をかけてきた。
「このような時に不躾かもしれませんが、一つ、お伺いしてもよろしいですか?」
「……なんだ」
視線は前方に向けたまま、ぶっきらぼうに返す。怯えたように、しかししっかりと前を見つめてブランシュは言い放つ。
「私の……祖父の代にあった、あの『クリスタニアの革命』のことを、お聞かせいただけませんか」
ブランシュの言葉に、俺は思わず足を止めることなく思案する。この小娘は、自分の祖先の行いを知らないのだろう。だからこそと言うべきか、ここまで伸びやかに、自由に育ったのだと思う。
「はい。ビョルン様は長命なエルフですから、当時のことを何かご存知ではないかと……」
「お前は、どう認識してる」
警戒を怠らないまま促してやると、会話の続行を許された小娘は顔を輝かせた。
「私の祖父は、かつてクリスタニアの気高く立派な王だと聞いておりました。祖父は地位をおわれてもなお、最期まで故郷を愛しておりました」
祖父を誇りに思う、純粋な孫娘の声音だった。
だが、俺の頭に浮かんだ「真実」は、彼女の言葉とは真逆のものだった。この目で見て、耳で聞いた話は彼女の認識とは大きく異なる。
何も知らずに健気に生きているこの小娘に、信じてやまない祖父の醜悪な真実を突きつけることが、どれほど残酷なことか。だが、歪んだ歴史を美しい思い出として抱かせたまま、綺麗事で生きさせるわけにはいかない。
ルナならば、彼女に真実を告げることを選ぶだろう。
俺はふっと冷たい息を吐き出し、歩みを止めずに口を開いた。
「良い祖父君だったか」
「はい! それはもう、素晴らしいお方でした!」
迷いもなく告げる、無垢な娘。彼女の顔を曇らせるのは、非常に残念だ。
「……だが、賢王では無かったようだ」
「え?」
ブランシュがころんと首を傾げる。純粋に、何も分かっていないような顔で。
「己が欲求ののために民を餓死させ、不満を言う者は見せしめに首を撥ねた。革命を起こしたのは強欲な民じゃない。生きるために追い詰められた民衆。それがクリスタニアの革命の真実だ」
後ろを歩くブランシュの息が、ぴたりと止まった。激しい衝撃を受けた気配が背中越しに伝わってくる。泣き崩れるかと思いきや、背後から漂ってきたのは、凍りつくような硬質な気配だった。
「やはり……そう、でしたのね」
ブランシュの声から、先ほどまでの迷いや弱さが綺麗に消えていた。俺は思わず足を止め、彼女の様子をうかがう。
「街の人々は皆、そう言っていました。人々が告げる歴史がそう語るのなら、私の一族は民を苦しめた『悪』だったのでしょう」
ブランシュは溢れそうになる涙を指先で強く拭うと、自身の胸元で手を強く握りしめた。その瞳には、ある種の高熱を孕んだような、危ういほどの光が宿っている。
「お祖父様が民に苦しみを与えた『悪』だというのなら、その血を引く私は、誰よりも正しくあらねばなりません。この世のすべての不条理と悪を排し、弱き人々を救い出さなければならないのです」
その言葉は、純粋な決意というよりも、己を『正義』であるという盲目的な傾倒に近かった。脆い人間がその身を焦がすような正義感に身を委ねる姿は、ひどく危うく、見ていて危なっかしいものだった。そして、その危うさは我々にとって危機をもたらすものになると直感が告げている。
「その勇敢さは大層結構だが」
俺は腰の愛剣の柄を軽く叩き、ぶっきらぼうに言葉を続ける。
「忘れるな。我々幸運草商会はボランティアではなく、商売人だ。綺麗事だけじゃ飯は食えんし、目的も果たせん」
「幸運草商会の目的とは?」
「ルナの望みを叶えることだ」
それは紛れもない事実だった。この商会自体、彼女の目的を達するための手段のひとつに過ぎない。ルナを元の世界に返すのが目的であり、彼女の望みを叶えるために剣となるのが俺の役目だ。
「ルナはお前たちの問題解決を望んでいる。俺はそれに従っているに過ぎん」
ブランシュは驚いたように目を丸めて俺を見た。
「ビョルン様にとって、ルナ様はとても大切な方なのですね」
大切、というには軽薄すぎる気がした。
そんな言葉よりも重く、仄暗さすら持ち始めた感情を表に出すのは憚られる。とはいえ、否定するのも違う。ならば答えはひとつだ。
「そうだ」
素直に頷いてみせる。それは小娘にとって意外な反応だったのだろう。しかし、誰になんと言われようとこれだけは譲るつもりはない。
「お前が何をしようと勝手だが、ルナを危険に晒せばこの剣を抜くことになる。覚えておけ」
それだけ言うと、また前に向かって歩き始めた。振り返る必要はない。これだけ言えば、情に厚い小娘の心にも届くだろう。
「ええ、もちろんです。私をお救いくださったルナ様のためにも、尽力いたします!」
背後から、正義の炎を宿したブランシュの力強い返事が聞こえた。俺は小さく溜息をつきながらも、その足取りが力強さを取り戻したことに少しだけ安堵し、ひんやりとした一本道の奥へと歩みを進めた。




