216_魔女の住処
翌朝。
迷宮都市の喧騒がまだ眠りについている、薄暗い早朝。私たちは荷物をまとめ、迷宮都市の北西に位置する、鬱蒼とした森の奥へと向かった。
「皆さん、俺から離れないでくださいね!」
ユウさんはやる気満々で、最前線を歩いている。
「私も、お力になります!」
ブランシュさんもぐっと拳を握り、精一杯大きな声を出した。ブランシュさんは回復魔法が使えるみたいなので、今回はヒーラーとしてパーティに加わってもらう。
「あまりはしゃぐな。エネルギーの無駄だ」
ビョルンさんは相変わらず気だるげに最後尾を歩いているが、その手にはしっかりと愛用の剣が握られている。ボサボサの髪の間から覗く耳は、まだ少し元気がないものの、周囲の警戒を怠らないように微かに動いていた。
やがて森の最奥、蔦が絡まりついた不気味な岩の裂け目が姿を現した。
冷気が這い出てくるその割れ目こそが、魔女が潜む迷宮の入り口だった。中を覗き込むと、ダンジョン特有の不気味な魔力の光に混じって、なぜか古びた紙とインクの匂いが漂ってくる。
「……ここから先は、各自、己の心を強く持て。魔女は心を乱し、惑わしてくる。連れていかれると戻れなくなるぞ」
ビョルンさんが低い声で警告を発した。その視線は、どこか自分自身に言い聞かせているようにも見えた。
私は彼の隣に並び、その大きな手の甲をポン、と軽く叩いた。
「大丈夫です。言ったでしょう? 私が傍にいますから」
ビョルンさんは一瞬驚いたように私を見下ろし、それから小さく溜息をついた。
「そっちこそ」
呆れたような声だったけれど、その耳が、ほんの少しだけピコッと嬉しそうに上がったのを私は見逃さなかった。
「俺がついていることを忘れるな」
優しい声と、優しい目。彼の優しさが痛いほど伝わってきて、私はぎゅっと彼の手を握りしめた。いつかこの手が離れてしまうとしても、今だけは一緒だ。
「よし、幸運草商会、突入しましょう!」
私の号令とともに、ユウさんとミニベロスを先頭に私たちは薄暗い魔女の迷宮へと、力強く一歩を踏み出したのだった。
険しい岩肌と生い茂った木々に囲まれた外観とはうってかわって、迷宮内はまるでお城のような作りになっていた。
「なんだか想像と違いますね……?」
私はユウさんの後ろに隠れながら、ぽそりと呟いた。
石で作られた階段と、壁にかかるタペストリー、そして至る所に置かれた本棚には隙間がないほどに本が積まれている。しかもそれらは、手入れが行き届いているのかホコリひとつ見当たらない。
「魔女一族は古来より人間族とは遠い生活を営んでいた、そのため、イメージが歪むこともあるだろう」
ビョルンさんはフンと鼻を鳴らして、『なにを馬鹿なことを』とでもいいたげな目で私を見る。
本棚の並ぶ静かな回廊を進んでいくと、突如として空間が歪み、周囲の空気がピリピリとした魔力で満たされた。
「っ、来ます! 皆さん、俺の後ろに!」
ユウさんが大盾を構えて声を上げる。彼の足元では、ミニベロスも「グルルル……」と低い唸り声を上げて毛を逆立てていた。
次の瞬間、ずらりと並んでいた本棚から大量の古書が飛び出し、パタパタと鳥のように羽ばたきながら、鋭い紙の刃となって私たちに襲いかかってきたのだ。
「させるか、『ファイアウォール』!」
ユウさんが盾を地面に叩きつけると、半透明の光の壁が展開され、無数の本の突撃をガツンと受け止める。凄まじい衝撃音が響くが、ユウさんは一歩も引かない。その隙を突いて、ミニベロスが素早い動きで飛び跳ね、本を次々と噛みちぎり、叩き落としていく。
「ユウさん、右!」
「えっ! うわッ!?」
本の群れの一部が盾を迂回し、ユウさんの腕をかすめて血が滲む。
「ユウ様、お任せください。『回復』!」
すかさず後ろからブランシュさんが前に出た。両手を掲げると、温かな聖なる光がユウさんを包み込む。傷口は瞬時に塞がり、あとかたもなく綺麗になった。
「助かった、ブランシュさん!」
「はい! 皆さん、怪我はすぐに私が治します!」
普段は控えめなブランシュさんの力強い言葉に、パーティの士気が跳ね上がる。
だが、本は倒しても倒しても、壁の本棚から無限に湧き出てくるようだった。このままではジリ貧だ。しかしビョルンさんは極めて冷静に告げる
「チッ、面倒な仕掛けを……。ルナ、俺の後ろから離れるなよ」
「えっ? は、はい。何するつもりですか?」
「問題の根本解決だ」
ビョルンさんは私の前に一歩踏み出すと、愛用の剣を静かに構えた。
その瞬間、彼の肌が周囲の風の流れを捉える。エルフ特有の俊敏さと無駄のない動きで、彼は襲いかかる本の群れを紙吹雪に変えながら、一気に空間を駆け抜けた。
「……ッ!」
鋭い踏み込みとともに放たれた一閃が、最奥に浮かぶ黒い魔導書を正確に縦真っ二つに叩き斬る。
途端に、狂ったように飛び回っていた本たちが力を失い、バサバサと床に落ちてただの静かな古書に戻っていった。
「さっすがビョルンさん、お見事です!」
「油断するな。本命が来るぞ」
ビョルンさんは再び私の手首をそっと引き寄せる。守られていることを再認識してしまって、少し頬が熱くなった。いやいや、そんな事してる場合じゃないってば。
静寂が戻った回廊の奥から、今度は低く、妖しい女性の笑い声が響いてきた。
『うふふ……よくぞ我が書庫の番人を退けましたね、勇敢な迷い人たち。ですが、ここからが本当の物語の始まりです』
声と同時に、私たちの足元の石床に、禍々しい魔法陣が浮かび上がった。
「しまたっ……!?」
ユウさんが叫んだときにはもう遅かった。
ブォン、嫌な起動音が響いた瞬間、頑丈そうだった石の床が、まるで幻だったかのように完全に消失したのだ。
「うわぁああああ!?」
こうして、私たちは奈落の底に落ちていった。




