199_星空に刻む絆
夜の甲板は少し冷える。昼間の熱気が嘘のように冷え込んできた海風を浴びながら、私は船べりに身を乗り出して夜空を見上げていた。
「うわぁ……すごい……!」
思わずため息が漏れる。空を埋め尽くす星々は、まるでひっくり返した宝石箱のようだった。天の川なんてレベルじゃない、まるで天然のイルミネーションだ。
「キュウン」
「ふふ、いい子だねぇ。クロ、シロ、ブチ。おいで」
足元では、ミニベロスが私の足元に体をすり寄せ、湯たんぽ代わりに暖めてくれている。この子は本当に主人思いのいい子だ。それぞれの名前を呼んで腕を広げると、ぴょんと飛び込んできた。
「風邪をひくぞ」
不意に背後から声がしたかと思うと、視界が真っ暗になった。どうやら頭から外套を被せられたようだ。ほんのり薬草のような、清涼感のある、いつものビョルンさんの香りが鼻腔をくすぐる。
「わっ、ちょっと!?」
「お前はすぐ油断して体調を崩す。用心しろ」
外套の隙間から顔を出すと、ビョルンさんが呆れたように腕を組んで立っていた。けれど、差し出された外套は彼の体温が残っていてじんわりと温かい。ぴょこぴょことミニベロスは腕の中から這い出て、ビョルンさんの足元に擦り寄って丸くなった。ミニベロスはビョルンさんの足元にいるのが好きらしい。
「もう、ビョルンさんってば。最近なんだか過保護になっていません?」
「気のせいだ」
見上げると、昼に私がきっちり結んだはずの革紐がずり下がり、おでこに前髪がかかり始めていた。普段どおりの風貌に落ち着くような、落ち着かないような。
「あぁもう、また解けてる」
「髪ぐらい、放っておけばいい」
「ダメです。街に着くまでは、おでこ出しビョルンさんでいてもらいますから。ほら、ちょっと屈んでください」
ビョルンさんはチッと小さく舌打ちをしたものの、大人しく私の目の前で膝を曲げて視線を合わせてくれる。身長差があるから、こうしてもらうとちょうどいいのだ。
緩んだ革紐を一度解き、潮風でごわついた彼の髪をかき集めた。オールバックはなんとなく落ち着かないみたいだから、ハーフアップにしてあげよう。
鼻先が掠める至近距離に、心臓が高なった。夜の闇の中でも、彼のライムグリーンの瞳が星の光を受けて輝いている。通った鼻筋と薄い唇。見れば見るほど、本当に顔が良いのを思い知らされる。
いやいや。相手はビジネスパートナー。邪な気持ちは胸の内にしまっておくと決めたんだから。
必死に自分に言い聞かせながら、手早く紐を結び直した。よし、完璧。
「はい、できました。……って、なんですかその顔」
結び終えて一歩引こうとした私を、ビョルンさんの手が阻んだ。彼の長い指が、私の顎をくいっと持ち上げる。デジャブ。この間もやられた仕草だ。
「心臓の音がうるさい。何か企んでいる顔だな」
「企んでませんけど」
「ふぅん?」
にやり、と底意地の悪い笑みが彼の唇に浮かぶ。星空の下で見るビョルンさんの微笑みは破壊力抜群で、なんだか悔しく思えてしまう。
「まぁいい」
ビョルンさんはポンポンと私の頭を軽く叩いて、ふっと口角を緩めた。最近お気に入りの仕草に、私は諦めて肩を竦めた。子供扱いされているのだろうし、実際彼にとって私はただの小娘だ。
「明日の朝には迷宮都市に着く。まずは冒険者ギルドに行って、護衛を探すぞ」
「長いようで、短かったですね。この二週間」
初めての船旅では慣れないことも多かったけれど、楽しいことも多かった。波に揺られ、潮風に吹かれる朝は心地良かったし、船員たちの歌を聴きながら眠る夜も贅沢なものだ。この旅がもう終わってしまうのは、素直に寂しいと思う。
「どうせまた、クリスタニアからセレスティウムに向かう時には船を使うんだ。そう恋しがることもない」
「私、そんなに顔に出てました?」
「お前は感情がわかりやすい。商人がそれでどうする」
「ビョルンさんだって」
いつもより額にかかる前髪が少なくて、ビョルンさんの表情がよく見える。だけど前髪なんてなくても、ビョルンさんの喜怒哀楽なんですぐに分かるのだ。
出会ってから三ヶ月ほどしか経っていないけれど、もっと長い時を共にした気がする。だけど私の貴重な三ヶ月は、長命のエルフにとっては瞬きの間なのだろう。 私のことも、こうして一緒に過ごした時間も忘れてしまうのかな。
「ルナ?」
急に黙ってしまった私に、ビョルンさんは不思議そうに顔を覗き込んできた。私は首を横に振って、笑って誤魔化そうとする。ただ、なんとなく上手く笑えなくて困ってしまった。
「いえ、ただ、あの……」
あとどれくらい、ビョルンさんと一緒にいられるんだろう。
そんな考えが浮かんで、笑えなくなってしまった。情けない。私は元の世界に帰りたくて、ここまで必死に旅をしてきたのに、今更迷ってしまうなんて。自分の意思の弱さに泣きたくなる。
「お前はわかりやすい。だが、何を考えているのか、全てを把握することはできない」
ビョルンさんは静かに言って、私の目を真っ直ぐ見つめた。夜空の星がライムグリーンの瞳の中でキラキラと光る。優しい眼差しに促されるまま、私はぽつりと本音をこぼした。
「さびしいんです」
「寂しい? なぜだ」
私の予想外の言葉に、ビョルンさんは目を丸めた。困ったような、慌てたような様子で一度顔を上げて、また私に視線を戻す。動揺するビョルンさんなんて、なんだか珍しい。
「また俺のせいか」
「違いますよ。ビョルンさんが悪いんじゃなくて……ただ、私が我儘なだけなんです」
首を横に振って、私はもう一度ビョルンさんの顔をまっすぐ見つめた。まるで自分の目に、彼の姿を焼き付けるように。
「人間である私にとって、二週間って結構長いんですよ。でもエルフにとってはきっと一瞬なんだろうなって。そう思うと、なんだか寂しいって思ったんです」
「……たしかに、俺にとって二週間なんて一瞬だ。人間で言うと、一日よりも短く感じる」
ビョルンさんは私の言葉を肯定して、軽く頷いた。その肯定は、私にとってかなり重い。
「だが」
彼は何かを言いたげに目線をいったりきたりさせて、ようやく決心したように言葉を紡ぐ。
「こんなに退屈しなかった船旅は初めてだ。冒険者として旅をしていた時より、悪くはなかった」
ふっと言葉尻を和らげて、ビョルンさんは船べりに体をあずける。そしてどこか遠くを見つめるように、煌めく星空を見上げた。
「少なくとも、俺が生きてきた数百年の中でお前を忘れる日は来ないだろうな」
ビョルンさんは少し目を細める。大きな手がこちらに伸びてきて、優しく頭に触れた。まるで、私がそこにいることを確かめるように。
「こうして星を見上げる度に、お前を思い出すだろう。お前の声も、顔も、思い出せなくなったとしても。お前が隣にいたことは決して忘れない」
優しい声だった。それでいて、とても悲しい響きがこもっている。きっと彼は、今までに幾度もそんな別れを繰り返してきたんだろう。
「前にも言ったが、長命種と短命種の時の流れは異なる。それについて理解は求めん」
「そうですね。前にも聞きました」
「今も考えは変わらん。ただ……これだけは覚えておけ。長命種にとって時間の概念は薄い。だからこそ、その中で拾い上げるものに価値がある」
拾い上げるもの。それこそが私たちの旅であることなんて、言うまでもない。ビョルンさんは私を忘れない。前に聞いたものと同じ言葉であるはずなのに、どうしてこうも重みが違うんだろう。
胸が切なくて、思わずビョルンさんに手を伸ばした。少しだけ、その温もりに触れたくて。隠しておかなければならない気持ちが溢れてしまって、どうにかなりそうだ。
「ったく……」
やれやれ、と言いながらもビョルンさんは甘やかすように手を広げて受け入れてくれる。すっぽりと腕の中に収まった私を、ビョルンさんは優しく抱きしめてポンポンと背中を叩いた。
「甘えため」
「いいんです、小娘なんだから」
開き直ってみせると、ビョルンさんは楽しそうにクックッと喉を鳴らした。彼の耳は夜の闇でもうっすらわかるくらいに、赤くなっている。本当に、素直じゃない人。
私は決して忘れない。どんな世界にいたとしても。この不器用だけど、愛情深いエルフのことを、魂に刻んでおこう。
だから、今だけでいい、彼と触れ合うことを許してください。
祈るように心の中で呟いて、ビョルンさんの胸に顔を押し付けた。彼のゆっくりと力強い鼓動が聞こえる。足元のミニベロスが、六つの赤い目で、静かに私たちを見守っていた。




