195_ダンジョン奥の天然温泉
「温泉!」
こちらの世界にも温泉があるのか。私はすぐに泉に駆け寄って、湧き水を手で掬ってみた。熱すぎず、温すぎない温度のお湯が私の手を潤す。少しとろみもあって、なんだか身体に良さそうだ。
温泉、最高すぎる。一刻も早く入りたい。私は装備品のベルトに手をかけた。しかし、あることに気づく。
「ん、待った。天然の温泉ってことは……」
当然の事ながら、天然の温泉なのだから男湯と女湯に分かれているわけではない。そんなサービスがない、だだっ広い温泉。つまり混浴ってことだ。
私と、ビョルンさんで?
頬がカァッと熱くなって、思わず手で目を覆った。ビョルンさんが驚いたように近づいてきたけれど、私は勢いよく後ずさる。一旦、距離を取ろう。落ち着こう。そうして冷静さを取り戻したいのに、ビョルンさんはズカズカとそのラインを越えようとしてくる。
「なんだ」
「ま、待ってください、心の準備が」
「ただの温泉に、心の準備もなにもないだろう」
「ただの!?」
私の声は情けなく裏返ってしまい、ビョルンさんは困惑の色を浮かべる。
「まだ早すぎます!」
「なにが」
「やだ、ビョルンさんのえっち!」
「はぁ!?」
今度はビョルンさんが声を荒らげる番だった。本気で困惑したような声を出して、とりあえず無害であることを示そうとしているのか両手をあげている。
「待て、何を考えてる」
「だって、天然のお風呂って。温泉って。い、一緒に入るってことでしょ?」
「そうだが」
「〜〜〜ッ!!」
私は飛び上がるようにして、ビョルンさんからもう一歩離れた。心臓がバクバクして、まるで耳元で鳴っているみたい。目の前がぐるぐる回っているけれど、口は上手く回らなくて、どうにかこうにか言葉を紡ぐ。
「いや、ビョルンさんがダメってわけじゃなくて、まだ心の準備ができなくて、そのぅ」
「まさかと思うが、お前……」
ビョルンさんは大きくため息をついて、ガシガシと頭をかいた。そして何を思ったのかブーツの紐を解き始める。
「ビョルンさん!?」
ポイッとブーツを脱ぎ捨てて、ズボンの裾を膝までまくりあげたビョルンさんは、泉の縁にどっかりと座った。そして泉の温度を確かめるように足をいれる。
「ん?」
よく見ると、ビョルンさんの膝は泉からのぞいていた。足の裏はしっかりと泉の底に着いているのに、だ。
「ここは足湯だ」
「あ、足湯?」
「そうだ」
心底呆れたように頷くビョルンさんに、私は身体のがどっと抜けて、その場に座り込んでしまった。完全に私の早とちりなのだが、素直に認めるのは恥ずかしくて膨れっ面をしてみせる。
「っ、もう! ビックリさせないでください!」
「お前が勘違いしただけだろうが、馬鹿」
「うぅ、それはそう……」
舌戦に敗北した私はしおしおと項垂れて、ビョルンさんの隣にしゃがむ。よく見ると泉の底は私の膝だけくらいまでしかなかった。ちゃんと見ればわかることなのに、動揺しすぎて見落としてしまっていたようだ。
「入ってみろ」
ビョルンさんに促されるまま、ブーツを脱いで泉に足をつけてみる。ちょうどいい温度に包まれて、ほうっとため息が出た。
「きもちい……」
じんわりとした温かさに、体の緊張がほぐれていくのが分かる。ビョルンさんの顔を見るには、なんだか気まずくて水面を睨みつけてしまった。そんな私の様子がおかしかったのか、ビョルンさんはクックッと笑いはじめる。まるで幼子を揶揄うような態度に、膨れた頬がさらに膨らんだ。
「これから向かうクリスタニアは温泉地帯でも有名だ。これから先も入る機会はあるだろう」
「男女別ですよね?」
「当然だ。そんなに俺の裸が見たいのか」
「違いますけどっ!」
またしても顔が熱くなって、私はブンブンと首を横に振った。ビョルンさんはクックッと笑って、私の顎を手のひらで掴んでくる。ぷぅっと情けない音とともに頬から息が抜けてしまい、堪えきれなくなったビョルンさんは吹き出してしまった。ビョルンさんが口を開けて笑うと、ちょっと鋭い歯が見えてドキッとする。
「ビョルンさんってよく笑いますよね、意外と」
「鉄面皮なつもりはないが……そう言われるほどでもないだろう」
ビョルンさんは自覚がなかったのか、首を傾げた。
「最近は特に表情豊かですよ。その方がいいと思います」
「そうか」
私が素直な感想を言うと、彼はなんだか気まずそうに目線を逸らして頭をかいた。少し耳の先が赤いので、照れているらしい。
「お前と話していると、気が抜ける」
「ん? 喧嘩売りました?」
「喧嘩がしたいなら買うが」
ちょっとからかって見せると、ビョルンさんは呆れたように私の肘を小突いた。
「私も、ビョルンさんと話してると楽しいです。気が抜ける……というよりは、落ち着くんですよね」
ビョルンさんは私の言葉を静かに聞いてくれる。彼のそういうところが、私は好きだ。もちろん、好感が持てるという意味で。
「前に勤めていた会社では、私の言うことなんて誰も聞いてくれなくって。喧嘩腰になるか、ハナから興味がないか……とにかく、私は自分の言葉を届けるのに毎日精一杯でした」
この世界に来てから二、三ヶ月しか経っていないのに、会社員時代が遠い昔の、遠い世界のことに思えた。あの過酷な時代に戻りたくない。私の周りに味方はいなくて、ひとりでずっと気を張っていた。都会の喧騒の中で、ひとりぼっちの孤独を感じていた日々。
「私、結構この世界好きかもって思うんですよね。それはきっと、ビョルンさんが傍にいてくれるから」
私は顔を上げてビョルンさんを見た。小麦色の髪の隙間からのぞくライムグリーンが、少し見開かれてこちらをまっすぐ見つめている。その小さな丸の中に、ほんのり頬の染まった私の顔が映っていた。
「感謝しています、ビョルンさん」
「……別に」
ビョルンさんは目線を逸らし耳を下げた。その耳の先がじわじわと赤くなっていくのが、なんだか面白い。素直じゃないこの人が、こんなにも分かりやすい人だということを知るのはきっと多くない。そのうちの一人に含まれていることが、誇らしくて嬉しかった。
「明日も訓練を続ける。音を上げるなよ」
「望むところです!」
私はちゃぷん、と水面を揺らして元気よく頷く。ビョルンさんはふっと口角を緩めて、私の頭を髪をわしゃわしゃとかきまぜるのだった。




