190_海の危険と思い出
異世界の船旅は過酷だけど、日本では見ることができない景色がたくさんある。クジラのような巨大な魔物が悠々と泳いでいる様子を、甲板から眺めていた。腕の中のミニベロスは潮風の匂いを嗅ぐように、フンフンと鼻を鳴らしている。
「気分はどうだ」
「もうずいぶん回復しましたよ。ありがとうございます」
ビョルンさんが甲板に上がってきて、私たちの隣に並んだ。この船は補給のために一度港に停泊するらしい。今晩は陸の寝床で一息つけそうだ。
「港って、どんなところなんでしょうね?」
「小さな離島だ。期待はするな」
素っ気なく言うと、面倒くさそうに欠伸をするビョルンさん。彼はこの大きく揺れる船の中でも、普段通りの様子だ。特に疲れた様子もみられない。
「ビョルンさんは船旅に慣れているんですか?」
「いや、慣れているわけじゃない」
ビョルンさんは昔を懐かしむように目を細めて、小さく首を横に振った。
「まだ北部に魔王が迫っていなかった頃。幼い頃に両親と北国に出かけたことがある。氷だらけの海を進む船でな、乗り心地は最悪だった」
最悪、と言いながらも彼の口角は上がっている。きっと大切な思い出なのだろう。彼が進んで過去の話をしてくれてうれしい。
「北国ってどんなところなんですか?」
「この国よりも排他的な国だ。父の故郷があった、ということしか知らない。今はもう魔王の配下に堕ちて滅亡した」
「あ……えっと、そうだったんですね。ごめんなさい」
なんてことだ、質問を失敗してしまったらしい。俯いて視線を下げると、ミニベロスがしっぽを下げて心配そうにキューンと鳴く。
「構わん。もう百年以上の話だ。父の故郷というだけで、特段思い入れはない」
ビョルンさんは『気にするな』と言うように、私の頭 をガシガシと乱暴に撫でた。
「ただ、あの国の飯は美味かった。もしまだあの国があれば、お前にも食わせてやりたかったが」
「北国のごはん? 何を食べていたんですか?」
食事の話題に、わかりやすく気分が上昇する。
「海の魔獣の肉だ。油が乗っているが赤身の質が良い肉でな。ローストにするか、シチューにするのが美味い」
ビョルンさんはクックッと喉で笑った。食事に頓着のない彼が思い出話をするほどに美味しいお肉なんて、興味があるに決まってる。
「もう食べられないのは残念ですねぇ」
「繁殖期になるとこの海域にも出ると言われているが、もう長年見かけていない。国とともに絶滅したのかもしれん」
ビョルンさんが海を見てため息をついた。私も彼の隣に並び、水平線を見る。すると、広報の船乗りたちがなんだか騒がしいことに気がついた。
「どうしたんでしょう?」
「魔物が船の下に潜った! このまま奴が浮上すれば船が沈むぞ!」
「えぇっ!?」
突然の異常事態に、思わず悲鳴にも似た声が出た。出航してまだ三日も経っていないのに、沈没の危機だなんて笑えない。ビョルンさんを見上げると、彼は面倒くさそうに頭をかいてため息をついた。そしてなぜか急に上着を脱ぎ始める。
「えっ!? ビョルンさんっ!?」
「海の藻屑になりたくなければ大人しくしてろ。いいか、顔を出すなよ」
ビョルンさんはそう言うと、私の額に手を添えて保護魔法をかけてくれた。そして壁に立てかけてあった銛を手に取る。まさかこの人、海に潜って魔獣を退治するつもりなのでは?
「ビョルンさん、ちょっと待って!?」
しかしビョルンさんは私の制止を振り切って、海に飛び込んでしまった。それと同時に、ゴウンと大きく船が揺れて、近くにあった柱にしがみつく。水面からバリバリと稲妻があがって、ぐるぐると洗濯機みたいな渦巻きが起こった。海水がざぶんと甲板に
「うわっ、うわわわ……!」
右に、左に船体が大きく揺れて、下手なジェットコースターよりも酷い横揺れに振り回される。
「キュウ〜ッ!」
「あ、ちょっと! ダメダメっ!」
甲板を滑って転がっていきそうなミニベロスを捕まえたけれど、正直回復していた船酔いが悪化した。目を回しながら柱にしがみついていると、船乗りたちから歓声が上がりはじめる。『やったぞ!』とか『すごい!』とかのけたたましい歓声が割れんばかりに響いて、頭が痛い。
「うぅぅ、なんなの……?」
「終わった」
トン、と甲板の板がきしんで、見上げるとずぶ濡れのビョルンさんが立っていた。濡れた前髪をかきあげて、鬱陶しそうに髪を束ねる。私はずぶ濡れになりながら、甲板でひっくり返ってビョルンさんを見上げた。
「終わったって、なにが」
「船を沈められる前に魔獣を倒した。水揚げして肉を分けてもらえばいい」
そう言ったビョルンさんの顔は晴れやかで、どことなく嬉しそうだ。私は吐き気を抑えながらも、ビョルンさんに尋ねる。
「ご機嫌がよろしいようで?」
「先程話した魔獣だった」
「え? 北国の?」
「そうだ。これで北国のシチューが作れる」
フフン、と得意げに笑うビョルンさんは私を甲板から起こしてくれた。グラグラするから私はその大きな胸板に額を押し付けて、何とか吐き気に耐える。とても磯臭い。
「シチュー……」
この頭痛を引きずって、脂の乗った肉なんて食べられるだろうか。心配になってビョルンさんを見上げると、困ったように首を竦めて見せた。
「体力をつけるためにも食った方がいい。調理はしてやる、部屋で寝てろ」
「陸地にあがりたいです」
「はぁ……わかった。今晩は陸で宿を取ってやる」
ぽんぽんと子供をあやすように言うと、ビョルンさんは濡れた身体のまま甲板を歩き去っていった。汽笛が響きわたり、水平線の向こうに小さな島が見える。私はずぶ濡れになった身体を潮風に預けながら、船の行く先を見ていたのだった。




