188_とある異世界人の決断
港町であるポルタ・サレの朝は早い。欠伸をしながらエプロンを締めて、階段をおりる。
「タクちゃん、おはよう」
厨房に入ると、ミャーコちゃんが茶を載せた盆を持ってきてくれた。魔法でキンキンに冷やされたお茶を煽ると、スッキリとした麦の香りが鼻を抜ける。
「やっぱり、ミャーコちゃんがいれてくれるお茶はおいしいなぁ」
「そう? なら良かった」
ミャーコちゃんは素っ気なく言うけれど、彼女の尻尾はかなり素直で、嬉しそうにゆらゆら揺れていることを知っている。彼女の自尊心を傷つけたくないので黙っているけれど。
「今日も海は穏やかみたい。きっと良い船旅になるよ」
「そうだねぇ。この世界の船旅は大変そうだから、いいお天気の方がいいよね」
ミャーコちゃんが言っているのは、ルナさん達のことだろう。昨日この街を発ったルナさんとビョルンさんは、きっと今頃船に揺られて旅をしている。彼女たちの旅が安全で楽しいものになることを、僕とミャーコちゃんは心から願っていた。
「今日はなにを作るの?」
「海藻とキノコのお味噌汁を作ろうかな、ミャーコちゃんは焼き魚をお願いしてもいいかい?」
「わかった」
ミャーコちゃんは生まれてからずっとこの街で、海と親しみながら生きてきた。正直なところ、彼女が焼く魚以上に美味しい焼き魚を食べたことはない。僕は彼女の手料理が大好きだ。
「よし、お味噌汁はこんなもんかな。そっちはどう?」
「もうすぐ焼ける。もうお皿に入れちゃって」
ほどなくして朝食の支度がすんで、食卓に二人分の皿が並ぶ。白米と味噌汁、そして焼き魚と塩漬けの野菜。異世界でも和食を食べられるようになったのは、ここ一、二年のことだ。研究と試行錯誤の成果を噛み締めながら、二人で手を合わせた。
「いただきます」
ミャーコちゃんも手を合わせて、味噌汁にふうふうと息をかける。彼女は猫舌だから、少し冷ますくらいがちょうど良いらしい。
「ん、おいしい。ありがとう、タクちゃん」
「ほんと? 良かったぁ」
ほうっと息を吐いて、ミャーコちゃんは微笑む。満足そうに耳を揺らして、また一口啜った。僕も味噌汁に手を伸ばして、ズズッと音を立てて飲み込む。ちょうどいい塩気とキノコの風味が口いっぱいに広がって、空っぽだった胃袋がじんわりと熱を持ち始めた。
「嬉しいな。最初の頃は、ミャーコちゃんは味噌汁飲めなかったもんね」
「こんな色のスープは初めて見たんだもの。でも、今は一番大好きなスープかな」
ふふ、と笑ってミャーコちゃんは尻尾を揺らした。機嫌良さそうな彼女の姿に、僕も釣られて笑う。穏やかな朝食の時間は、僕にとってなによりも宝物だった。
僕がこの世界にやって来たのは、ちょうど十年ほど前のことだ。
目が覚めた時には暗い海の中にいて、息苦しさにもがいていた。しかし海面に向かうよりも先に、海底にほとんど力尽きている女性がいることに気がついた。考えるよりも先に身体が動いて、彼女の手を掴んでいたのだ。
「タクちゃん?」
「あぁ、ごめんごめん。ちょっと考え事しちゃって」
昔のことを思い出していると、手が止まってしまっていたらしい。ミャーコちゃんが心配そうにこちらを覗き込んでくると、ふわりと潮風の香りがする。僕は赤くなる頬を笑って誤魔化した。
そう、僕は彼女に恋をしている。一目見た時から、今日までずっと。
だけど一目惚れだなんて言っても、ミャーコちゃんは信じてくれないだろう。この世界には猫の獣人というだけで忌み嫌う人もいる。これまでこの店に来た客の中にも、彼女の姿に苦言を呈した人もいた。もちろん、すぐに叩き出したけど。
「もしかして、タクちゃん……」
「うん?」
ミャーコちゃんはなにか悩んだように視線をさまよわせて、ヒゲをひくひくと揺らした。どこか物憂げな表情も綺麗で、思わず見とれてしまう。彼女の内面の美しさが外見にも表れているようで、彼女の表情ひとつでも見逃したくなかった。
「タクちゃんは、ルナさんたちと一緒に行きたかった?」
「へ?」
彼女の顔を見ていたせいで、反応が一瞬遅れた。それが図星をつかれたのだと思ってしまったのか、ミャーコちゃんは傷ついた顔を見せる。
「やっぱり……」
「違う違う! 僕は元の世界に帰るつもりはないよ!」
僕は手をブンブンと振って、彼女の予想を否定した。彼女は僕が故郷に帰りたいと思っているみたいだけれど、そんなことは考えたことがない。僕が考えているのは、どうやって彼女の隣にいるかということだけだというのに。
「ミャーコちゃん」
僕は彼女の名前を呼んで、そのフワフワの毛に覆われた手のひらを両手で包む。同じ世界の住人であるルナさんの登場はとても喜ばしいことだったけれど、彼女にとって不安を増長させてしまったようだ。それならば、その不安を解消するのが僕の役目だろう。
「大丈夫だよ。僕はここにいる。君の傍から離れるもんか」
「本当に……? ルナさんみたいに、故郷に帰りたいって思わないの?」
彼女の不安げな言葉を、やんわりと否定した。
「僕とルナさんは違うからね。それに僕の故郷には……あんまりいい思い出がなくてね」
実家は老舗の料亭だった。古く凝り固まった価値観を持つ両親とは反りが合わず、飛び出したものの周囲には馴染めなかった。受け入れてくれる人など誰もいない、孤独な世界。それに対して今はどうだ。僕だけをまっすぐに見てくれる人がいる、必要としてくれる人がいる。そんな贅沢、許されていいものなのかと、いつも疑問だった。
その疑問を吹き飛ばしてくれたのは、紛れもなくルナさんとビョルンさんだ。二人の信頼関係は眩しくて、彼らのようになりたいと思った。お互いを支え合い、助け合うパートナーに。
「僕はミャーコちゃんと一緒にいたい。これまで通り、君と一緒に歳を重ねていきたいと思ってる」
僕は一度言葉を切って、ミャーコちゃんの顔を見つめた。大きな瞳で僕を見つめ、困ったように耳を下げている。落ち着かなさそうに揺れるヒゲと、噛み締めた唇。彼女を不安にさせるのも、今日が最後だ。
「ルナさんと話してわかったんだ。僕が本当にやりたいことは、この店で料理を作ること。それは君と一緒がいい。君とじゃないと、嫌だ」
心臓がバクバクと跳ねる。拒絶されるのが怖い。この一歩を踏み出さなければ、これまでと変わらない日常が続いていくだろう。でも、それじゃダメだとわかっている。
「あのね、ミャーコちゃん」
「うん。なぁに」
「えっと、その……あの、ね」
割れながら情けない声で嫌になる。それでもなんとか、声を振り絞った。
「君には毎日笑っていて欲しい。ずっと、僕の隣で……毎日、僕が作ったお味噌汁を飲みながら……」
目線を食卓に彷徨わせて、味噌汁に固定する。ほかほかと白い湯気がたつそのスープは、僕の故郷では求婚の時に使われるものでもある。
「ミャーコちゃん。僕と結婚……して、ください!」
叫ぶように言い放って、ポケットに隠していた指輪を彼女に差し出した。給料を少しずつ貯めて買った婚約指輪。その指輪には金剛石が嵌め込まれていて、この国では非常に希少らしい。財産らしいものはないけれど、どうにかかき集めた金貨と引替えに商人ギルドの宝石商から購入した。
「タクちゃん、いつの間にこんなの用意してたの?」
純粋な疑問符に、僕は頬をかきながら答える。
「実はここ数年で準備していたんだ。店か落ち着いたら、いつかもっとちゃんとした店を開けるようになったら……とか、色々考えてたんだけど。随分遅くなっちゃって」
思いついたのは三年以上前だ。彼女に思いを伝えたくて、できなくて。良い方法を探し続けて、ようやく見つけたのかまこの金剛石の指輪だった。
「それで、どう……かな?」
彼女の答えを聞くのが怖い。でも、聞かなきゃいけない。どんな結果になろうとも、既に覚悟はできている。
「もう……バカ」
ミャーコちゃんの声が震えた。そして彼女は立ち上がって、こちらの目の前に歩いてくる。僕は思わず立ち上がって、腕を広げた。彼女がこの腕に飛び込んできてくれることを信じて。
「待たせすぎ。ずっと待ってたんだから」
腕の中に、温かくて柔らかな毛の感触がする。その温もりをかき抱いて頬擦りをした。少しチクチクするヒゲが当たってくすぐったい。
「うん……うん、ごめんよ、待たせちゃったよね」
こくん、とひとつ頷くミャーコちゃん。
「ずっとここにいるから」
僕は静かに言うと、彼女の鼻先に自分の鼻先をくっつけた。これは獣人種流の愛情表現だ。なんとなく気恥ずかしいけれど、ミャーコちゃんが嬉しそうなので良しとする。
故郷に帰りたいというルナさんの気持ちも理解出来る。目標に向かって突き進む彼女の姿を見て、ようやく決心がついた。
僕は、この世界で、愛する人と生きていく。




