187_出航日和、次なる目的地へ
いよいよポルタ・サレを発つ日がやって来た。日の出を迎えた海はほのかにオレンジ色に光り、空は澄み切った快晴である。風も波も穏やかで、これ以上の出港日和はないだろう。
「おはようございます、ビョルンさん! ほら、起きてください!」
私はベッドで丸くなっているビョルンさんから毛布を剥ぎ取りながら、朝の挨拶をした。ミニベロスも一緒になってぴょんぴょんとベッドの上を飛び跳ねている。
「皆さん、お見送りしてくれるって言ってたんだから遅刻できませんよ!」
「ぐぅ……」
「ぐぅ、じゃない!」
ミニベロスと一緒にキャンキャンと喚く私を煩わしそうに見上げるビョルンさん。何を思ったのか、毛布を引っ張って私をベッドの中に引きずり込もうとしてきた。私はカーペットに顔面をしたたかにぶつけてしまって、口を尖らせ文句を言う。
「ちょっと、もー! なにするんですか!?」
「……やかましい」
「こら! 寝ようとしないっ!」
私はビョルンさんの頬をぺちぺちと叩くと、逃げるように枕に顔を埋めてしまう。私の数倍以上生きているくせに、本当に子供なんだから。
「しばらく陸の寝床が恋しくなる」
「それでも一等客室ですよ。贅沢すぎるくらいなんですから」
私の言葉に不満気に鼻を鳴らして、ビョルンさんは天井を見上げる。そして私の方に視線を戻して、試すように言った。
「船旅の経験は?」
「いえ、ありませんけど」
ビョルンさんは頬杖をついて、からかうような声音で続ける。なんだか意味ありげな顔に、私は眉をひそめた。ミニベロスも一緒になって小首を傾げている。
「船酔いに回復魔法は効かん。泣きごとを吐くなよ」
「わかりました」
こくんと頷いたものの、私はこの世界の船旅の過酷さを知らずにいた。その言葉の意味を理解するのは、船の全貌を見たあとのことだった。
私はミニベロスを抱きながら、あんぐりと口を開いた。目の前には、これから約二週間ほどお世話になる船が堂々たる姿で港に停泊している。
「これが、この世界の船……!?」
私たちがこれから乗るのは、近世ヨーロッパのガレオン船のような大型帆船だった。ただしその船には巨大な大砲や鎖が詰まれていて、まるで戦艦のようだ。お世辞にも快適なクルーズ旅とはいかないだろう。
「この海域の魔物は凶暴だ。この程度の武装は必要だろう」
「海にも魔物がいるんですね」
ビョルンさんは『だから言ったろ』とでも言うように肩を竦めた。私はまだこの世界について知らないことがたくさんあるみたいだ。
「ルナさーん!」
振り返ると、タクさんが大きな箱を持ちながら私の名前を呼んでいた。大荷物に疑問を持ちながら駆け寄ると、タクさんはいきなり頭を下げた。
「『覚醒と保温のポーション』の利権を売ってください」
「えぇっ!?」
タクさんの急な申し出に驚いて仰け反る。そういえば最近立て込んでいて、釣り人ギルドにポーションを卸していなかったことを思い出した。
「お二人のポーションが欲しいって、釣り人ギルドの方から言われてたんだ。僕が勝手に作るわけにもいかないから、かわりに利権を売っていただきたいんです」
「そういうことだったんですね」
利権の販売、というのは盲点だった。私たちの商品が必要とされることはとても嬉しいし、タクさんならば安心して任せられる。ビョルンさんも納得しているようで、静かに頷いてくれた。ただ、問題は対価だ。値段設定はどうしよう、ただ金貨を積めばいいということでもないし。
「あ、あの……代金として、僕が作ってる調味料を『幸運草商会』に卸すって言うのはどうかなと思って」
そう言って差し出した箱の中身は、私にとっては宝の山だった。そう、それはタクさんお手製の醤油と味噌だった。
「本当にいいんですか? とっても貴重なものなのに!」
「そんなに多くの数は卸せないけれど、ルナさんならきっとうまく使ってくれるだろうしね。保護魔法を使えば保存状態も良いままだよ。……どうかな?」
タクさんは私とビョルンさんの顔を交互に見て、おずおずと手を差し出す。ビョルンさんは私の方を見て頷くと、タクさんの手をしっかりと握った。
「いいだろう。こいつの機嫌を取れるなら安いものだ」
ビョルンさんは肩を竦めて私を見るので、私は彼の腹を小突いた。でもこれは好機だ。タクさんの調味料があれば食卓の幅がぐんと広がって、ビョルンさんに美味しいものを食べさせてあげられる。栄養価も高いので、ポーションにも役立つに違いない。
「タクちゃん! お弁当ーっ!」
「ミャーコちゃん、間に合ってよかった! ありがとう!」
ミャーコさんがパタパタと掛けてきて、私たちに微笑んでくれた。その手の中には大きな風呂敷を抱えている。
「これ、僕ら二人で作ったお弁当です。おふたりでどうぞ」
「ルナさんが好きな魚料理、たくさん入れておいたからね。保存魔法もかけたから、きっと新鮮なまま食べられるよ」
「やったぁ! タクさんたちのご飯、大好きなので嬉しいです」
タクさんたちのご飯を食べられなくなるのは、とても残念だ。お弁当は大事にいただくことにしよう。
「ルナさん、ビョルンさん。本当にお世話になりました」
タクさんとミャーコさんは私とビョルンさんを見て、深く頭を下げた。そしてタクさんは顔をあげると、胸を張って堂々と言う。彼の目から強い決意が見えた。
「ポルタ・サレの住民として、このご恩は一生忘れません」
タクさんは、この街で生きていくことに決めたみたいだ。その顔はとても誇らしげで、私もなんだか晴れやかな気分になる。
「無事に帰れるように祈ってるよ、ルナさん。……ただ、あのね」
タクさんはそこで一度言葉を切ると、私に一歩近づいた。そして優しい顔で、穏やかに言い聞かせるように教えてくれた。
「急いで答えを見つけなくてもいいんじゃないかなって」
タクさんはほぼ笑みを浮かべて、ミャーコさんを見た。二人は愛おしげな視線を交わし、小さく頷く。二人は異なる世界の住人で、人種も違う。それでもこんなにも深く愛し合えているのは、ひとえに彼らがこれまで紡いできた時間がとても尊いものだからだ。
「いつか別れなきゃいけない時が来る。大事なのは、その時に笑っていられるかどうかだと思うんだよね」
タクさんの言葉は優しいけれど、とても重い。私は目的を失いたくない。だからといって、その目的だけを見つめていればきっと大切なことを見落としてしまう。タクさんはそのことを忠告してくれたのだろう。
「異世界の旅を楽しんでね」
「……はい。ありがとうございます、タクさん」
私はお礼を言って、頭を下げた。ビョルンさんも私の方に手を置いて静かに頷く。まるで『傍にいる』と言ってくれているみたいに。
タクさんはそんな私たちの姿を見ると、安堵したように笑った。ミャーコさんは祈るように手を組み、私の額に手をかざした。
「あなたたち旅路が、素敵なものになりますように。……これは海で生きる者たちの祈りの言葉なの。きっと海の精霊たちが守ってくださる」
ミャーコさんは八重歯を見せて笑ってくれる。その笑顔はとても清々しくて眩しくて。私も釣られて、大きな口を開けて笑った。
いよいよ出航時刻になった。オブライエンさんを始めとする闇市で出会った人々や、バルデーニさんをはじめとする釣り人ギルドの面々が港に集まってくれていた。
「気張ってこいよ!」
バルデーニさんは私とビョルンさんを大きな腕と尻尾で抱きしめて、激励の言葉をかけてくれる。他にも別れを惜しむ人々の声が溢れて、なんだかこそばゆかった。
船に乗り込み、甲板に出る。ビョルンさんの小麦色の髪が潮風に吹かれて、キラキラと光っていた。私は見送りの人々に手を振りながら、街の中にあるとある石造りの塔を見る。その窓辺に人影はいたような気がしたのだ。
今、その塔にはアールがいる。人影がアールである確証はないけれど、なんだかその場所を見つめてしまった。
「あなたを愛しています、ルナさん」
彼の言葉が全て偽りとは思えない。もしかしたら、ほんの少しだけ本音が混じっていたのかも。今となっては確かめる術はないけれど、彼と出会ったことで得ることができたものもある。彼の凶行を肯定することはできないけれど、それでも出会わなければよかったとは思わない。
「さぁ、出発ですよ、ビョルンさん!」
ビョルンさんを振り返って、私は笑いかける。私の声に乗じるように、わふんとミニベロスが三つの頭でそれぞれ鳴いた。風に吹かれた前髪をかきあげると、ビョルンさんはふっと口角を上げる。
「覗き込みすぎて海に落ちるなよ」
「落ちませんってば!」
「わふわふ!」
「あっ、危ないっ!」
私は見を乗り出そうとするミニベロスを慌てて抱えなおした。バランスを崩しそうになるけれど、ビョルンさんが支えてくれるから大丈夫。
「ったく……危なっかしい奴め」
呆れたような、それでいて優しい声でビョルンさんが言う。私はその言葉に笑みを浮かべて、その大きな腕の中に収まった。
私とビョルンさんと、新しい仲間のミニベロス。二人と一匹はこうして次なる目的地、鉱業都市に出航したのだった。
昇り始めた太陽が海面を照らし、雲ひとつない空を明るく染める。船は徐々に港を離れ、白い泡が流れていく。離島には人魚たちが岩場に乗り上げて、別れを告げるように立派な尾鰭を大きく振っていた。私たちの新たな旅路を祝福するように。




