183_なにを信じるか、信じないか
ケルベロスの地響きのような咆哮が、夜の森を震わせた私たちを背中に乗せたケルベロスが、アールへと飛びかかろうとしていた魔物たちの群れに、猛然と突撃していく。三つの巨大な頭部が燃え盛る地獄の業火を口端から漏らし、闇を切り裂いた。
「よかった、間に合った……!」
ビョルンさんの逞しい腕に抱えられたまま、私は激しく揺れる視界の中で必死に目を見開く。
「……ったく、世話の焼ける小僧だ」
私を地面に下ろすと同時に、ビョルンさんが地面を踏み抜いて前に出た。彼が右手を一振りしただけで、凄まじい暴風が荒れ狂い、ケルベロスの牙を逃れた魔物たちを一撃で吹き飛ばす。
岩をも砕く風圧は、アールの前に立ちはだかっていた黒いローブの男の足元を大きく揺るがした。男は咄嗟に障壁を展開して一歩後退する。その目の前でケルベロスが激しく威嚇するように地面を叩き、地獄の業火で周囲の木々を一瞬で焼き焦がした。
ビョルンさんの圧倒的な力と猛り狂うケルベロスの威圧感。想定外の乱入に、黒いローブの魔術師も息を呑む。フードの奥の黒い瞳が、驚愕に揺れているのがはっきりと分かった。
「なぜ、あなたがここに……!」
地面にへたり込んだアールが、呆然とした声を漏らす。その焼け爛れていたはずの皮膚は綺麗に再生しているものの、その表情には、私たちがここに来たことへの衝撃と絶望が入り混じっていた。
「おい、黒づくめ」
ビョルンさんはアールを見ようともせず、ただ真っ直ぐに黒いローブの男を睨みつけ、低く、地の底から響くような声で威嚇した。
「この男はポルタ・サレの管理下にある罪人だ。セレスティウムから潜り込んだネズミに処分されるのは困る」
ピキ、とビョルンさんの周囲の空気が凍りつく。一触即発の緊張感の中、ケルベロスもいつでもその魔術師を噛み殺せるように前傾姿勢をとった。
魔術師はビョルンさんを一瞥して、ふっと冷たい笑みを漏らした。これ以上の戦闘は無意味だと判断したのだろう。彼の足元に、不気味な転移の術式が広がり始める。
「……フッ、やはり腕の良い魔術師だ。こんな場所で燻っているのはもったいない」
男は肩を竦めて軽い調子で言った。フードを深く直しながら、私へとその冷徹な視線を向ける。
「今回は引いてやろう。だが、君のそのユニークスキルが、いつまで君を守ってくれるかな?」
「え……?」
この魔術師は私が異世界人であることを知っている。その不気味な笑顔と急に告げられた内容に鳥肌が立った。ビョルンさんが私を守るように前に出て剣を抜く。
問い詰めようとしたけれど、魔術師の身体が、徐々に光の粒子となって薄れていく。彼は冷酷な笑みを深め、ポツリと呟いた。
「セレスティウムで待っているよ」
ゾクリ、と嫌な予感が背筋を駆け抜ける。
次の瞬間、男の姿は掻き消えるようにその場から消失し、残された魔物たちもケルベロスに恐れをなしたのか散り散りになって森の奥へと逃げていった。
しんと静まり返った森の中。ケルベロスがフシュー、と荒い息を吐きながらビョルンさんに頭を擦り寄せる。足輪を付けると元の小さな姿に戻り、トコトコと私の足元へ寄ってきた。私はミニベロスを抱き上げて、三つの頭をそれぞれ撫でて褒めてやる。
「よしよし、よく頑張ったね」
私はビョルンさんの背中の後ろから一歩踏み出し、地面にへたり込んだままのアールの方へとゆっくりと歩みを進めた。
「……大丈夫、ですか」
恐る恐る近づいて、目の前に膝をつく。初めて会った時もこんな風に手を差し伸べたっけ、なんて思い出した。アールは私の手をじっと見つめるだけで、取ろうとはしない。
「あなたを助けに来たんです」
「……なぜ? 死んでいた方が、都合が良かっただろうに」
自嘲気味に言うアールの言葉に、私は首を横に振った。拳をきつく握りしめて、それでもはっきりとした口調で言う。
「自分の罪から逃げるなんて、許さない。あなたにはちゃんと償ってもらいます」
私はアールの手を引いて立ち上がらせた。彼は抵抗することなく、ゆっくりと私の顔を見上げる。そしてやれやれと言うように首を振った。
「あなたは詰めが甘い」
「計算高いと言ってくださいよ」
私は肩を竦め、少しおどけた声を出す。ビョルンさんは黙ったままだけれど、いつでも剣を抜けるようにしていることにはアールも気付いているようだ。抵抗しないという判断をしてくれて、本当に良かった。
「先程の魔術師は誰なんです?」
「……口を割るとお思いで?」
しばらく睨み合う私とアール。しかし先に折れたのはアールの方だった。彼は視線を落として少し迷った後、覚悟を決めたように唇を噛む。そしてこれまでで最も頼りなくか細い声で真実を紡ぎ始めた。
「彼は魔術師塔の筆頭魔術師、名前はカイ。……ただ、僕が知っていることはそれだけです」
「セレスティウムの筆頭魔術師?」
「予想以上に大物が出てきたな」
ビョルンさんは面倒くさそうに頭をかいて、ため息をつく。
「ワープホールを使える魔術師はそう多くない。筆頭魔術師というのもでまかせではなかろう」
「今更、嘘を言ったところで無意味ですよ」
「その魔術師が、異世界人召喚の儀式を執り行うように指示したんだな」
アールは小さく頷いて肯定した。
「目的は?」
「……さぁ。この街に対する復讐するという名目で、手を組んでいただけですから」
復讐というアールの言葉には、空虚な憎しみが滲んでいた。その響きはなんだか悲しくて、私は聞かずにはいられなかった。
「あなたは……どうしてこの街を憎んでいるんです?」
「この街の亜人種を無条件に愛せると思ってるんですか。これだから、何も知らない異世界人は」
忌々しいものを見るように、アールが私を強く睨む。ビョルンさんは眉を寄せて、淡々とした口調で質問を重ねる。
「ただの人種差別主義者とは思えん。そんな短絡的な人間ではないはずだ」
「そう大層な理由はありませんよ。ただ、のうのうと暮らしている連中が憎かった。奴らを見返すために、どんなことだってやったんだ」
アールは乾いた笑いを漏らして、私たちを見た。
「連中が孤児に対してどんな仕打ちをしたと思う? お前たちが思うようなお綺麗な人間じゃない」
そしてアールは私の手強くを引いて、耳元に唇を寄せる。吐息がかかるほどの距離で、アールは嘲笑うように笑った。
「クリスタニアに行ってみれば、僕の言うことがわかるだろう。その時、せいぜい絶望で打ちひしがれるといい」




