「冒険の書二百七十三:世界樹の涙」
空から無数の水滴が落ちてきた。
木の葉や馬車の屋根に、人の頭や鎧の肩に、小石に地面に。
すべてのものに平等に、ポツンポツンと降り落ちてきた。
最初は風に乗って飛んできた天気雨なのかと思ったが、ルチルナの使用人であるエルフたちによれば、そうではないのだという。
『世界樹の涙と呼ばれる気候現象』で、この一粒一粒が希少アイテムである『世界樹の涙』なのだという。
「……そう言われてみれば、雨というには温かすぎるか。優しく、甘い香りまで漂っている。……しかし、いったい、どうしてなのだ? どうしてこんなことが起こるのだ?」
理由を訊ねるワシに、しかしエルフたちは答えてくれない。
掌で水滴を受け止めては、飲んで味を楽しんだり、嗅いで匂いを楽しんだり、とにかく陶然とした笑みを浮かべている。
その様は、神がこの世にもたらした奇跡に歓喜する信徒のようだ。
「ルチルナ、わかるか?」
マリアベルを慰めているルチルナに聞くと、貰い涙をぐいと拭いながら答えてくれた。
「聞いたことが、あるのよ。おとぎ話だと、思っていたのだけど……」
ルチルナによると――
ピピたち世界樹の苗木は、母樹の危機に際して体を白い霧へと変換するのだという。
『魔力と栄養の塊』に、母樹へとより吸収されやすい形に変わって空を飛ぶのだという。
霧化の際に生じた魔力と栄養の残滓が水分と共に空気中に放出され、やがて水滴となって降り落ちてくる現象が涙のように見えることから『世界樹の涙』なのだとか。
「なるほど……だから……」
ウルガは『世界樹の苗木の蓄えている魔力と栄養を抽出・精製すれば世界樹の涙になる』と話していたが、元をたどればこういう形で作り出されるものだったのか。
「師匠! 師匠! 今の、聞いたか!?」
ルチルナの話を聞いたのだろうマリアベルが、ガバリとばかりに顔を上げた。
喜びと驚きと、ぬぐい切れぬ悲しみとが入り混じったような複雑な目で、ワシを見た。
その手には、一時的に預けておいた腰鞄が乗っている。
「師匠の『精髄』を治す、最後のアイテムが揃ったぞ! これでようやく、本当の力が取り戻せる!」
腰鞄の中身は『万能の霊薬』調合のための素材と器具だ。
「『万能の霊薬』の材料は『不死鳥の尾羽根』と『黒竜の心臓』と『ユニコーンの角』まで揃っているのだったな!? あとは『世界樹の涙』ひとつを残すのみなのだと! ならばこれで全部そろった! そうだろうが⁉」
「ああ……その通りだ。材料も調合器具もすべて持って来ているからな。なんなら今すぐここで、調合できる。すぐさま精髄を、復活できる」
「どうしたのだ師匠⁉ なんでそんな暗い顔をしているのだ!? ようやく精髄が治るのだから、もっと喜んでもいいのではないか!?」
「……それを言うならおまえも同じだろうが。顔……ぐしゃぐしゃだぞ?」
「それは……だって、しょうがないだろうが……っ」
自分の顔がどんな状態なのか、ようやく気づいたのだろう。
マリアベルは涙でぐしゃぐしゃになった顔を、ドロドロになった化粧を、慌てて拭った。
「ピピとこんな風に別れて……すぐに喜んで騒げるわけないだろうがっ」
「だから、それはワシも同じなのだ。ピピを救えず、棚からぼた餅とばかりに転がり込んできた幸運で世界樹の涙を手に入れて、すぐさま喜べるわけがなかろうが」
「それは……でもっ」
「ワシには何もできなかった。ピピを崖の途中の部屋から連れ出して、少しの間一緒にいただけ。道中もほとんど馬車の中に閉じ込めっぱなし。最後は母樹のもとに帰るのをただ見送ることしかできなかった」
「師匠……っ」
「にもかかわらず、こいつを口にする資格があるのだろうかと悩んでいるのだ。自ら努力して勝ち取ったものではない、たまたま転がり落ちてきた、まさにおこぼれのような幸運をな」
手のひらに溜まった世界樹の涙を見つめながら、自らを嘲り笑っていると……。
「師匠! 違う!」
「姫さま! そうじゃないのよ!」
マリアベルとルチルナが、同時に詰め寄ってきた。
かと思うと、左右から思い切りワシの頬をひっぱたいてきた。
「なっ……なんだ、どうしたふたりとも?」
痛みよりも驚きのせいで目をパチクリさせているワシに、ふたりは口々に言った。
「師匠は間違ってる! ピピは……ピピはずっと幸せだった! だって、覚えているか!? 崖の途中の部屋で再会した時のことを! ピピがどれだけ嬉しそうに駆け寄ってきたか! 抱き着いたか!」
「あたちはそんなに長い間一緒にいたわけじゃないけど、ピピはずっと幸せそうにしてたのよ! 姫さまにべったりくっついて、『ここが天国』みたいな顔してたのよ! 実の親にだって、なかなかあんな顔は向けないのよ!」
「ありがとうと言ってただろうが! 出会ってくれてありがとうって! 名前をつけてくれて嬉しかったって! 大好きだって! 長く一緒にいられなかったからって、それが失われるわけじゃない!」
「短い間でも、ピピは幸せに生きたのよ! それを否定しちゃダメなのよ!」
「ピピもきっと、師匠に幸せになって欲しいと思ってる!」
「姫さまは絶対、泣き顔よりも笑顔のほうが可愛いし!」
「四の五の言わずに――」
「ただ素直に――」
「飲めばいいのだ!」
「飲むといいのよ!」
ふたりは再度、ワシに詰め寄ってきた。
左右から、顔をくっつけんばかりの勢いで。
「お、おう……そうか」
ふたりの勢いに気圧されたワシは、一歩後ずさった。
手のひらに溜まった世界樹の涙を眺めると、少し気持ちが軽くなっているのがわかった。
「そうかもな……」
たしかにこれは、幸運のおこぼれだ。
ワシの努力ではなく、様々な状況の積み重ねによって今ここにある。
一歩でピピが、フィオナの幸せを願っていたのは間違いない。
中身はワシだが、体はフィオナで……ならばピピのためにも健康に、幸せになる権利があるはずだ。
……というのはいささか調子がよすぎるというか、強引な解釈かもしれんが……。
「……これも、業なのかもしれんな」
ピピを騙し、フィオナになりすましたワシに与えられた業。
「ピピの一部を受け入れ、共に生きていく。死ぬまでずっと、その負い目を抱え続ける……そういうことなのかもしれん」
生き続ける限り反省し、謝罪することで埋め合わせとするのだ。
「よう~っし、そうと決まればあとは悩むだけ無駄だな」
腹を括ったワシは、マリアベルから腰鞄を受け取った。
粉末状にした各種素材を取り出すと、それらを小さな小瓶にザザッーと入れ、世界樹の涙を垂らしてかき混ぜた。
ピンクの『不死鳥の尾羽根』と黒い『黒竜の心臓』と白い『ユニコーンの角』。
そこへ透明な『世界樹の涙』が加わった結果、小瓶の中には鮮やかなピンク色の液体が出来上がった。
自ら発光するそれは、見るからに強烈な魔力を帯びている。
「ほう、これが『万能の霊薬』か」
目を瞠るほどに強い魔力のこもった液体を、ワシはためらうことなく飲み干した。
一気に、ぐいっと。
「ちょ……貴重な霊薬をまさかの一気飲みっ!?」
「お酒でも飲むみたいにいったのよ……っ!?」
驚き呆れるふたりの声を聞きながら、ワシは腹をさすった。
食道を流れ胃を経由し小腸にまで至った霊薬がどんな変化をもたらすのだろうかと、興味深く待ち構えていると……。
「味は悪くないな。甘みの強い桃といった感じの……ん? んんんん?」
変化は急激に起こった。
ワシの腹の中で――パチリと、何かが目覚めた。
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