「冒険の書二百七十二:別れのあいさつ」
「ピピはね、おかあさんのところに行かなきゃいけないの。だから、一緒に旅には行けないの」
旅というのは、例の約束のことだろう。
崖の途中にある小さな部屋でピピとフィオナが交わした、『いつかふたりで世界中を旅する』という約束。
そいつが守れないということはつまり……。
「ピピ……」
いくつもの言葉が脳裏をよぎった。
どうしても行かなければいけないのかとか、他に方法はないのかとか、いっそふたりで逃げないかとか。
幼稚な言葉が、いくつも浮かんだ。
だが、ぎりぎりのところで飲み込んだ。飲み込むことができた。
だって、そんなことを言ってもどうにもならんから。
むしろピピを困らせ、悲しませるだけだから。
「ありがとね、出会ってくれて。ありがとね、遊んでくれて」
そんなワシの気持ちを知ってか知らずか、ピピは別れのあいさつを始めた。
ワシの肩に手を置くと、頬に頬をくっつけ、優しく囁いてきた。
「フィオナ大好き。フィオナといられて楽しかったよ」
この体への別れのあいさつを済ませると、次はマリアベルに顔を向けた。
同じように肩に手を置き頬をくっつけると、優しく囁いた。
「姉上もね、ありがとね。もっといっぱい、遊びたかったね。姉上の国にも、行きたかったね」
「ピ、ピ、ピピいぃぃ~…………っ」
もはや別れを止める手段がないと気づいたのだろうマリアベルは、その場に膝をついた。
ポロポロと涙を流して泣き出した。
「姉上、泣いちゃダメだよ」
よしよしとマリアベルの頭を撫でようとするピピ。
さっきまで肩に触れることのできた手がしかし、今度はすり抜けてしまう。
もはや大切な人に触れることすらできなくなったことに気づいたピピは、困ったように自分の頭をかいた。
ワシが言葉を失い、ピピが困ったように笑い、マリアベルが声を押し殺して泣く。
ちょっと前まで命懸けの戦いが行われていた戦場に、不思議な静寂が訪れた。
誰かが「あ」と声を上げた。
空を指差し、騒ぎ始めた。
それはすぐさま連鎖した。
エルフたちが皆、空を見上げた。指差した。
ワシも遅れて、空を見上げた。
森のあちこちから、白い霧のようなものが浮上していくのがわかった。
世界樹のある方へ、ふわふわと吸い込まれるように飛んでいくのがわかった。
「あれは……ピピの兄妹か?」
「うん、そうだよ」
「この森の中だけでも、けっこうな数がいたのだな」
「うん、だけど名前をつけてもらったのはピピだけみたい。ピピ、いいなあって、みんな言ってる」
「皆が……そういうものか」
「うん、親友ができたのも、遊んでもらったのも、ピピだけみたい。いいなあって、ずるいなって言ってるよ。えっへへへへ~……」
「そうか……」
ワシが生返事を返す間にも、ピピの体はどんどんと薄れていく。
今や後ろがすっかり透けて見え、喋る言葉もか細くなり、注意していないと存在を感じることすら出来なくなるほどだ。
「なあピピ、実はワシはな……」
ぐらりと一瞬、心が揺らぎかけた。
自らの正体を明かしかけたが、ギリギリのところで堪えた。
理由はひとつ。意味がないからだ。
フィオナがすでに死んでいることを告げたとしても、ピピを悲しませることにしかならないからだ。
ワシの気持ちが軽くなる以外の効果が望めないからだ。
だったらやはり、飲み込むべきなのだ。
ピピに良い思い出を抱かせたまま行かせてやり、嘘をついた罪悪感はワシが一生、抱き続ける。
墓の下まで持っていく。
それがたぶん、大人としての振る舞いだろう。
「ん~? どしたのフィオナ?」
「いや、なんでもない」
ワシは首を左右に振ると、笑顔を作った。
にいいぃ~っと、精いっぱいの笑顔を浮かべた。
「ありがとな、ピピ。おまえと過ごした日々は、ワシにとっても楽しいものだったぞ。できればもっと一緒にいたかったが、しかたあるまい。決して思い通りにはいかない、人生というのはそういうものだ。だがもし、叶うのならば次の人生で……」
存在を感じ取れなくなってしまう前に感謝を継げねばと口早に喋る途中で、ピピの姿がかき消えた。
冗談みたいに、ふっと消えた。
左右を見回しても、後ろを振り返ってもいなかった。
「ピピ……っ?」
慌てて顔を上げると、白い霧が飛んでいくのが見えた。
世界樹へ向かってゆっくりと飛んでいき、途中で他の霧と合流するのが見えた。
大きなひと塊となった霧が、世界樹に吸い込まれていくのが見えた。
「そうか……皆と一緒になったのか」
兄妹たちと合流した今のピピに、自我は残っているのだろうか。
間抜けた顔で空を見上げるワシらを見分けることが出来るのだろうか。
わからない。
もはやワシには、確かめる術がない。
「もし、叶うのならば……」
出来るのは願うだけだ。
どんな形であれ、自我を残していて欲しいと。
ピピはピピとして、兄妹とは違う存在であって欲しいと。
母樹に吸収されたあとも心安らかに過ごして、そしていつかは……。
「次の人生で、また会おう。その時こそワシは……おまえに……真実を……」
――ドクン。
胸を突き上げるような強い衝動があった。
熱いものがこみ上げた。
唇と、体が震えた。
目の端からこぼれるものがあった。
「なみ……だ?」
ワシはドワーフだ。
ドワーフの男で、武人だ。
たとえ肉親が死のうと、泣くことはない。
だからこれは、フィオナの涙だ。
ワシの中に残るわずかなフィオナの魂が、ピピとの離別を惜しんでいるのだ。
悔しくて、悲しくて、切なくて。
その想いが、きっと、こうして……。
「情けないのう……」
フィオナはきっと、ワシを責めていることだろう。
「他に方法があったかもしれぬのに……。ただただ状況に流されて……。抗うこともできず……。ピピとの別れすらこんな中途半端な形で……」
対魔術防御のかかった鉄板を張り付けた馬車の中にいれば、それでいいと思ったか?
無策で母樹に近づいて、強まった『引力』の射程圏内に飛び込んで。このような事態をどうして想定しなかった?
面倒だっただけではないのか?
大切だというのは口先だけ。
自分には関係ないからと、しょせんはフィオナの友人だからと、雑に扱ったのではないのか?
「いつもいつも……後悔ばかりだな」
胸の内から次々と。
心臓を刺し貫くようにザクザクと、後悔の念が襲ってくる。
自らの村を、家族を失ったこと。
ドラゴ砕術の同胞たちを救えなかったこと。
アレスたちの気持ちを理解できなかったこと。
今までに失った者たちとの記憶が、怒涛のように襲いかかってくる。
「何が最強の武人か。未熟で……仲間の心すら理解できず……そのせいで多くの人を失い、傷つけて……」
底無しの自責の沼に囚われていると……。
ポツリ。
頭に水滴を感じた。
ポツリ。
ポツリ。
顔を上げると、空から無数の水滴が降ってくるのがわかった。
「雨……? さっきまで雲ひとつなかったはずなのに……」
だが事実として、空から水滴が降ってくる。
「天気雨? どこかで降ったのが風に乗って流されてきたのか?」
首を傾げているワシの耳に、エルフたちの驚きの声が聞こえてきた。
エルフたち曰く――
この現象を『世界樹の涙』と呼ぶのだとか――
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