⒏ 碧天の空へ
翌朝、琴音は焦げ臭さで目を覚ました。
床で目を開けてもしばらくは自分がどこにいるのかわからなかった。
コケーッ! コワーッ!
いつもの湖畔の鶏小屋だった。板壁の隙間から朝日が差し込んでいる。
昨日は結納の最中に倒れてしまい、気が付いた時には真夜中で、次の間に一人寝かされていた。借りていた振り袖から母の木綿絣に着替えて鶏小屋に帰ってきたのだった。
倒れた後、どうなったのだろう。結納を台無しにしたのだから破談だろうか。そもそもすべてが夢だったのかもしれない。
コケーッ! コケーッ! コワーッ!
「そうだ、鶏たち!」
物思いから覚めると飛び起きて、寝巻きの薄い浴衣姿のまま鶏小屋へと向かった。鶏たちの騒ぎ方が尋常じゃない。戸を開けると煙が充満していた。むせながら鶏小屋の戸の留め具を外した。
「お前たち、逃げて! 早くそこを出るのよ!」
鶏は一斉に飛び出した。焦って転倒する鶏もいる。
浴衣の袖で口元を覆っていても咳き込んでしまう。目に煙が染みて涙が流れる。
「あっ! お母様の着物!」
あの木綿絣だけでも救い出さなくては。
火は勢いを増し、小屋に入ることもできない。琴音は転がっていた桶を手に湖と小屋を何度も行き来した。
けれども努力も虚しく、瞬くうちに小屋は全焼した。
「なんてこと……」
あまりの出来事に、琴音は泣くこともできない。
「鶏たちは助かったし、林に延焼しなかっただけでも良かったのよね……」
既に日は高くなっている。
なにも考えられないまま、体は勝手に慣れた道を歩いていく。風見家の長々と続く生垣伝いに裏へ回り、木戸から中に入った。庭を進み、勝手口に回る。
「きゃあ!」
「どうしたの、それ?」
「いったいなにがあったの?」
普段はきつく当たってくる女中たちが驚きと心配の声をあげる。騒ぎを聞きつけて成島がやってきた。
「騒がしいわよ、あなたたち。今日はこれから――」
琴音を目にした成島は顔を引き攣らせて息を飲んだ。
「あんた、いったいどうしたっていうの?」
薄い浴衣は下着姿同然で、さらに全身煤だらけなのだから驚くのも無理はない。
「奥様! 奥様!」
成島が奥に向かって叫んだ時には既に真紀子が姿を現していた。
「琴音。屋敷からいなくなったと思ったら、そんな姿になって。どういうことなの?」
「わかりません……」
「わからないって、あなた」
「……小屋が……鶏小屋が、燃えてしまいました……母の着物もすべて……」
ぽろりと零れた涙が、黒くなった頬の煤を一筋洗い流した。
誰もが絶句する中、くっくっと喉で笑う声がした。
「あら、ひどい格好。でもお似合いよ。本家のお嬢さん」
そこには、見せつけるように燐寸を持った麗華が立っていた。
「麗華、あなた、まさか……」
真紀子が麗華の肩をゆする。
「琴音は今日、お嫁に行くんでしょう? だから、大切な従姉妹のお姉様のために、お引越しをお手伝いしてあげようと思って」
「そ、そんな……お母様の着物もあったのに……」
「あらあ、捨てるつもりの端切れか雑巾かと思ったわ」
琴音は泣き崩れた。
――パシリ!
音に顔を上げると、麗華が手のひらで左の頬を押さえていた。その正面には、右手を振り切った状態の真紀子。
「……なにするの、お母様」
「やりすぎよ、麗華。あなたの一番良い着物を琴音にあげなさい」
琴音は女中たちの手を借りて、急いで湯浴みをして煤を落とし、牡丹の柄が華やかな着物を身につけた。下ろしたままの赤い髪は赤い帯と合っている。
琴音はいっそすっきりした気分だった。鶏たちも自由にしたし、母の思い出も燃え尽きたし、風見家への義理も失せた。もはや地上になんの未練もない。
「そろそろ天羽様のお迎えの支度を――」
真紀子が成島に命じていると、突如廊下の硝子がガタガタと鳴った。
「急に風が出てきたわね――えっ!」
硝子越しに外を眺めた真紀子が驚きの声をあげた。成島が駆け寄る。
「これはいったい……!」
日が翳る。風に吹かれて大きな雲が流れてきたのだろうか。
琴音も二人の隣に並んで声を上げた。
「すごい数!」
陽射しを遮るほどの鳥の群れがこちらに向かっている。
違う。逆光で影にしか見えないが、近づくにつれ、鳥とは姿が異なることだけはわかった。
真紀子と成島が表玄関に向かう。琴音も後を追った。
玄関から外に出ると、既にほかの屋敷の者たちが集まっていた。みな空を見上げている。
「鳥人だ……」
誰かが呟いた。
鳥人が翼を持つというのは知っていたが、目にしたのは初めてだ。それはおそらく琴音だけではない。鳥人と祖人の交流の場は迎賓館に限られている。その際は浮島から山の頂への高度もそれほどないため、鳥人は滑空するように降りてくる。凧揚げが風を受けて飛ぶのと同じ原理だと陽一郎が教えてくれた。
バサバサと大きな羽音がして次々に男女の鳥人たちが舞い降りる。着地の衝撃を逃すためか、片膝を立てた体勢で、両手の指先は地面に軽く触れている。そしてその姿勢のまま控えている。身の丈よりも大きく立派な翼をたたまれ、翼は背に吸い込まれるようにみるみる縮まって消えた。
玄関先から門の外まで鳥人で埋まった。前の通りには西洋風の駕籠や馬車の車体のようなものも運ばれていた。
「なんなんだ、これは」
怒ったような口調に振り向くと、そこには光正が立っていた。陽一郎や麗華も出てきていたが、すっかり言葉をなくしている。
空が明るくなった。鳥人たちはみな地上に降り立ったようだ。
そして、ひとつの黒い影が飛んでくる。艶やかで大きな翼は漆黒でありながら陽の光を受けて煌めいている。
「奏斗様……」
琴音は両手を胸に夫となる者の名を呼んだ。
溜め息に乗せるほどの小さな声だったのに、まだ屋根より高いところにいる奏斗と目が合った。奏斗はわずかに口角を上げて微笑むと、片膝を立てて降り立った。俯いて顔は見えないが黒髪が風に揺れる様も美しい。漆黒の翼をたたむ様があまりにも優雅で、屋敷の者たちの感嘆の声が重なった。
立て膝のまま顔を上げた。長い前髪の下から澄んだ瞳が真っ直ぐに琴音を見上げる。
「白雲琴音さん。比翼連理の響きを持つ運命の番。お迎えに上がった」
差し出された手に右手を重ねると、親指を添えて軽く握られた。そのまま立ち上がった奏斗は背後に向かって声をかけた。
「鈴子」
「はい」と素早く現れたのは小柄な少女だった。そばかす顔に笑みを浮かべている。
「花嫁様のお召し替えのお手伝いをさせていただきます」
そう言うなり、光正から部屋を借りる許しを得て、鳥人の女性たちに葛籠を運び込ませた。
「あの、わたし、このままでも」
「それは貴女の大切な着物なのか?」
「いえ、これは借り物で」
「ならば、俺が用意したドレスに着替えてくれないか? 貴女を想って選んだんだ」
「ドレス、ですか?」
「婚礼の儀は改めてするが、一応これが嫁入りだからな。その見すぼらしい着物は脱いで、ドレスに着替えてくれないか?」
人垣の中から「見すぼらしいですって? 私の一張羅よ!」と麗華が叫んだが、光正と真紀子によってどこかに連れていかれた。
ドレスは、とても軽かった。軽すぎてなにも身に付けていないようで不安になるくらいだ。ドレスとはみなこんなに軽いのか、鳥人のものだから軽いのか、ドレスというものを初めて着用した琴音にはわからなかった。
「琴音様のお召し替えがお済みになりました」
鈴子の声にみんなの視線が集まる。
ドレスを汚してはいけないと、慎重に進むと、玄関を出た途端、ざわめきに囲まれた。
奏斗がまた手を差し出すので、また手を重ねた。
「よく似合っているよ、琴音さん」
朱から赤への濃淡が美しいドレスだ。こうなると琴音の赤い髪色も誂えたようにも見える。結うなどして髪を隠すことばかり考えてきたから、なんだか恥ずかしい。
奏斗に手を引かれ、馬車のような輿の前に連れられた。
白い車体の眩しさに、琴音はわずかに目を細めた。
車箱は船底のような弧を描いていて、大きな車輪が四つ付いている。車体の側面には金の彫刻が施されており、屋根には赤みを帯びた金色の鳥の飾りを戴く。
「花嫁のための輿だ」
従者によって扉が開かれる。
奏斗が手を貸してくれるが、慣れないドレスの裾を持て余してステップを登れない。焦れば焦るほど裾が絡まり、ついにはふらついてしまった。
「おっと」
すぐさま奏斗が抱きかかえるように支えてくれる。
「申しわけありません……!」
「謝ることではない」
奏斗の優しい声の向こうからは、風見家の者たちのくすくすと嘲るような笑い声が聞こえる。
「こんなこともまともにできないなんて、わたしが花嫁になるなんて不相応なんです」
情けない。舞い上がっていた自分が嫌になる。わたしなんかが幸せを夢見るなんて。
奏斗の手が離れる。
ああ、やはり見限られたんだ……。
落胆と同じくらい得心したとき、ふわりと体が浮いた。
「ひゃあ!」
奏斗によって横抱きにされていた。
女中たちの嘲りの声は羨望の声に変わった。
「あ、あのっ! 奏斗様……?」
「貴女は定められた番だ。不相応なわけあるか」
そのまま輿に乗り込んで、琴音はそっと座席に下ろされた。
それから奏斗は外に身を乗り出して声を張った。通る声が響き渡る。
「風見家の御当主、婚礼の儀の日取りはまた改めて知らせる――よし、行け!」
奏斗が命じると従者が輿の扉を閉めた。
一人二人と歌い出す。歌声は色とりどりの花びらとなって舞う。視界を覆い尽くすほどの花びらの中、先導する一陣の男性が一斉に翼を広げた。横一線に並ぶと、揃って飛び立つ。続いて女性たちも同じように飛び立った。そこにはドレスへの着替えを手伝ってくれれた鈴子の姿もあった。
呆気に取られる人々を残して、鳥人の一団は空高く昇っていく。空からはいつまでも美しい調べが降り注いでいた。




