1. 新しい家
輿はいくつもの浮島を越えていく。
浮島は、深く根を張った植物を土から抜いたような形をしている。浮島ごとに異なる大木が生えていて、その根の部分は土に覆われているのだ。地上から見上げていた時はその程度しかわからなかった。けれども空から眺めると、島々に暮らす人々の姿までよく見える。その様子は祖人たちとの違いはないように思えた。けれども鳥人には翼がある。飛ぶ時だけ生える翼だ。深呼吸すると胸が膨らむように、飛ぼうとすると翼が生えるようだ。
ほかの浮島に行くためには飛ぶ以外の移動手段はないようで、翼を広げた多くの鳥人が浮島を行き来している。ひとつひとつの浮島は地上でいうところの町のようなものなのかもしれない。
緑の土地と石造りや煉瓦造りの家々。鳥人が洋装なのは知っていたが、建物も洋館だとは思わなかった。地上からも四角い建物の上の方が見えていたけれど、こんなに街並みが美しいとは。
「綺麗……」
琴音が呟くと、奏斗も「ああ、綺麗だ」と言った。
見慣れているはずなのに初めて気づいたようないい方が気になって、向かいの座席に腰掛けている奏斗に視線を移すと目が合った。とっさに視線を外したら、また「綺麗だ」と言った。こっそり盗み見ようとしたのに、また目が合った。
もしかして、わたしのことを言っているのかしら? ――まさかね。
思い上がったことを考えてしまい急に恥ずかしくなった。心の中で思っただけだから聞かれたわけではない。なのに、真っ直ぐ見つめてくる黒い瞳に見透かされそうで怖い。身を捩って顔を隠そうとしたら体制を崩した。腰がふわりと浮く。
「きゃあ!」
倒れまいと踏み出したドレスの裾を踏んで、さらに体が傾く。焦ったところに腕が差し出されたので、必死にしがみついた。
気づけば奏斗の左膝に腰掛けていた。
「なかなか大胆だな」
奏斗がおもしろそうに笑う。
「ち、違うんです! すみません! すぐ降ります!」
そうは言ったものの、やはり揺れに翻弄されて結局はまた奏斗の膝に戻ってしまう。初めての空飛ぶ輿と初めてのドレスで、自分の体なのにいつものように動けない。
顔が熱い。きっと赤面しているのが奏斗にもわかってしまうだろう。
「あ、あのっ、」
「いいから。そのままで」
優しく囁かれて、奏斗の腕が腰に回された。
「え、でも」
「静かに」
奏斗は自らの唇に立てた人差し指で、琴音の唇に触れた。
風が冷たい。窓の外を雲が流れる。地上は遥か遠く、すべてが小さく見えた。
一際大きい浮島が見えてきた。ほかの浮島の三倍はありそうだ。
景色に目を奪われていると、奏斗が言った。
「あの島だよ」
「あれが……」
いくつも浮かぶ島の中でも特に高く浮き、特に大きい。
「ようこそ。俺の花嫁」
輿と共に飛んでいた者たちが次々と黙礼しては飛び去っていく。残ったのは輿の四隅を支える馭者と数人の従者だけだった。
浮島の中央の大木を囲むように町が広がっている。外側になるほど家が小さくなり、緑が増える。島の外周は農地と草地、そして林が少し。
輿はやがて中央にほど近い屋敷の敷地内に舞い降りた。石造りの屋敷と広い庭は黒いアイアンフェンスで囲まれている。
奏斗は膝から琴音を下ろすと、先にひらりと輿を降りた。
「おいで」
広げられた両手に手を伸ばそうと身を乗り出すと、両脇に手を差し入れられて抱きかかえるように降ろされた。一瞬の浮遊感に懐かしさが込み上げた。記憶にはないけれど、父か母にこうして抱き上げられたことがあったのかもしれない。
「あ、ありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃない。それよりも、貴女は軽すぎる。こんなに細い手をして。きちんと食べていたのか?」
「あ、いえ、はい」
日に一食はとっていたから「はい」でもあり、一日中働くには足りなくて常に空腹で力も出なかったから「いいえ」でもある。
「どっちなんだ……まあいい。これからはしっかり食べてもらうからな。健やかでいてくれないと困る」
奏斗の手が差し伸べられる。その手に琴音は右手を重ねた。
奏斗の手は皮膚が厚く、自分や母の手とはまったく違う。そのことを意識すると鼓動が早くなった。そして荒れた自分の手が恥ずかしくなる。手荒れの痛みにつらい思いをしたことはあっても、恥ずかしいと感じたのは初めてだった。
白い石材の切石積みの建物に入ると、隼人と千弦が迎えてくれた。
「よく来てくれたね」
太くやわらかく響く低い声に、琴音は慌てて頭を下げた。
「改めまして、白雲琴音と申します。よろしくお願いします」
「そんなに畏まらないで。今日からあなたの家でもあるのですから」
千弦が一歩進み出て腕に触れようとすると、琴音はびくりとして首をすくめた。頭ではわかっているのに、体が勝手に叩かれるかと身構えてしまったのだった。
千弦は隼人と目を合わせ、琴音の置かれていた境遇を思って悲しそうに眉尻を下げた。
「ごめんなさいね。驚かしてしまったかしら」
「申し訳ありません」
「あら。琴音さんが謝ることではないわ」
そう言って、ゆっくりと両手で琴音の手を包み込んだ。今度は琴音も落ち着いて受け入れることができた。
あたたかくしなやかな千弦の手に母の思い出を重ねた。
またわたしにも家族ができるのね。
琴音の頬を涙が伝い落ちた。
奏斗も琴音の肩を抱き、顔を覗き込むようにして語りかける。
「風見の家でどんな境遇だったのか想像はつく。だが、ここではそのようなことは一切ないと保証する」
琴音が頷くのを確かめると、指先で琴音の涙を掬い取るように拭った。
「話は後にして、まずは部屋に案内しよう」
玄関ホールは二階までの吹き抜けだ。正面に階段があり、踊り場で階段は左右に分かれて二階へと続いている。
その踊り場の壁に大きな鳥の絵が掛けられていた。人の背丈よりも大きな絵だ。額装も立派で、黄金色に輝くフレームにはレリーフが彫られている。
琴音は目を奪われた。
その鳥の姿は、全体には鮮やかな赤色が多く、翼には青、黄色や、白、黒も混ざり合っている。朱色に輝く冠羽はたてがみのように豊かで、体長程もある長い尾羽はしなやかに広がり、羽衣を思わせる。五色の鳥の華やかさに圧倒される。
「迦鸞様だ」
隣に立つ奏斗がぽつりと言った。
「え?」
「この鳥は迦鸞様という」
「迦鸞様、ですか」
「神鳥だよ。楽の神だ。鳥人はみな迦鸞様を敬っている。いずれ迦鸞宮にも連れて行ってやろう」
迦鸞宮――迦鸞様を祀っているところだろうか。これから知らなければならないことがたくさんありそうだ。
「お部屋のご用意が整っております」
いつからいたのか、階段の一段下に鈴子が立っていた。風見の屋敷で着替えを手伝ってくれた人だ。
「鈴子、ご苦労だった」
奏斗は鈴子を労うと、琴音に向き直った。
「琴音さん、俺も気にかけておくが、わからないことや困ったことは鈴子に言うといい」
「はい」
奏斗の隣にいるのは安心感があるが、同じくらい胸が早鐘を打ってどうにも落ち着かない。少し接しただけだが鈴子といると寛げると感じていた。
「では、鈴子。琴音さんのこと、よろしく頼む」
「かしこまりました」
奏斗は琴音の右手の甲に軽く啄むような口づけをすると、右の階段を上っていった。
「まあ。奏斗様ったら、すっかり変わられて」
鈴子がくすくす笑う。
「え? いつもあのように……その、気さくな方ではないのですか?」
「とんでもない! これまでは、あまり人と関わるのがお好きではなさそうに見えましたよ。お友達も夕凪様の坊っちゃんくらいしかいらっしゃらないんじゃないでしょうか」
花嫁探しに同行していたススキ色の髪の男性だろうか。音楽サロンでも一緒にいた。
「夕凪様? あ、もしかして、律様とかおっしゃる……」
「そうです、そうです――あら。若奥様をこんなところに立たせたままで」
「わ、若奥様? わたしのことですか?」
「もちろんです。お輿入れされたとお聞きしましたが?」
「あ、えっと、そういうことみたい……ですけど……」
「では若奥様で合っていますね。さあ、お部屋にご案内します。いつまでもこんなところにいるのを奏斗様に見つかったら叱られてしまいます」
叱られるという割には楽しそうに笑っている。
左の階段を上り、二階の廊下の一番奥の部屋に案内されるまでの短い時間で、琴音は既にこの朗らかな侍女に親しみの情を抱いていた。
翌朝、目覚めた瞬間、まだ夢の中なのかと思った。
汚れひとつない白い天井、外の光が漏れない壁、レースのカーテン、幻を掛けているかのように軽い布団。こんな素敵な夢など見たことがない。だからわかった。
「夢じゃなかったんだ……」
呟いた声が掠れている。あーあーと声を出してみれば、喉にかすかな痛みがあった。風邪をひいて喉を痛めたときとはどこか違う。昨日の出来事を振り返って思い当たった。たくさん声を出したからだ。あんなに誰かと話したのは母が亡くなって以来だった。
起き上がって、カーテンを開ける。
「うわ、眩しい」
目を眇めて両開きの窓を開けると、気持ちのいいそよ風がカーテンを膨らませた。
「いま何時なんだろう?」
真昼のように明るいが、地上と空では太陽の高さも違うから時間がわからない。部屋に用意されていた服の中から最も質素な亜麻色のワンピースを選んで着替え、部屋の扉を細く開いた。廊下に人の姿はなく、耳を澄ますと階下でかすかな物音がしていた。
「朝餉の支度をしているのかしら?」
風見家とは随分と勝手が違うが、どこか地上の早朝の空気と似ている気がした。起きているのはまだ一部の使用人だけかもしれない。
琴音は部屋を出て、階段を下りていく。
踊り場の壁に朝日が差し込み、迦鸞の絵を浮かび上がらせていた。なんの画材なのか、砂のように細かい粒が煌めいている。思わず眩しさに目を逸らす。けれども改めて眺めるとそれほど眩しいわけではない。それもそのはず。これはただの絵だ。窓からの陽射しと違って見ようと思えば見れるはずなのに。どうして直視できないほど煌びやかだと感じてしまったのだろう。
『そんなに気になるかい?』
突然の声に振り向くが、人の姿はない。階段の手すりに一羽の小鳥がとまっているだけだ。光の加減なのか、虹色に光り輝いている。
「誰かいるんですか?」
『オレだよ。目の前にいるだろ?』
そう言ったのは明らかに目の前の小鳥だった。




