2. 迦鸞の使い
「はじめまして。これからこちらでお世話になります」
琴音が礼儀正しく挨拶をすると、虹色の鳥は首を後ろに引いて狼狽えた。
『なんだお前、驚かないのか? オレ以外にも話す鳥に会ったことがあるのか?』
「いいえ。浮島では鳥も言葉を話すのかと思ったので」
『おいおい、いくら鳥人の暮らす土地だといっても鳥は鳥だ。オレは特別なんだ。なんたって迦鸞の使いだからな』
琴音は壁の絵を見上げてから、鳥に向き直った。
「神使ということですか?」
『まあな』
鳥は得意げに胸を反って羽毛を膨らませた。
「そのような方がどうしてここに?」
『なんだよ、あいつ、まだ話してないのか』
「あいつ?」
『奏斗だよ。あいつは迦鸞の加護を受けた者だからな。オレがあいつの守護鳥ってわけ』
「加護? 守護鳥? あの、おっしゃっていることがよく……」
『まあいいや。そのうちあいつから説明されるだろ』
そう言って吹き抜けの玄関ホールをぐるりと旋回して、二階の奏斗の部屋がある方へ飛んでいってしまった。
「あっ……」
ひとり取り残された琴音は、喉元に手を当てた。
「喉の痛みがない……」
虹色の小鳥と話している時も声の掠れがなかった。思えば、鳥と話し始めた途端に喉の調子が良くなった気がする。
「神使と言っていたし、あの鳥が治してくれたのかしら? でもどうやって?」
尋ねてみようにも、既に虹色の小鳥の姿はなかった。
「では朝食を運んで。ほら、そこのワゴンに乗せて」
「はい。こちらですね」
琴音は調理場と書かれたプレートのある部屋にいた。
虹色の小鳥が去った後、かすかに聞こえる食器の音を頼りに厨房にたどり着いたのだった。
料理番の男性が一人と配膳の支度をしている女性が二人いた。忙しそうではあるものの、風見家の台所のような殺気立った様子はなく、軽口を叩きながら笑顔で働いている。
和やかな雰囲気に安心して琴音は声をかけた。
「おはようございます。なにかわたしにできることはありますか?」
真っ先にふくよかな女性が振り向いた。
「おや。新入りかい? じゃあさっそく働いてもらおうかね。あたしは節子。あっちの料理番は堂鼓。で、あんたは?」
「琴音です。よろしくお願いします」
「よろしくね。いま忙しいから、挨拶は後にさせてもらうよ。琴音、これ、あんたのね」
節子が戸棚から糊のきいた白いエプロンを取り出して琴音に渡した。
すぐに琴音はワンピースの上からエプロンをつけた。胸あてはフリルで縁取られていて可愛らしく、着ていて気分がいい。
なにより、ここでは口をきいても叱られないので、仕事がしやすい。
ガラガラとワゴンを押して配膳に向かう列の最後尾でついていく。
大きなテーブルにパンやサラダ、フルーツなどを並べる。飲み物の支度をしていると隼人と千弦がやってきて席についた。カップを置くと「ありがとう」と言われた。礼を言われたのは初めてで、琴音は会釈を返すことしかできなかったが、二人ともこちらを見てはいなかった。それだけ使用人に対して礼を述べることが日常的なのだろう。
「おはようございます」
「うん。おはよう」
奏斗がやってきて両親と挨拶を交わす。席につこうとしたその瞬間、琴音と目が合った。椅子に手をかけた中腰のまま奏斗の動きが止まる。
「奏斗? どうした?」
不思議そうに隼人と千弦が奏斗の視線の先に目を向け、琴音に気づいて目を見張った。
奏斗が難題に取り組んでいるかのように眉根を寄せて琴音に問いかけた。
「……貴女はいったいなにをしているんだ?」
「え? あの、朝餉の支度を……」
「違う! いや、違いないが、そういうことではなくてだな!」
奏斗は片手で長い前髪を荒っぽく掻き上げた。
戸惑ったのは節子も同じである。
「坊っちゃん、どういうことですか? 琴音は新入りのメイドではないのですか?」
奏斗様、坊っちゃんって呼ばれているんだ……。
琴音は自分の頬が緩むのを抑えられなかった。
琴音と変わらない歳でありながら落ち着きのある奏斗に気後れしていたが、坊っちゃんと呼ばれていることを知って急に愛らしさを感じた。
「節子、琴音さんはね、奏斗のお嫁さんよ」
千弦の言葉に今度は節子が驚いた。
「まあ! なんてこと! てっきり新しいメイドかと思って……! 失礼しました!」
たちまち琴音のエプロンは節子によって剥ぎ取られた。
『ずいぶんと賑やかな朝だな』
聞き覚えのある声が降ってきた。見上げると、虹色の小鳥が窓枠の上部にとまっていた。
「あ、さっきの鳥さん」
『そうか、奏斗が比翼連理の響きを感じた相手というのはお前だったのか』
「白雲琴音と申します」
『オレは玲瓏』
「玲瓏……さん」
『べつに呼び捨てで構わん』
「では。玲瓏……素敵な名前」
玲瓏はふわりと舞い降りて琴音の肩に乗った。
『おい、なんかおもしろいことになってるぞ』
気づけばみんなの注目を浴びている。琴音は慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません! お話の途中でしたのに」
隼人は引き攣った笑みを浮かべ、千弦は頬に手を当てて困ったように微笑んでいる。奏斗はといえば、ぽかんと口を開けて立ち尽くしていた。出会ってから今までずっと落ち着いていて、ともすれば冷淡にも見えた奏斗だったが、今朝だけでいろんな表情を見せている。
「琴音さん、もしかして、貴女は玲瓏の言葉がわかるのか?」
「ええ。わたしたちと同じ言葉を話していますよね?」
「ああ。だが、俺以外の人には鳥の声にしか聞こえないはずだ。父と母もだ」
「えっ?」
今度は琴音が驚く番だった。
「どうやら互いに話すことがあるようだな。だが、まずは食事だ」
隼人の言葉で、ようやく朝食となる。琴音も奏斗の隣の席についた。誰もが戸惑いを隠せない中で、玲瓏だけが上機嫌に囀り続けていた。
食後、奏斗に誘われて庭に出た。青々とした芝が広がる様は地上と変わらないが、雲が頭すれすれの高さを流れていくのは空の上ならではの光景だ。
「玲瓏から俺のことはどのくらい聞いた?」
「ほとんどなにも。加護がどうとか言っていました」
「そうか……あのガゼボで話そう」
洋風の四阿に向かう奏斗についていく。白い柱に蔦が絡まる様が美しい。
「俺は、生まれた時に迦鸞様が飛来し、加護を与えられた特別な鳥人なんだそうだ。才能のある子が生まれると迦鸞様が祝福し、その才を最大限に発揮できるように加護を与えるという。迦鸞様の加護は、数十年に一度あるかないかの奇跡的なことで、現在生きている者の中では俺だけだ」
「それはすごいことですね」
「すごいかどうかはわからないが、まあ珍しいことではあるな。正直、加護を受けている実感はない」
「そういうものですか」
「そういうものだ。生まれたときのことなど覚えていないから、迦鸞様が飛来したというのだって周りの話を信じるしかないからな」
「玲瓏もそのときに?」
「そうみたいだな。迦鸞様は加護を与えた者のもとに鳥を遣わすという。その鳥人の生涯を通して見守るためだそうだ。神使である玲瓏の言葉がわかるのは加護を受けた者だけというから、あいつと話せる俺はやはり加護を受けているらしい」
それから「神使とは思えない口の悪さだが」と付け足すものだから、琴音は思わず笑ってしまった。たしかに神使らしい神聖さは、玲瓏からは感じられない。
「俺が玲瓏と言葉が通じるのはそういうわけだが、琴音さんはなぜわかるのだ?」
「なぜと言われましても……」
琴音にもわからない。そもそも玲瓏から話しかけてきたのだ。
「……わからないか」
「はい。申し訳ありません」
「なあ、ひとまずそのすぐ謝るのをやめてみないか? 悪いことをしたわけでもないのに謝られると、こちらがいじめている気分になる」
「はい。申し訳……あ」
また謝りそうになると、奏斗は困ったような顔に笑みを浮かべた。
「少しずつで構わないから。無理をさせたいわけではないんだ」
「はい。ありがとうございます」
琴音の返事に頷いた奏斗は、顎に親指をかけてうーんと唸った。
「考えられるとしたら、俺の番だから、玲瓏の言葉がわかるといったところか。比翼連理というくらいだし、番として一対ということか」
「あの……よくおっしゃっている比翼連理の響きというのは……?」
出会った時からずっと気になっていたのだ。
「ああ。鳥人には運命の番に出会うと感じる響きがあるんだ。言葉にするのは難しいな。声を聞けばわかるとしか」
「鳥人はどなたもみな運命の番に出会うのですか?」
「いや、そうでもない。むしろ出会える方が稀だ。少なくとも俺の知っている範囲ではいないな」
それは相手が鳥人でなくてもいいのか、それ以前にそんな主観でしかわからないただの直感のようなものが本当に運命なのか、疑問はある。けれども琴音は尋ねなかった。もしそれで、やっぱり間違いだった、などと言われるのが怖かった。
その理由が、奏斗から離れたくないのか、再びあのつらい日々に帰りたくないだけなのか、自分でもわからなかった。
俯いた琴音の頬を奏斗の大きな手が包み込んだ。途端に頬が熱くなる。この熱が奏斗の手のひらに伝わってしまうのではないかと思うと、さらに顔が熱くなった。
「どうしたの? 元気がないね。なにか怖いの?」
琴音の心を見透かしたように、優しい声色で囁かれて声を失う。
小さく首を横にふると、頬に置かれかた手の指先が耳を伝い、髪に分け入ってきた。耳が焼けそうなほど熱をもつ。これでは見た目でも分かってしまう。そう思えば思うほど鼓動が早まり、赤面してしまう。
耳に温かい息がかかり、背筋がくすぐられるような感覚がした。そして耳たぶが更に熱くなった。とても柔らかいものが触れている。
「ひゃっ」
思わず身を引こうとするが、逞しい両腕の中で震えただけだった。
奏斗の唇の熱で蕩けそうになる。
奏斗がわずかに顔を上げた。安堵と寂しさが湧き上がる。
初めての感情だった。
そして、はっきりわかった。
わたしはこの人のそばを離れたくないのだと。




