3. 花舞う歌姫
「節子さん、ホールのお掃除が終わりました。次はなにを致しましょう?」
庭先を掃いていた節子は眉根を下げ呆れたような笑みを浮かべた。
「若奥様。何度も申し上げていますけどね、あたしら使用人と同じことをする必要はないんですよ?」
「慣れない働き手はご迷惑でしょうか?」
不安そうに尋ねられ、節子は溜息をついた。
「そんなことはありませんよ。若奥様はお掃除も洗い物も丁寧ですから、とても助かっています」
「それなら安心しました」
「安心って……あのですね、若奥様」
「その、若奥様というのは、ちょっと……」
「あら。だって坊っちゃんのお嫁さんだから若奥様でしょう?」
「でもなんだか自分のことではないみたいで。それに奏斗様が坊っちゃんと呼ばれているのに、わたしが若奥様だなんて」
「言われてみればそうですわね。かといって坊っちゃんは若旦那という感じでもないですし」
主人のことを話す使用人とは思えない言い回しに、琴音は思わず笑ってしまう。それをどう思ったのか、節子は弁明を始めた。
「いえね、坊っちゃんがこんな小さな雛だった時からお世話させていただいていますからね。いまさら若旦那様とか呼びにくいというか」
「え? 雛?」
「ええ。あら? ご存知ないですか? 祖人は生まれた時から人の姿だそうですが、鳥人は卵で生まれて、孵化しても数年は鳥姿なんですよ」
「そういえば聞いたことがあります。成長すると人姿になるって。本当なんですね」
「そうです、そうです。三、四歳ころから徐々に人姿をとることが増えてきて、そのうち人姿に落ち着くんですよ。青年期は自分の意思と関係なく鳥姿になることもあるんですが、成人すると自在に姿を変えられるようになるんです」
風見の屋敷に迎えにきた鳥人の群れを思い出していた。大きな羽音。広げた翼。美しく、力強い姿に胸が高鳴った。
音楽サロンのために地上に降りてくることはあったが、人目のないうちに来ていたようで、鳥姿を見たことのある祖人はあまりいない。琴音はいつも雑用を押し付けられ、裏に追いやられていたため、一度もその姿を見たことがない。それどころか楽を催しているところさえ見聞きしたことはなかったのだ。
「ただね、坊っちゃんは六歳になっても人姿にならなくてね。旦那様や奥様もそれはそれは心配されていたんです。ご本人はそんなことどこ吹く風で鳥姿のまま遠くまで遊びに行ってしまうもんですから、あたしたちもしょっちゅう坊っちゃんを探し回っていたものです。そんなですから、いつまで経っても坊っちゃんは坊っちゃんなんですよ」
「意外です」
今の奏斗からは腕白坊主だった面影は感じられない。
「これからは若奥様しか知らない姿もあるかもしれませんよ」
そう言って、節子は悪戯っぽく笑った。
「あの、やっぱり若奥様というのはどうにかなりませんか?」
「気になるようでしたら、琴音様とお呼びしても?」
「はい。その方が落ち着きます」
節子は「承知しました」と頷いた。
本当は様をつけられるのも落ち着かないのだが、節子の立場というものもあるだろう。琴音も奏斗と一緒にいるためには、こういうことにも慣れていかなければならないのかもしれない。
「節子さんも飛んだりするんですか?」
言ってしまった後で、失礼なことを聞いてしまったのかもしれない、と思った。誰かと会話をすることに不慣れだとこういう時に困る。けれどももう猿轡をはめる生活には戻りたくない。挨拶を交わすことすらできないし、誤解があっても弁明できないし、手拭いが擦れていつも唇は荒れて口角は切れていた。
幸い節子は気分を害した様子もなく、とんでもない! とおどけたように目を見開き、眉を上げた。
「あたしはもう何年も翼なんて出していません。出そうとしても出せないんじゃないですかねぇ。ほら、祖人でも走るのが早かったり、泳ぎが上手だったりする人がいるでしょう。あれと同じですよ。誰でも飛べるってもんじゃありません」
琴音の脳裏には、翼を広げた奏斗の姿が映し出されていた。琴音を迎えに来た際の奏斗の鳥姿の美しさにはすっかり見惚れてしまった。
艶やかで大きな翼。陽の光を受けて煌めく漆黒の翼。奏斗の歌のように純度が高く、凛々しかった。人姿であってもその印象は変わらない。
「さあて。あたしはそろそろ堂鼓の手伝いをしなくては」
節子は庭の片隅になる倉庫に掃除用具を片付けて、早足で調理場に向かう。
「わたしにもやらせてください」
わたしにできることはなんでもしよう。あの家から連れ出してくれた奏斗様への恩返しというには到底及ばないけれども。
琴音は慌てて節子を追いかけた。
調理場では節子や鈴子とともに野菜の皮剥きなどの下拵えを少ししただけで、手は足りているからと琴音だけが堂鼓に追い出されてしまった。
なにか至らないところがあったのだろうかと悶々としながら調理場を後にすると、鈴子が追いかけてきた。
「堂鼓のあれは怒っているんじゃないですからね。無愛想でわかりにくいですけど、琴音様に使用人と同じことをさせるのを遠慮しているんですよ」
「そんなこと……」
「あ、でも、手が足りているのは本当です。今までだってこの人数でやってきたのですから」
それだけ言うと、鈴子は忙しそうに調理場へと戻っていった。
みんなの気遣いはありがたいが、女中の仕事ができないとなると、途端に手持ち無沙汰になった。
ひとまず自室に行こうと階段を上っていると、二階から歌声が聞こえてきた。次々と金の糸が伸びやかに広がっていき、順に薄らいで消えていく。
「奏斗様が歌っているのだわ」
琴音は踊り場で足を止めて歌声に聞き入った。
なんだろう、この感じは。一音も聞き逃したくないと思った。
琴音の母も歌が得意だったし、鳥人の歌を聞いたことだって何度もある。みな、素晴らしい歌声だった。けれども奏斗の歌声はそのどれとも違った。声を重ねたくなるような――
琴音が歌を口ずさもうとしたそのとき、花びらが舞った。金の糸を色とりどりの花びらが彩っていく。
あまりの美しい光景に琴音は声を出す前に口を閉じた。こっそりと奏斗の声に寄り添おうとしたことが急に恥ずかしくなった。
花びらは深みのある女声に乗って舞い散る。金の糸と同様に音が形をとった幻のようなものなので、階下に落ち切る前に消えていく。金の糸と花びらはまるで手を取り合って踊っているようだった。
やがて歌が止むと、琴音は深く息を吐いた。知らず知らずのうちに息を詰めて聞き入っていたようだ。
「これが迦鸞様のご加護を受けている声……」
琴音は迦鸞の絵を見上げ、なにか引っ掛かるものを感じた。
どこかで見たことがある――
しかしそんなはずはない。こんなにも神々しくて大きな鳥を目にしたら忘れるはずがない。――大きな?
琴音は内心で首を傾げた。
迦鸞様の大きさを教えてもらっただろうか。この絵を見るまで迦鸞様の存在すら知らなかったのに。
絵の背景は色が塗られているだけで、大きさを比較できるものはなにも描かれていない。琴音が迦鸞の大きさを知る機会はなかった。それなのに琴音の脳裏には鶏小屋ほどもある体長で、さらに同じくらいの長さの尾をもつ巨大な鳥の姿が映し出されている。
迦鸞の絵を見つめたまま動けずにいたが、二階で扉の閉まる音がして我に返った。今の音は奏斗の部屋の辺りだ。
何の気なしに音がした方を見上げると、右の階段から下りてくる人が目に入った。
すらりとした女性だ。豊かな赤銅色の長い髪は艶やかに波打ち、圧倒されるほどの華やかな雰囲気をまとっている。
その女性は琴音に気がつくと、大きな瞳を見開いて「あら」と微笑んだ。
踊り場で立ち止まっていた琴音の前まで来ると笑みを深めた。
「あなたが琴音さん?」
低く落ち着きのある声は色香を纏っている。花びらの声の人だとすぐにわかった。
「はい。あのっ、素敵な歌声でした!」
「聞いていらしたのね。ありがとう。嬉しいわ。あなたも歌がお上手らしいわね」
「いえ、そんなことは」
誰から聞いたのだろう? 琴音の歌声を耳にしたことのある人など皆無に等しい。なにしろ、歌うどころか人前で声を出すことさえ禁じられていたのだ。
戸惑いが顔に出ていたのか、目の前の女性はゆったりと笑った。
「奏斗がそう言っていたわ」
奏斗、と呼び捨てにされたその音に胸が氷の刃を刺されたように痛んだ。痛みが去った後も冷たさが滲みている。なんなの、この気持ち……
初めての感情に戸惑っていると、目の前の女性は「ああ、そうだわ」と思い出したように姿勢を正して琴音に向き直った。
「ご挨拶がまだでしたわね。わたくし、響美歌といいますの――奏斗の許嫁よ」
「え?」
奏斗様の、許嫁……?
「美歌!」
階上からの声に琴音と美歌は揃って顔を上げた。二階の手摺りから身を乗り出した奏斗がいた。奏斗の目は真っ直ぐ美歌を見ている。
「あら。奏斗ったら、どうしたの?」
たたた、と軽い足音を立てて駆け下りてくる奏斗に、美歌が歩み寄る。
「間に合ってよかった。これ、忘れただろ」
そう言って、美歌の手のひらに青い石の連なったネックレスをそっと置いた。
「まあ。いやだわ、わたくしったら」
美歌の細く長い指が自らの豊かな胸元をなぞった。白く滑らかな肌。琴音は思わず自分の荒れた手を体の陰に隠した。
「ねぇ、奏斗。つけてちょうだいよ」
「なんだよ、それくらい自分でやれよ」
「昔はよくやってくれたじゃない」
美歌はしなやかに波打つ豊かな長い髪を両手で掬い上げるように持ち上げた。白い首筋が現れる。
奏斗は面倒くさそうにネックレスを奪い取ると、美歌の背後に回り、慣れた手つきで留め具をつけた。
「ほら、これでいいだろ」
美歌は指先で青い石に触れながら体を捻って奏斗を見上げた。
「ありがとう。奏斗」
二人のやりとりはとても自然で、これまでにも幾度となく繰り返されてきたのが見て取れる。琴音がこの場にいることなど忘れ去られているようだった。
居心地が悪いため立ち去ろうとすると、ようやく奏斗と目が合った。
「琴音さん。この後よかったら一緒にこの辺りを歩いてみないか? 案内するよ」
奏斗の誘いは嬉しいはずなのに、美歌を追ってきたついでみたいに誘われたのが悲しくて悔しかった。拒みたい気持ちとそれでも一緒にいたい気持ちがせめぎ合う。
美歌の言葉が耳の奥に蘇る。
――奏斗の許嫁よ。
そして奏斗の部屋でネックレスを外した理由を考えてしまう。
血の気が引いていく。頭の先から冷えたものが背筋を伝って落ちて全身を凍らせた。そして、すとんと琴音の視界が暗くなった。




