4. 心を乗せて
しゃん――
澄んだ音が重なり合って響く。
しゃんしゃんしゃん――
羽衣をまとった巫女たちの手には鈴環がある。金の輪にぐるりと鈴がついたもので、地上の祝事の際に邪気を祓うために鳴らされるものとよく似ている。その鈴環を手にした娘たちが雛の眠る籠を囲んでしゃんしゃんと楽しげに鳴らしているのだった。祭礼が行われているようだ。
柱や梁、高欄や欄間が、朱、緑青、黄土で色鮮やかに塗られている。
祭礼が行われているのは本殿ではなく、庭に広く張り出した縁だ。能舞台のようでもあるが、屋根はなく、澄み切った青空が広がっている。
雲が流れてきたかのような大きな影が通り過ぎる。しかしそれは雲ではなく巨大な五色の鳥の影だった。全身のほとんどは鮮やかな赤、翼には青、黄色や、白、黒も混ざり合っている。朱色に輝く冠羽はたてがみのように豊かで、体長程もある長い尾羽は羽衣をなびかせるようにしなやかに広がる。迦鸞だ。
旋回する迦鸞が上空を通過するたびに雛が鳴く。迦鸞があまりにも美しく煌びやかなため、怯えているのだ。
やがて迦鸞は飛びながら自らの羽根を一枚抜き、一人の巫女の上に落とした。羽根を授けられた巫女は羽根を両手で掲げ、迦鸞に拝礼した。迦鸞が頷くのを見てとると、雛を籠ごと抱き上げる。
迦鸞は笛の音のような高く美しい声で鳴き、名残惜しそうにもう一度旋回してから空遠く飛び去った。
「気がついた?」
優しく労わる声に導かれて意識が浮上する。恐る恐る目を開けると、あの目が眩むような鮮やかな色はなく、目に映るのは白い天井だった。
琴音の手があたたかく柔らかいものに包まれている。懐かしい感触だった。
「お母様……?」
夢うつつのまま、手を包んでくれている人を見上げると、そこにいたのは母ではなく、千弦だった。慌ててその手を離した。
「失礼しました! 申しわけありません!」
一気に目が覚めた勢いで起きあがろうとすると、そっと肩を押し返され、再び床に沈んだ。
「急に起き上がってはいけないわ。琴音さん、気分はどう?」
「えっと、わたしいったい……?」
「踊り場で倒れていたのよ。奏斗や美歌さんとお話しして気分が悪くなったのですって?」
「あ……」
思い出した。
親しそうな二人。外されたネックレス。許嫁と名乗った美歌。鮮やかに記憶が蘇る。
既に奏斗には許嫁がいるとはどういうことなのか、千弦に尋ねればよいのだろう。けれどもその答えを聞くのが怖かった。琴音を花嫁に迎えるのは、ただあの家から救い出してくれるための方便だったのかもしれないと思い始めていた。
「琴音さん? 大丈夫?」
心配そうに顔を覗き込まれて初めて、琴音は自分が泣いていることに気がついた。
「すみません。泣くつもりはなくて」
千弦は寝台に腰掛けて琴音を抱きしめた。
「奏斗となにかあったの?」
琴音は首を横に振った。
なにもない。そう、なにもないのだ。共に過ごした時間も、思い出も。奏斗様はきっと不憫に思って助けてくれただけ。たまたま見かけたかわいそうな生き物を助けずにいられなかっただけ。わたしだって、子供のころに怪我をした小鳥が空に帰れるまであの小屋で一緒に暮らしていたではないか。きっとそれと同じ。
「……奏斗ね、琴音さんと出会ってやわらかくなったのよ。それまではいつも気を張っている感じだったわ。父親が鳥人たちからも一目置かれるほどの歌い手でしょう? その血を引いているし、迦鸞様の加護を受けてるじゃない? それはもう雛だったころから鳥人たちから期待されていたの。その重圧で人姿になるのが怖くて人より遅れたのかもしれないって思うのよ。父や迦鸞様の名を穢してはいけないって口癖のように言っていたの。それが琴音さんのおかげで少し肩の力が抜けたみたい」
その通りだったらどんなに嬉しいだろう。だけど、琴音は今の奏斗しか知らないのだ。本当に変わったのかどうか確かめられない。琴音を慰めるための言葉なのかもしれない。だって琴音は邪険にされたことはあっても必要とされたことなどないから。こんな琴音を愛してくれた母ももういない。
千弦は、気持ちが沈んで言葉を発しなくなった琴音に向かって、根気強く話しかけてくれる。
「琴音さん。歌は好き?」
「はい」
「私ね、竪琴を弾くの。いいえ、弾いていたの」
「今は弾かないんですか?」
千弦は俯いて首を横に振った。
「楽は心なの。心を――友を失って弾き方がわからなくなったの。かつては癒しの音色だなんて言われていたのよ」
千弦は悲しそうに眉を下げ、口元にだけ笑みを浮かべた。
部屋の扉がノックされ、鈴子が顔を覗かせた。
「奥様。奏斗様がいらしています。琴音様のお加減がよろしければお話ししたいと」
千弦は鈴子に向かってひとつ頷くと、再び琴音に向き直った。
「琴音さんはまだ歌えるでしょう? もし少しでも奏斗を大切に思ってくれているのなら、ちゃんと話してみて。大切な人を、歌を、失う前に」
そう言い残して千弦は部屋を出ていった。
そうだ、今のわたしは話せるんだ。話してもいいんだ。ちゃんと話してみよう。
起き上がり、素早く乱れた襟元と髪を整えていると、鈴子がやってきて手伝ってくれた。
そして奏斗が姿を現した。
「奏斗様、あの――」
歩み寄ろうと踏み出した足が止まる。
奏斗に寄り添う美歌がいた。
話してみようと思った心が萎えていく。婚約破棄を言い渡されるのかもしれない。それでも仕方ないと思った。あの風見の家から連れ出してくれただけで十分ではないか。そう自分に言い聞かせた。
ところが奏斗は頭を下げた。
「不安にさせてすまなかった」
謝罪の言葉と共に花束まで渡される。
「えっと……?」
跪いた奏斗に手を取られる。呆気に取られた琴音はされるがままだ。
「話は美歌から聞いた。美歌が俺の許嫁だと名乗ったらしいな」
琴音は顔を背け、その場を立ち去ろうとしたが、手を強く握られ引き止められた。
「話を聞いてほしい。いま俺が番となりたいのは琴音さんだけだ」
「でも美歌様と添う約束をされていたのでしょう?」
「約束をしたといえばそうなのだが、子供のころの約束だ」
「――え?」
「幼馴染なんだ。俺と美歌と律は同い年でね。ほとんど家族のように育ったんだ。昔から美歌は俺の許嫁を名乗っていた。勝手にな」
勝手に、の部分を強調した。
「ちょっと、まるでわたくしが奏斗に惹かれていたみたいに言わないでよ。奏斗の歌の才に惹かれていたのよ。そのくらい奏斗だってわかっていたでしょ?」
当然のように話す二人に、琴音は思わず聞き返した。
「え? 歌の才? 奏斗様のお人柄にではなく?」
美歌は「当たり前ですわ」と戯けて奏斗に蔑むような目を向けた。
「琴音さんの前でどうなのか知らないけど、奏斗って歌が上手いだけで別に面白くないわよ。無口だし、愛想ないし。人としてなら律の方がよっぽどマシだわ」
「ひどい言われようだな」
奏斗の苦笑も気にもとめず、美歌は言いたい放題である。
「だいたい、初恋の人だかなんだか知らないけど、子供のころに一度会っただけの女の子を想い続けるようなところがあるねちっこいやつなのよ」
「なにもそんな話までしなくていいだろ」
「でもね」美歌の声が落ち着いたトーンに変わった。「許嫁のつもりでいたのは本気よ」
安心しかけていた琴音の心が再び痛んだ。奏斗も意外だったのか、眉を上げた。
二人の視線を受けて、美歌は怯むどころか「当然でしょう」と顎を突き出した。
「こんなに素晴らしい歌の才を途絶えさせるわけにはいかないわ。わたくしは愛だの恋だのには興味がありませんの。歌がすべてよ。鳥人として当然ではなくて? わたくしには迦鸞様の加護はないけれど、鳥人きっての歌姫だと自負しておりますわ」
「ああ。美歌が優れた歌姫であることは俺も認めるよ」
「そうでしょう? やはり奏斗の才に釣り合うのはわたくししかいないのよ。ましてや楽に疎い祖人なんて論外だわ」
「――いい加減にしてくれ」
奏斗が低い声で遮った。
「美歌が『誤解を解きたい、だから琴音と話させてほしい』というから会わせたんだ。そんな話をするなら出ていってくれ」
「あら。誤解を解くための話だったでしょう? ――琴音さんはわかってくださったかしら?」
「おいっ」
琴音は、美歌ににじり寄る奏斗の腕にそっと手を添えた。
「……琴音さん?」
先ほど本当の母のような優しさで伝えられたばかりの言葉が耳の奥で響く。
――琴音さんはまだ歌えるでしょう?
――もし少しでも奏斗を大切に思ってくれているのなら、ちゃんと話してみて。
わたしは歌える。話せる。
「奏斗様。先ほどの言葉はまことでしょうか?」
「どれのことだ?」
「番になりたいのは琴音だけ、という」
「もちろんだ」
「本当にわたしなんかでいいのですか?」
「いいと言っているだろう。それと、頼むからわたしなんかなどと言うな。俺の大切な人を下げるような言い方はやめてくれ。たとえそれが琴音さん本人であってもだ」
「はい。申しわけありません」
「すぐに謝るのもなしだ」
「申しわけ……あっ」
奏斗は優しい溜め息をついた。
「まあいい。少しずつだな」
「はい」
奏斗様が望んでくれるのなら。
琴音は息を吸い込んだ。あの歌を歌う。母から教わったあの歌を。
琴音の声が一筋の白銀の光となって伸びていくと、奏斗と美歌が揃って息を呑んだ。
歌い終わると、いきなり奏斗に抱き締められた。
「やはり間違いない。琴音さんのほかはあり得ない!」
「あの、奏斗様……ちょっと苦し……」
美歌が軽く咳払いをする。
「悪いけど、そういうのは後にしてくれる? わたしより歌の才があるのなら文句はないわ。祖人だというから軽く見ていたの。悪かったわね。許嫁というのは撤回する」
「美歌様……!」
「言っとくけど、奏斗は最初からわたくしのことを許嫁とは認めてないのよ。拒まれていなかったというだけ。奏斗はね、自分にはどこかに運命の番がいるはずだって子供のころから信じてたわ。まさか本当に出会うとはね」
美歌が部屋を出ていくと、再び奏斗に抱き締められた。




