5. 花嫁として
先に輿に乗った奏斗が身を乗り出して手を差し伸べている。琴音が手を重ねると、力強く引き上げてくれた。二人は既に華やかな装いをしている。奏斗はパンツとベストが黒、ジャケットがシルバーのモーニングコート。琴音は純白でプリンセスラインのドレス。たっぷり布地を使ったドレスが嵩張るため、琴音は奏斗の隣ではなく向かいの座席に座った。
「今日の披露宴が済めば名実ともに俺の妻だ」
「はい」
これから迎賓館で天羽家と風見家の人たちの前で花嫁として紹介される。ここ数日はずっとそわそわしている。
奏斗がニヤリと笑う。
「今回は膝の上じゃなくていいのかな?」
地上に迎えに来てくれたときのことを言っているのだ。思い出して耳まで赤くなるのがわかった。
「もう、奏斗様ったら。意地悪を言わないでください」
恥ずかしさに俯く琴音を見て、奏斗は「かわいいなぁ」と呑気なことを言っている。揶揄われているのに心があたたかくなる。
初めてのドレスと空飛ぶ輿の揺れのせいで態勢を崩して奏斗の膝の上に座ってしまったことが遠い日のようだ。
輿は雲を突き抜け、旋回しながら地上を目指して下降していく。
木々や家々があんなに小さい。空はこんなに広いのに、あのころはどこにも行き場がないと思っていたんだ……
琴音は空から眺める景色がもの珍しくて外ばかり眺めていた。が、どうにも視線が気になる。笑顔の奏斗にずっと見つめられている。
「そんなに見ないでください……」
「なぜだ? 美しいものに目を奪われるのは当然だろう」
「美しい? わたしがですか? そのようなこと、言われたことがありません」
「なんだみんな見る目がないな」
「本当にもう、よしてください」
琴音が両手で顔を覆うと、「隠すな」と言って手首を掴まれた。笑い合いながら、見せろ、いやです、とやり合っていたら、虹色の小鳥が割り込んできた。
『なあ、そういうの、オレのいないところでやってくれる? こっちが照れる』
玲瓏だ。
「お前が勝手についてきたんだろう。いつも地上にはついてこないのにどういう風の吹き回しだ?」
『奏斗についてきたわけじゃない。琴音についてきたらお前もいただけだ』
「いるに決まっているだろう。第一、玲瓏は俺を見守るのが役目なんじゃないのか」
二人のやり取りを琴音はくすくす笑いながら眺めた。
『……奏斗、お前、いい番に巡り逢えたな』
「ああ。その点だけは玲瓏と気が合うな」
眼下には丘の上に建つ、海鼠壁に囲まれた和洋折衷の建物が見えている。迎賓館だ。
輿を降りるときになって、急に足がすくんだ。それに気づいた奏斗が手を添えて降ろしてくれながら、耳元で囁いた。
「心配するな。大丈夫だ。これからは俺がついている」
「はい」
琴音は頷いて、自分の足で地上の土を踏んだ。
いつも音楽サロンが催されている洋館部分のホールと談話室、そしてサンルームが、今日は披露宴の会場となる。既に多くの人が集まっているらしく、ざわめきが聞こえてくる。玲瓏は地上が珍しいらしく、興味深そうにどこかへ飛んで行った。
「控室をご用意しております。天羽家の皆様はこちらへどうぞ」
案内してくれたのは女中頭の成島だった。琴音と目が合うと、気まずそうに視線を逸らした。
通されたのは、かつてこの屋敷が本家として機能していたころの住まいの部分だった。来客対応用の洋館部分とは対照的な瓦屋根の和風建築。琴音がこちら側に足を踏み入れるのは初めてだった。
ここが父の暮らしていたところ……。
琴音に父の記憶はない。物心ついたころには母とふたりで風見光正の屋敷で住み込み女中として暮らしていた。母が病で働けなくなり、追い出されるまでのことだ。光正は離れにでも住んで養生すればいいと言ってくれたのだが、奥方の真紀子がよしとしなかった。暮らしは更に苦しいものになったけれど、気が休まらない屋敷よりも母娘だけで過ごせる鶏小屋の方が琴音にとっては住み心地がよかった。母も同じだったようで、身体は弱っていくのに笑顔が増えていった。
「花婿様はこちらに。花嫁様は奥のお部屋にご案内します」
開け放された障子の向こうには律が立っていて、にこやかに片手を上げた。
「琴音さんには美歌が付き添うことになっているからね」
奏斗が労わるような視線を寄越したので、琴音は安心させるように深く頷いて奥の部屋へ向かった。
「花嫁様はこちらのお部屋でお時間までお待ちください」
「ありがとうございます」
礼を言われるとは思わなかったのか、成島はハッとしたように一瞬だけ琴音の顔を見たが、すぐに立ち去った。
部屋にはまだ美歌の姿はなかった。椅子なども用意されておらず、ドレス姿で床に座っていいものかわからなかったのでそのまま立っていることにした。
長い廊下、広い座敷、洗練された調度品の数々。病床の母もこんな家で療養できたら、もっと生きられたのかもしれない。もしかしたら回復してまた健やかに暮らせたのかもしれない。
母は倒れてからも医者に診てもらうことはなかった。診てもらうためのお金もなかったし、なにより母には心当たりがあるようだった。
「病ではないのよ。棲むべきところではないからこの身がもたなかっただけ」
その言葉を当時の琴音は風見家の待遇のことを言っているのだと思っていたが、今ではなにかほかに含むところがあるような気もしている。けれどももうそれを確かめることもできない。
ある朝、母は冷たくなっていた。どこからともなく実態のない影が飛んできて母の亡骸を連れ去ってしまった。鳥のような影だった。祖人は亡骸を土に還すと聞いていたが、母は歌が優れていたために鳥の精が迎えにきたのかもしれない。
「遅くなってごめんなさい!」
慌ただしく入ってきた巨大な花束がしゃべったと思いギョッとしたが、花束は床に置かれ、息を切らした美歌の姿が現れた。
「どうしたんですか、こんなに大きな花束」
「琴音さんに使ってもらおうと思って、うちの花園から届けてもらったのよ」
「使うってなにに?」
「わたくしに任せてくださらない? わたくし、事業をしていますの。これはそこの花よ。わたくしの歌を聞かせると花がよく育つのよ」
話しながらも美歌は色とりどりの様々な種類の花を手際よく選び取っていく。
「髪飾りは赤い花がいいわね。その髪色によく似合うわ。これはブーケよ。お持ちになってね」
琴音はなされるがまま、ただその場に立っていた。
「あなた、風見の本家の一人娘だそうね」
「ええ」
「それなのに風見姓ではないのね」
無遠慮に聞いてくるが嫌な気はしなかった。風見の家では重要なことみたいに蔑まれていたが、美歌は取るに足らないことのように手を動かしながら話すからかもしれない。
「はい。白雲は母の姓です。正式な婚姻ではなかったようです」
「おかしいわね。だって、あなたのお父様は独身でいらしたのでしょう? 本妻がいるならともかく、そうでないのなら問題ないじゃない」
「母の素性が卑しいからと聞いています。母本人に確かめたことはないので本当のところは分かりません」
「聞いたことないの? 一度も?」
「はい。聞かれたくなさそうだったので。それに、母は最期まで父を想っていました。うわ言で何度も父の名を呼んでいましたから」
「そう……。琴音さんのご両親も運命の番だったのかもしれないわね。祖人だから番とは言わないのかもしれないけど」
そうなのかもしれない。母が亡くなったのは琴音が十歳のときだ。それまでずっと側にいない人を想い続けられるのだから、それだけ強く結ばれていたのだろう。
「はい。できましたわよ」
美歌は室内を見渡した。
「なによ、このお部屋、鏡も椅子もないじゃないの。でもとても綺麗にできたから安心して」
「ありがとうございます。美歌様」
「そんなかしこまった呼び方はよしてちょうだい。美歌でいいわよ」
「では、美歌……さん」
「呼び捨てでいいって言ったのに。まあいいわ、今のところはそれでも。それよりあなたもしかして奏斗のことも奏斗様とか呼んでないわよね?」
「呼んでますけど?」
「それではほかの祖人たちと同じじゃない。いい? 悪いことは言わないわ。奏斗って呼んでみなさいな」
「そんな。失礼では」
「番なのになにが失礼よ。よそよそしい方がよっぽど失礼よ。せめて『様』はやめてごらんなさい」
「緊張してきました……」
琴音が呼吸を整えているのを見て、美歌が笑った。
「――入っていいか?」
急に聞こえた奏斗の声に緊張が高まった琴音はヒッと声をあげ、美歌はさらに笑いながら障子に映る影に「どうぞ」と応えた。
奏斗が部屋に足を踏み入れる。美歌が琴音の背を押した。琴音は上目遣いに奏斗の反応を気にしていたが、奏斗は無言で立ち尽くしている。
奏斗の背後に立つ律が軽く口笛を吹き、美歌が睨む。律は戯けたように「はいはい、すみませーん」と呟いた。
律の声で我に返ったのか、奏斗がハッとした顔をした。
「あの、わたし、なにか変でしょうか?」
不安になって問いかけると、奏斗は子供のようにぶんぶんと首を横に振った。
「美しい……」
褒められるのはいつものことだけど、思わず口をついてしまったかのような言い方に胸の奥がくすぐったくなる。
「当たり前でしょう。わたくしが装いを凝らしたのだから」
得意げな美歌の声も奏斗の耳には届いていないらしく、とろけるような視線で琴音を見つめたまま口を開く。
「美しすぎる……誰にも見せたくない……」
これには美歌と律も苦笑する。
「いくらなんでも披露宴で花嫁を披露しないわけにはいかないだろ」
「こんなに美しい花嫁を見て惚れないやつがいるか? 少しでも近づこうとするやつがいたらただじゃおかない」
「物騒なことを言うな。自分の花嫁が魅力的に見られるならいいことじゃないか」
「お前もか? 律だとしても俺の花嫁に惚れたら許さない」
奏斗は律の呆れた物言いに真剣に反論している。
「琴音さんが美しいのは認めるが、惚れたりはしないよ。落ち着けよ」
戸惑う律とは対照的に、美歌は舞い上がる奏斗を面白がっていて、こっそり琴音を突いたりしている。奏斗の名前を呼べというのだ。
「あの……」
呼びかけただけで奏斗の漆黒の瞳が胸を射る。胸の奥底が鋭く痛む。だけどそれは次第に熱を持ち、じわりと溶けて身体中に広がっていく。
好き。この人のことがどうしようもなく好き。強くそう思った。
「奏斗……さん」
奏斗の頬が紅潮したのを見て、琴音も顔が熱くなる。
「琴音……!」
琴音を抱き締めた奏斗に「花を潰さないでよね」と美歌が笑いながら嗜めた。




