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碧天の花嫁  作者: 霜月透子
第二楽章 空に浮かぶ島
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6. 初めての恋

 ホールには音楽サロンとは比べものにならないほどに人が溢れている。初めのうちこそ順に余興が行われていたが、歌に合わせて演奏する者が出てきて、その人数が膨れ上がり、合奏合唱に合わせて踊り出す者があり、中には翼を現して宙を舞う者もある。


「奏斗様。これはこれはどうも」


 風見光正、真紀子、麗華の親子が強引に人を掻き分けてやってきた。琴音が思わず身をすくめると、奏斗が背に庇ってくれた。琴音は後ろに回した奏斗の左手に縋りついた。


「おや。お父上の隼人様はご一緒ではないのですかな?」

「どこかその辺にいるでしょう。父のご機嫌をとるつもりならそれには及びませんよ。俺が結婚したら家督を譲られることになっているので、今後、取引相手となるのはこの俺です」

「そうでしたか。ところでうちの琴音がご迷惑をかけていないでしょうか」

「どういう意味です」

「意味だなんて。そのままですよ。本当になにひとつ良いところがないもので。とても嫁に出せるようなやつじゃなくて」

「琴音は働き者ですよ。迷惑どころか使用人と一緒になっていろいろとやってくれています」

「おお。それなら家のことを仕込んだ甲斐があるというものです」

「花嫁修行だったとでも言いたいのか? ただ下女として扱っていただけだろう?」

「そんな人聞の悪いこと。我が娘の麗華と同じように育てました。それなのにこんなにも違ってしまって。琴音が不要となりましたら、すぐにでも麗華と交代させますので」

「ひどい言い草だな」


 奏斗の声に怒りが滲んだのも、拳が握られたのも琴音だけが気がついた。

 光正に失言の自覚はないようで、「そうですかな?」と呑気に答えている。

 奏斗の頬がヒクヒクしている。


「ほお? 麗華さんとやらは、それほどまで素晴らしいお嬢さんでしたか。では一曲披露していただけますか? まだきちんと聞いたことがなかったので」

「ほら、麗華、良い機会じゃないの」


 真紀子に背を押されて麗華が前に出てきたが、一節歌っただけで奏斗が手を振ってやめさせた。


「聞くに耐えないな。よくこの俺に聞かせられたものだ。度胸は褒めてやる」


 麗華は眉根が寄るほど力を入れて奏斗を睨みつけた。

 見兼ねた琴音が小さな声で「奏斗さん、あんまりです」と庇うと、麗華は慰められるどころか激怒した。


「じゃあ、あなたが歌ってみなさいよ!」

「え。ちょっとそれは……」


 こんなに多くの人の前で歌うなど考えただけで手が震えてしまう。

 すると、透き通った、それでいて芯のある声が伸びやかに聞こえてきた。奏斗が歌っている。

 それほど大きな声でもないのに、ホールのざわめきが止んで、みな耳を澄ましている。


 一本の輝く糸が滑らかに伸びていく。

 奏斗が琴音の目を見て頷いた。ついてこいということなのだろう。奏斗と一緒ならこんなに華やかな場でも歌えるような気がしてきた。

 輝く糸は琴音の目の前の空間を縫っていく。朝陽に煌めく蜘蛛の糸のように繊細で美しい音。やがて金の糸は本数を増やす。

 琴音も歌い出す。金の糸に寄り添う銀の糸。二色の糸が交差していく。そして、踊るように輝く布を織り上げていく。

 織られた帯状の光が、ホールの高い天井まで上り、しなやかに揺れて波となったり、輪となって回ったりする。

 客から感嘆の声が漏れる。

 見つめ合い、リズムを取り合い、次第に光の帯は細くなっていき、最後には小さく弾けて消えた。

 歌い終わると、拍手が起こった。互いの声も埋もれてしまうほどの握手喝采だ。


 奏斗は琴音の耳元で声を張り上げてた。


「やはり俺の歌姫だ」


 琴音も大きな声で答える。


「奏斗さんが導いてくださったからです」


 そんなふたりを目の当たりにした麗華は何事かを吐き捨てて立ち去ったが、その声は聞き取れなかった。光正と真紀子が慌てて麗華を追いかける。


 その場に残されたふたりのもとに次々と祖人や鳥人がやってきた。奏斗と琴音の歌を褒め、結婚の祝いの言葉をかけていく。ありがたいことではあるが、せっかくの料理どころか飲み物すら口にする暇がない。


「疲れてないか? 控室で休むか?」


 挨拶の人が途切れた隙に、奏斗が声をかけてくれたが、琴音は首を振った。


「平気です。わたしはお話を聞いているだけですから。奏斗さんこそお疲れなのでは? わたしの分までお客様のお相手をしていただいてしまって……大丈夫ですか?」

「俺はこのくらいどうってことない。ただ、大丈夫かと問われれば、あまり大丈夫ではないかな」

「やはりお疲れですよね。せめてお飲み物でもお持ちしますね」


 その場を離れようとした琴音の腰に手が回され、引き止められた。


「あっ」


 よろめいて小さく声を上げた琴音の体が強く引き寄せられる。布地越しだというのに、奏斗と触れているところだけ温かい。


「あ、あの、」


 身を捩って離れようとするが、奏斗の腕の力には敵わない。力の差を思い知らされて、そんなことにも胸が高鳴ってしまう。


「欲しいのは飲み物ではない。琴音との時間だ。少し補わせてくれ」


 そう言って抱き締めようとするので、琴音は焦って両手で押し返した。


「ちょ、ちょっとお待ちください! こんな大勢の人がいるところでなんて!」


 すると奏斗はしめたとばかりに片方の口角を上げた。


「そうか。人のいないところならいいんだな」

「ちが……」


 焦る琴音の耳元に口を寄せてくる。熱い息がかかった。


「抜け出すぞ」


 低くやわらかい声が耳の奥を震わせ、身体の内からくすぐられているような痺れが走る。力が抜ける。

 琴音がそんな心持ちでいることなど知る由もない奏斗は、シルバーのジャケットを脱ぐと琴音の肩にかけて花嫁衣装を隠した。ふわりと奏斗の匂いに包まれた。


 人混みを縫うように素早く抜けていく。幸い、みんな盛り上がっていて花嫁と花婿が通り過ぎていったことに気づきもしない。

 律と美歌の横を通り過ぎる時だけ気づかれたが、奏斗が唇の前に人差し指を立てると、二人とも頷いて、いってらっしゃいというように小さく手を振った。そして二人が去った方に背を向けて立ち、ホールからの目隠しになってくれた。


 ホールを出て、ひと気のない廊下を手を繋いで走った。突き当たりの扉を開けると、強い日差しが差し込んできて、眩しさに目を細めた。


「こっち」


 奏斗に手を引かれて庭に出て、建物の角を曲がる。ホールからは完全に死角となる位置だ。ふたりは手を繋いだままゆっくりと歩き、麓を見渡せる場所で足をとめた。山の頂で地境もないため、庭の縁には腰の高さほどの落下防止の柵があるだけだ。


 草木の香りを運ぶ風が気持ちいい。木々の葉擦れの音、小鳥の囀り。

 目を閉じて深く息を吸っていると、背後から抱き締められた。琴音の胸の上で奏斗の腕が交差している。鼓動が伝わってしまうのではないかと気になって、奏斗の左手にそっと両手を重ねた。その両手の上に奏斗の右手が重ねられる。

 右のこめかみのあたりに頬を寄せられているのを感じる。右頬に息がかかる。背中いっぱいに奏斗を感じる。


 平静を装って「……あたたかい」と呟くと、耳元で「そうだね」と甘い声がする。


 ほかの女の人ならばこのくらいのことは平然と受け止めるのだろうか。そうではないだろう。琴音より二つ下の麗華が殿方と親しく過ごしているのを幾度となく見かけているが、楽しそうだったり嬉しそうだったりはするものの、戸惑ったりひどく恥じらったりするのはみたことがない。


 琴音はもう二十二だ。けして早い嫁入りとは言えない。それなのに僅かな触れ合いでも鼓動が激しくなる。誰ともお付き合いをしたことがないどころか、殿方を好いたことがないからかもしれない。

 それに引きかえ、奏斗は余裕があるように見える。琴音が戸惑うのを楽しんでいるようにさえ感じられる。そのこと自体は嫌ではないし、むしろ恥ずかしさの中に嬉しさも混じっていたりするのだが、ふとした瞬間に思ってしまうのだ。奏斗はほかの方ともこのように接したことがあるのだろうと。

 当然だ。類まれな楽の才を持つ奏斗とお近づきになりたがる女の人は数え切れないほどいるはずだ。奏斗は琴音と一つしか変わらない二十三歳だ。琴音が初めての人というわけはないだろう。


「どうした?」

「いえ……本当にわたしなんかでよかったのでしょうか。もっとほかの方が運命の番ならよかったのではないでしょうか」

「勝手に不安になるな」

「でも……」

「比翼連理の響きは祖人には感じられないのか?」

「そういうのはない……と思います」

「思います?」

「……お慕いする人がいたことがないので……この気持ちが普通の恋なのか比翼連理の響きによるものなのか分からなくて……」


 奏斗がふっと笑った。


「よかった」

「よかったとは?」

「俺に恋していることには違いないのだな」


 また顔が熱くなったが、きちんと応えなければならないと思った。

 琴音は奏斗の腕の中でくるりと体の向きを変えた。目の前には奏斗の胸がある。ほとんど真上を向くように顔を上げた。見下ろす奏斗と見つめ合う。


「はい。とてもお慕いしています」


 奏斗の目が愛おしむように細められた。


「貴女に出会うための今までだったと思っている。これまで誰とも交際しなかったとは言わない。だが、彼女たちには申し訳ないが、琴音と出会ってしまったら、もうあれを恋とは呼べない」

「奏斗さ……」


 その名を呼び終える前に唇を塞がれた。世界のすべてが奏斗で満たされる。望んだつもりなどなかったのに、ずっとこうしたかったような気がした。

 再び見つめ合うと、奏斗が心配そうに尋ねた。


「いやだった?」


 首を振る。


「ではなぜ泣いているの?」


「……幸せで」


 奏斗は安堵の笑みを浮かべ、零れる涙を吸い取るように頬に口づけをした。







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