7. 溟渤の静寂
「ああ、いたいた」
急に聞こえた陽気な声に、奏斗がようやく離れた。
律が白い板壁の角を曲がったところだった。
「奏斗、みんな、お前の姿が見えないって探し始めてるぞ」
「あ、ああ。そろそろ戻るよ」
琴音も頷いて歩き出した奏斗の半歩後ろをついていく。
先頭を歩いている律が「なんだか僕っていつも奏斗を呼ぶ係にされてるよな」と不満そうに言うのがおかしかった。
ホールでは余興が一通り終わったらしく、立食形式の料理や飲み物を手にしたり、歓談を楽しんだりする輪があちらこちらにできていた。祖人も鳥人も見た目だけでは区別がつかない。
遠くで誰かと話していた隼人がこちらに気づいてやってきた。
「奏斗。ちょっといいか。あちらの方が今度音楽の催しを行うのだがな、お前に依頼したいことがあるそうだ――琴音さん、悪いね。仕事の話があるんだが、ちょっと奏斗を借りてもいいかな?」
「はい。もちろんです。いってらっしゃいませ」
「琴音、すまない。すぐに戻る」
琴音は壁際に立ち、奏斗が人に囲まれて次々と握手しているのを眺めていると、隣で声がした。
「楽の名家ともなるとお忙しいんだな」
「陽一郎さん!」
風見光正の嫡男、陽一郎だった。母亡き後、琴音が唯一肩の力を抜いて接することができた人だ。
「おめでとう、琴音」
「ありがとうございます」
「どうだい? 天羽家ではよくしてもらっているかい?」
「はい。とっても」
微笑んで答えたのに、陽一郎は悲しそうに眉尻を下げた。
「陽一郎さん?」
「あ、うん……情けなくてね。結婚を申し込んでおきながら実現できなくて。……いや、そうじゃないな。幼いころから、琴音を守りたいと思っていたのに、一度も守ってやれなかった。両親どころか妹にも逆らえないなんて呆れていただろう? 不甲斐ない従兄弟で申し訳なかった」
「いいえ。陽一郎さんだけはわたしを嫌わないでくれましたよね。そのことは救いでした」
「……優しいな。琴音は」
陽一郎から求婚されたとき、素直に嬉しかった。きっとどうにかして琴音に平穏な日々をくれようとしているのがわかったから。
互いに恋ではなかったと思う。琴音は陽一郎を兄のように思っていたし、陽一郎の方も琴音を妹のように思っていただろう。嵐に立ち向かう勇気もなく、過ぎ去るのをただ待つだけだったところも似ていた。二人になったところで立ち向かえるはずもないが、肩を寄せ合ってともにやり過ごすことができたら心強かっただろう。
あの家にひとり残される物静かな従兄弟のことが気がかりだった。
「陽一郎さんは大丈夫ですか?」
「まあなんとかなるだろう」
そう言って弱々しく微笑んだ顔が急に強張った。陽一郎の視線の先には麗華がいた。金駒刺繍をあしらった華やかな振袖姿だ。両手にワイングラスを持っている。
「ご機嫌よう。この度はおめでとうございます。琴音さん」
いつもの呼び捨てではない呼び方に戸惑う。
すかさず陽一郎が琴音を背に庇った。
「あら。お兄様ったら、外つ国のおとぎ話の王子様か騎士にでもなったつもり? さしずめ琴音さんはお姫様ってところかしら? 花婿様に叱られますわよ」
交戦的な物言いはいつものことだが、今日は鋭さがない。口調が穏やかだからそう感じるのだろうか。
陽一郎も不審に思うらしく、琴音の前に立ちはだかったまま動かない。
「麗華、どういうつもりだ。もう琴音は風見家の者ではないんだぞ。なにかしてみろ、うちの事業に影響するぞ」
「相手が鳥人で楽の名家の天羽家だから? もちろん天羽家になんてなにもしませんわ。こんなか弱い乙女になにができると言いますの? お父様とお母様がいらっしゃらないと強気なんですね。妹だからって舐められたこと。それとも琴音さんの前だから粋がっているのかしら?」
「……お前、なにかおかしいぞ。なにを企んでいる?」
「なにも。もしかしてこのワインを琴音さんのドレスに掛けるとでも? そんなことしませんわ。これまでのお詫びを申し上げにきましたの。仲直りのしるしにと思いまして」
「琴音、許すことはない。天羽家の者である琴音の方が立場は上なんだから」
「いいんです。麗華さんを信じます」
遺恨を残さずに新しく生き直すことができるなら、願ってもないことだ。今後は麗華と接する機会もほとんどないだろう。この機会に過去にけじめをつけたい。
「さすが天羽家の若奥様。心が広くていらっしゃる」
麗華がワイングラスをひとつ差し出した。琴音は両手で受け取った。
「これまでいろいろと悪かったわ。これでおしまいにしましょう」
琴音が頷くと、麗華は完璧な笑顔で自分のグラスの縁を琴音のグラスに軽く当てた。
――チンッ、と澄んだ音がする。
麗華は笑みを崩さずワインを飲み干した。
琴音もグラスに口をつける。芳しさと腐臭の間のような微かな刺激臭が鼻腔を突く。
ワインを飲むのは初めてだった。ワインどころかお酒自体口にしたことがない。
ほんの露ほど舌に乗せると、甘味が広がった。グラスから口を離すと、麗華が首を傾げた。もっと飲まないの? と問われているようだった。せっかく麗華が歩み寄ってくれたのだから、機嫌を損ねたくはない。
ホールがざわめいた。みんなが天井を見上げてなにかを目で追っているものを陽一郎も見つけたみたいだ。
「なんだ? 虹色の小鳥がいるぞ」
――玲瓏ね。
琴音はその姿を見ずともわかった。どこかに行ったままだったけど戻ってきたらしい。玲瓏が気ままなのは常なので特に気にも留めない。
『琴音! だめだ!』
グラスを傾けた瞬間、名を呼ばれたが、ワインは既に口に流れ込んでくる。
『奏斗、あいつを止めろ!』
玲瓏が叫び、視界の隅に奏斗が走ってくるのが見えた。
「琴音! そいつから離れろ!」
奏斗の声を聞いたときにはもう琴音はワインを飲み干していた。
元々グラスの底に少し溜まっているくらいの少量だったから初めてのお酒でも問題ないと思った。けれども一気に飲んだせいか、喉が焼けるように熱くなった。空いている方の手で喉を抑えて上体を折った。
陽一郎が心配して体を支えてくれる。
「琴音、大丈夫? お酒に慣れていないのに飲み干すなんて」
「だ、だい……じょ……」
それ以上は喉の痛みが強くて声にならない。
「琴音?」
だめだ。痛い。痛すぎる。火を飲み込んだみたいだ。
――パリーン。
琴音の手からグラスが落ちて砕け散った。
「どけっ!」
奏斗が陽一郎を押し退け、背後から抱くようにして琴音を支えた。力が抜けていく琴音を支えたまま、立膝の姿勢になり、琴音は奏斗の膝に背を預けるようにして床に座り込んでしまった。
「琴音! どうした? なにがあった?」
「奏……ガラ……ス……ひ、ざ……」
「俺の怪我などどうでもいい。それより琴音になにがあった?」
奏斗に睨まれた陽一郎はおどおどと答えた。
「なにって、ワインを飲んだだけだ。麗華が仲直りだと言って」
麗華はとぼけた表情で小首を傾げ、自分の空のグラスを掲げて見せた。
一瞥した奏斗は特に麗華に対してなにも言わず、心配そうに取り囲んでいる人垣に向かって叫んだ。
「輿を飛ばす用意を! 急いで浮島に帰る!」
鳥人たちが慌ただしくホールを出ていった。
玲瓏が頭上をくるくると飛び回る。
『奏斗、琴音のグラスとこの女のグラス、違う匂いがする』
「よこせ」
琴音を抱えたまま奏斗が手を伸ばすと、麗華は素直に自分のグラスを差し出した。奏斗がグラスを鼻に近づける。
「……ワインか」
そしてそのグラスを床に置くと、割れたガラスの破片を摘み上げて匂いを確かめて眉根を寄せた。
「こっちはワインになにか混じっているな」
そう呟いてガラス破片を舐め、すぐに唾を吐き出した。
『おいおい、無茶するな』
「潮と汚泥のような臭いがする」
『やっぱりか。山の上なのに潮の香りがして妙だと思ったんだ』
「今までそれを調べていたのか」
『まあな』
「それで? なにがわかった?」
『潮の匂いはその女からする』
聞くが早いか、奏斗は麗華の袂を掴んで乱暴に引き寄せた。それから袂に手を入れた。
「ちょっと! 失礼じゃないの! 鳥人は女性に対してそんなはしたないことをなさるの?」
奏斗の手には小瓶が握られている。握り拳に収まるほど小さな小瓶。中身は空だったが、蓋を開けると強い潮の香りがした。
「……〈溟渤の静寂〉か!」
人垣がざわめく。
――〈溟渤の静寂〉だって?
――実在したのか!
動揺しているのは鳥人だけだった。
「いったいなんなんです? 〈溟渤の静寂〉って」
陽一郎が不安げに尋ねる。
「毒薬だ。――声を失う毒薬だ」
「なぜそんなものが……」
「それはお前の妹に聞け。〈溟渤の静寂〉は西方の海に棲まう魚人しか調合できないという。どうせ怪しげな商人から仕入れたんだろう」
「麗華、お前、なんてことを……」
「いい気味だわ。ちょっと声が綺麗だからって男を誑かして。奏斗様もお兄様もこんな女に騙されるなんてたいしたことわね」
奏斗が勢いよく立ち上がり、麗華は叩かれるとでも思ったのか身をすくめた。だが、奏斗の腕の中には琴音が抱かれている。美歌が駆け寄って、琴音のドレスの乱れを整える。
「琴音さん、しっかりしてね」
「輿の用意はできたか!」
「はい! すぐに飛び立てます!」
律が先導して道を開けるが、その先に風見光正が立ち塞がった。
「奏斗様。娘の麗華が大変ご迷惑をおかけしました。きつく言い聞かせますので、今後も風見主催の音楽サロンは――」
「そんなことはどうでもいい! 好きにしろ! とりあえず、そこをどけ! ――琴音、必ず助ける……!」
奏斗はぐったりしている琴音を抱いて、足早にホールを後にした。




