⒎ 形だけの結納
「琴音! 琴音はどこ?」
早朝の屋敷に真紀子の声が響く。
慌ただしく廊下を行き交う女中たちを押し退けて、女中頭の成島が摺り足でやってきた。黒留袖姿の真紀子の前で軽く膝を折り、腰を屈めた。
「奥様。どうされました?」
「成島。琴音の姿が見えないようだけど?」
「あれは鶏の卵を取りに……」
「そんなこと下男にやらせなさい!」
「かしこまりました。あ、ちょうど戻ってきたようです」
廊下の先に、琴音のみすぼらしい着物姿が見えた。卵の入った竹籠を大切そうに抱えてお勝手に向かっている。
「琴音! ちょっとこちらへいらっしゃい」
真紀子の手招きに気づいた琴音は小走りにやってきた。
「成島。この卵はお前が持ってお行き」
「はい」
成島が去った後には怯えた様子の琴音が残された。
「琴音、あなた、今日がなんの日かわかっているでしょうね」
琴音は無言で頷いた。猿轡をしていて声は出せない。
「まあ。いつまでこんなものを付けているの」
真紀子は自らの手で琴音の猿轡にしている手拭いの結び目を解き、通りかかった女中に「捨てておきなさい」と渡した。
それから琴音の全身をまじまじと見ながら眉根を寄せた。視線を何度も上下させる。
「まあまあ、みすぼらしい。この恰好で結納をしようというんじゃないでしょうね」
戸惑っている琴音に、真紀子は口をきくよう命じた。琴音は恐る恐る口を開く。
「これが一番綺麗な着物なので……」
琴音は自分で新しい着物を仕立てたことがない。この木綿絣は母が遺した着物の中で唯一継ぎの目立たないものだ。
「なんてこと。みっともないったらありゃしない。こっちへいらっしゃい」
真紀子は琴音を連れて麗華の部屋に入った。部屋の主がいないことなど気にも止めずに、真紀子は和箪笥を漁り始めた。次々と床に投げ捨てた。
「ああ、これこれ。あなたの赤い髪に似合いそうじゃないの」
牡丹柄の振り袖と赤い帯を手にしている。
そこへ部屋の主が戻ってきた。
「お母様! これはいったいなんですの?」
「琴音の結納のお着物をね……」
「琴音のですって? だめよ、これは。これも、これも……ぜんぶだめ。この女に貸す着物なんて一着もないわ。第一、なんなの? どうしてこんな女が奏斗様と……」
「麗華、その辺にしておきなさい」
部屋の前の廊下に紋付羽織袴姿の光正が立っていた。
「お父様まで! 二人ともこの前までは私を奏斗様に薦めてくださっていたではありませんか! どうして琴音なんかに!」
「それが先方のご希望だからだ。これで天羽家に恩を売ることができる。そうなれば、今後の風見家はより一層、祖人に対して、鳥人との窓口として大きな存在感を示すことができる。麗華が浮島などという恐ろしいところへ嫁に行く必要はない」
「いやよ、いやよ! 振り袖も奏斗様も私のものよ!」
麗華が光正の腕に縋り付くも、すぐに振り払われた。
「いい加減にしなさい!」
親に叱責されたことなどほとんどなかった麗華は両手で顔を覆って嗚咽を漏らした。真紀子が肩を抱き寄せて、優しく背中を撫でた。
「麗華。聞き分けてくれ。これは風見家繁栄のためだ。琴音の母親は卑しい身ではあるが、父親は光房の子。仮にも本家のひとり娘だ。ここで鳥人に恩を売っておくのも悪くない。あの楽の名家である天羽家と縁戚関係を結べるのなら利はある。体のいい厄介払いじゃないか」
真紀子も頷いて麗華の顔を覗き込む。
「そうよ。鳥人への嫁入りは華やかに見えるけれども、浮島へ行った祖人は命を縮めるともいうわ。祖人は地に生きる種族よ。空では長く生きられないのよ。母は麗華をそんな恐ろしいところへ行かせたくないわ――成島!」
廊下に向かって呼びかけると、すぐに女中頭がやってきた。
「お呼びでしょうか、奥様」
「どこかほかのお部屋で麗華を休ませてやってちょうだい」
「かしこまりました。――お嬢様、参りましょう」
麗華はおとなしく成島に連れられていった。
「ではあとは頼む」
光正も去った後には、琴音と真紀子だけが残された。
真紀子は言葉もなく琴音の着付けを手伝った。
真紀子の着付けは荒く、必要以上に帯を締め付けられて琴音は呻き声を漏らすほどだったが、真紀子は手を緩めることなく、更に締め上げるのだった。
これまでにないほどに整えられた客間は柱や床の間まで磨き上げられて艶がある。心なしか空気も澄んでいる。庭からはいつになく賑やかな鳥の囀りが聞こえていた。
風見家からは琴音と叔父夫婦である光正、真紀子。
天羽家からは奏斗とその両親の隼人と千弦。
和装で揃えた風見家に対し、天羽家はみな洋装だった。着慣れた様子が窺える。
隼人が落ち着きのある深い声で口上を述べる。
「白雲琴音様と息子の奏斗との縁談をご承諾くださいまして感謝申し上げます。これより結納の儀をとり行わせていただきます」
天羽隼人は鳥人の中でも特に楽の才に秀でていて、琴音でもその名を知っていた。定期的に行われる音楽サロンでもいつも人に囲まれていたので、その姿も見知っている。そんな方と同じ部屋にいることが信じられない思いだった。
一方、千弦のことはその存在すら気に留めたことがなかった。およそ縁のない貴人たちのこと、ましてや家族構成についてなど考えを巡らせる機会もない。ただ、千弦にはどこか母の面影が感じられ、ためらいがちにちらちらと目をやってしまう。
視線を感じた千弦と目が合う。不躾な視線に不快感を表わされるかと怯えたが、一瞬、あら、と口の形が動いただけで、優しく微笑みを返された。
初めての改まった場で、琴音は緊張で息が止まりそうだった。こんなに綺麗な身なりをしたこともないし、こんな立派な部屋に掃除以外で入ったこともない。しかも目の前には奏斗がいて、常に琴音を見つめている。自分の結納だというのに、頭がぼんやりとしてなにが行われているのかまったく理解できなかった。
「こちらは天羽家からの結納品でございます。幾久しくお納めください」
「ありがとうございます。ご結納の品、幾久しくお受けいたします」
結納品の授受が交わされる中で、ただ光正や真紀子に合わせてお辞儀をするのが精一杯だった。
耳の奥が熱く膨らむように感じられたかと思うと視界がゆらゆら揺れる。
「本日は誠にありがとうございました。おかげさまで無事に結納をお納めする事ができました。今後とも幾久しく宜しく――」
隼人による結びの口上が歪んで聞こえ、体が傾いていく。姿勢を保とうとするが上下も左右もわからない。定まらない視界は帷が落ちるように闇に包まれていく。
「琴音さん!」
奏斗の声を聞くと同時に、琴音は意識を失った。
身動きの取れない暗闇の中、琴音は遠くに奏斗の声を聞いた。
「帯は締め上げ過ぎだし、髪もきつく結い上げ過ぎじゃないのか? これでは息ができなくて当然だろう」
それに答える声はくぐもっていて聞き取れない。
隼人の声も聞こえてくる。
「もっと早くお聞きすべきだったのですが、失礼ながら、琴音さんの白雲というのは?」
今度は相手の返事が聞こえた。光正の声だ。普段聞き慣れない柔らかい物言いだ。
「お恥ずかしいことながら、あれは兄である光房の内縁の妻との子でして。いや、しかしですね、本家の一人娘には違いありませんので、どうか今後とも我が風見家と末永く――」
「白雲……」
澄んだ高い声が呟いた。千弦だ。
「なにか気になることでも?」
「あ、いえ。なんでも……知人と同じ名でしたので。でも特に珍しい名前ではありませんものね」
不意に手を握られた。大きくあたたかな手だ。滑らかな肌で触れられているのは心地よかったが、自分の手があかぎれやささくれで荒れているのが恥ずかしかった。けれども手を動かすことも声を発することもできず、琴音は再び闇へと落ちていった。
琴音は幼いうちから、母の琴瀬とともに風見光正の屋敷で働いていた。そのころから風当たりは強かった。当時は幼いこともあって手際も悪く、叱られるのは仕方のないことだったと思っていた。
ところが、琴音が成長するにしたがって、理不尽に叱られることが増えてきた。両親のどちらとも似ていない赤い髪のせいで、光房の子ではないのではないかとも言われた。
曲がりなりにも琴音を風見家に置いているのは、外聞を気にしてのことで、あくまでも本家の代行を請け負っているのだという体面を保つためだ。内輪に対してはそれを隠そうともしない。
しかも女たちが、琴音が屋敷の男たちに色目を使っているなどと言い出した。
「ちょっと見た目がいいからって調子に乗ってるんじゃないの」
「わたしはなにも……」
「ほら、また媚びるような甘い声を出しちゃって。そうやって男に媚を売ってるのね。けど、残念でした。私たちにそんなことしても無駄よ」
使用人だけでなく、女主人の真紀子やその娘の麗華も一緒になって琴音を責め立てた。もちろん言い掛かりだ。まだ年端も行かぬ娘がそのようなことをするはずもない。
そんな中、陽一郎は琴音を庇ってくれた。
「母さんも麗華もやめなよ。琴音の姿や声が美しいのは作ったものじゃないことぐらいわかるだろう?」
「あら。お兄様もこの女の手管に引っかかっていらっしゃるのね」
「琴音は心も美しい子だ。この前は迷い猫に自分の飯を分け与えていたぞ。幼いころなどは傷ついた小鳥の世話もしていたのはお前も知っているだろう」
「それがこの女のずる賢いところなのよ。そんなことも見抜けないなんて、殿方ってだめですわね」
「そんな言い方はないだろう」
「お兄様。よくって? この女の肩を持つということは、屋敷の女たちの言葉を疑うということですわよ?」
「それは……」
次第に陽一郎も人目のあるところでは視線を逸らして声をかけてこなくなった。
それでも母だけは守ってくれた。
「すみません。琴音にはちゃんと言い聞かせますから」
しかし、理不尽な言い掛かりにも言い返すことはなく、琴音を背に庇いながらひたすら頭を下げるのだった。
幼い琴音から見ても母に落ち度があるとは思えなかった。それでも母は謝ってばかりだった。
そして、姿の見えない罪を引き連れるようにしてこの世を去った。琴音が十になったばかりのことだった。
どのような扱いをされても、琴音が風見家を出ていく道はない。だから二十二になった今も風見家の使用人として働いている。
天涯孤独となった若い娘が行くところなどどこにもないのだから。
あの人と出会うまでは。
「貴女をいつまでもこんなところに置いておけない。明日、迎えに来る」
大きな手が琴音の頬を包む。心まで包まれた気がした。




