6. 運命の番
「おい、奏斗。風見邸に通い詰めてもう十日だぞ」
客間に通してくれた女中が去ると、律は畳の上で胡座をかき、呆れたように奏斗に声をかけた。奏斗は上座に敷かれた座布団に背筋を伸ばして座し、膝に置かれた両手を節が白く浮き出るほどに強く握っている。
「ついてきてくれとは頼んでない」
「そりゃそうだけどさ。僕が見つけてきた手前、見届ける義務があるような気がしてさ。日参するとは随分とご執心じゃないか」
「そんなんじゃない」
「まあたしかに祖人とは思えないほどの達者な歌ではあったな」
「歌の良し悪しの問題じゃないんだ。喉が渇き切った時に差し出された水のように、あると知った瞬間からなくてはならないものになるんだ。抗えないものなんだ」
「ふうん。それが運命の番だけが感じる比翼連理の響きってやつなんだね。ほら、やっぱりご執心じゃないか。先方は本人も両親も乗り気なんだ、さっさと婚儀を執り行えよ」
「何度言えばわかるんだ。だからそんなんじゃない」
「照れるなよ」
「あのなぁ……」
ぱたぱたと軽い足音がして、麗華が現れた。
「奏斗様! 今日もおいでくださったのね!」
飛びつかんばかりの勢いで目の前に膝をついた麗華を見て、奏斗は顔を顰めて肩を引いた。
「あら。ごめんなさい。私ったらはしたないですわね。まだ花嫁ではないのに」
そう言いながらも科をつくるため、奏斗は立ち上がって庭に面した廊下に出た。それから振り向きもせずに問う。
「改めて聞くが、先日歌ったのはたしかに貴女なのか?」
「もちろんですわ。ここでお聞きになられたでしょう?」
麗華は上目遣いに奏斗を見つめるが、奏斗はちらりと視線を寄越しただけで再び庭に向き直った。
「もう一度歌ってくれたら信じよう」
「ひどいわ、奏斗様。毎日そればっかり。私を疑うのですか? 十日前の歌には比翼連理の響きを感じられなかったとでも?」
「いや、あれはたしかに比翼連理の響きだった。迎賓館で初めて耳にした時と同じ歌声だった」
「でしたら――」
「だから確かめたいんだ。あれだけ魅力的な歌声なのだから、話し声にもその片鱗を感じられるはずなのに、貴女からは微塵も感じられない」
「それは……」
「話はいい。歌ってくれ。今ここで」
麗華は奏斗から逃れるように視線を外すと、律にすがった。
「ねえ、律様ぁ。律様も疑っていらっしゃるの?」
突然話を振られた律は曖昧な笑みを浮かべた。
「いやあ、比翼連理の響きは運命の番にしかわからないからね。僕にはなんとも」
それでも潤んだ瞳で見つめてくる麗華に困った律はなんとか話を逸らそうと視線を彷徨わせる。
「ああ、そういえば、この部屋って次の間があるんだね。襖を開け放しているからか、初めに来た時より広く感じるね」
「お部屋のことなんてどうでもよろしくてよ」
「いや、よくない」
鋭く遮ったのは奏斗だった。
「奏斗?」
律は不思議そうに首を傾げた。
「わかったよ、律。この女は自分の代わりに歌わせてたんだ」
「え? あの歌声は麗華嬢ではなかったってこと?」
「そうだ。やっぱり給仕室にいた女中が運命の番なんだ。あの女中はどこにいる?」
麗華は頬を引き攣らせながらも否定した。
「違うわ。歌ったのは私よ。あの女中は……そう、あの女は口がきけないの。だから歌えるはずはないわ。奏斗様の探しているお相手ではないわ」
「自分で確かめる。居場所を教えろ」
麗華が黙り込んでいると、廊下から男の声がした。
「――教えて差し上げなよ」
「お兄様!」
陽一郎は奏斗と律には目礼しただけで、すぐに麗華に向き合った。
「麗華、もうやめろ。いつまでも突き通せる嘘じゃない」
「どうして会わせるの? お兄様は平気なの? 知っているわよ、お兄様はあの女が好きなのでしょう? 私はあの女が義姉になるなんて嫌だけど、奏斗様とあの女が一緒になるのを止められるのなら、お兄様との仲を取り持つのもやぶさかではないわ」
律が呆れたように溜息をついた。
「おやおや。問うに落ちず語るに落ちるってやつだな」
「どうして……奏斗様の目につかないために屋敷に近づけないでいたのに……」
どうしてと繰り返しながら、麗華は力尽きたように畳に座り込んだ。
「奏斗様」
陽一郎が進み出る。
「琴音は――あなたの探している女性は、湖畔の鶏小屋にいます」
「感謝する」
言うが早いか奏斗は屋敷を飛び出した。
母の琴瀬が歌うのはいつも恋の歌だった。
恋を知らない幼子の琴音まで切なくなるような歌声だった。
「お母様はそんなにお歌が上手なのだからみんなの前で歌えばいいのに」
「いいのよ、私は」
母はけして人前では歌わなかった。琴音だけが母の歌声を知っていた。
そして、きっと、かつては父も聞いていたのだろう。顔も知らない父だけど、母が今でも大切に想っているのは知っている。ここにはいない夫を想って歌う琴瀬の声は恋を知らない琴音でも胸が苦しくなった。
「だって、みんなお母様より下手よ。それなのにたくさん褒められているじゃない。お母様は鳥人たちみたいに上手に歌うわ」
「やめなさい!」
音楽の才に秀でた鳥人にたとえる最大の賛辞だったのに、強く叱られてわたしは泣き出した。母はいつも穏やかで怒鳴られたことなどなかったから。怒鳴るのはいつもお屋敷の人たちだけだった。何がいけなかったのかもわからないまま謝る癖がついていた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
お屋敷の人に叱られた時のようにひたすらに謝っていると、母はハッと我に返って琴音を強く抱きしめた。
「いいえ。私の方こそごめんなさい。琴音はちっとも悪くないわ。けど、覚えておいて。琴音も誰かに歌を聞かせないで」
「どうして? わたしはお母様のように上手じゃないから?」
「いいえ。逆よ。上手だからよ。琴音は私よりもずっと上手に歌うわ」
「それなのにどうして歌ってはいけないの?」
「あなたにはまだわからないでしょうね。人には醜い心を持つ者がいるのよ。自分よりも秀でた才を認めたがらない者がね」
あのころにはわからなかった母の言葉も、今ならわかる。だからわたしは口をつぐむ。
ひとりきりの時だけ、亡き母が歌っていた恋の歌を歌う。けれども、母のように心が震える歌にはならない。あれは父を想って歌っていたから。
わたしにも母が父を想うように焦がれる人がいれば。
鶏小屋の掃除を終えて、戸を閉めた。湖に向かって林の中を進むと、鶏の声が遠のき、小鳥たちの囀りが大きくなった。
目の前の湖面は陽の光を受けて煌めいている。
従姉妹の麗華のもとには奏斗が通い詰めていると聞く。琴音は鶏の世話に専念するよう命じられて屋敷には近づけないため、あの日以来、奏斗の姿は目にしていない。風見家の汚点である琴音を隠しておきたいのだろう。
これまでなら、屋敷に出向かずに済むのはありがたかった。人といるより鶏たちと過ごす方がずっとよかった。けれども今は。
どんな辛い目にあったとしても、一目でいいから姿を見たいと思う。声を聞きたいと願う。
「奏斗様――」
その名を口にすると胸の奥が絞られるように痛んだ。けれども不思議と心地いい。
声を、姿を、思い浮かべる。心の中に収まりきれない想いが溢れ出す。溢れた想いは歌になる。
湖畔には屋敷の者は誰も来ない。猿轡をする必要もないし、声を控える必要もない。歌も好きなだけ歌える。
琴音が歌うと小鳥たちが集まってくる。肩にとまったり、頭にとまったり、周りを飛び回ったりする。そして一緒に歌う。いつものことだ。
小鳥たちが琴音をつつく。
「やめてちょうだい。くすぐったいわ」
笑いながら逃げる琴音を追う小鳥たちも心なしか楽しそうだ。じゃれあいながら琴音は歌う。
烏羽玉の夜 赤ら引く朝
朝露は夜が零した涙の名残り
つづしり歌えば科戸の風
歌いすませば天伝う陽
涙乾かすは君の羽風
巡り逢いて
巡り逢いて
比翼の鳥
遥か碧天より来たり
「やっと会えた」
人の声がして、小鳥たちは一斉に飛び去った。
そこにいたのは奏斗だった。
「やはり声を持っているではないか」
「え?」
「いや、こちらの話だ」
琴音は混乱していた。あまりにも思い描いてばかりいたから幻を見ているのかとさえ思った。
だって、奏斗は麗華との縁談が進んでいるのではなかったのか。こんなところにいるはずがない。
「どうして――」
そう言いかけて、慌てて両手で口を押さえた。
なぜか奏斗の方が痛みに耐えるかのような顔をした。
「案ずるな。俺の前では声を隠さなくていい。いや、もっと聞かせてほしい」
そう語る奏斗の声こそが耳に心地いい。ずっと聞いていたい響きだ。奏斗の声に比べたら、この世のすべての音は取るに足らないとさえ思える。
「奏斗様――」
奏斗はなにかに耐えるように目を閉じ、口を引き結んで空を仰いだ。それからゆっくりと右手を伸ばした。
「探したよ」
差し出された手を取ると、強く引き寄せられた。
気づけば彼の腕の中だった。包まれた背が温かい。
静かな息遣いが降りてきて、耳元に熱い息がかかる。
くすぐったくて笑いながら身を捩る。
「だめ。逃がさないよ。やっと捕まえたのだから」
逃げるわけがない。やっと辿り着いたのだから。やっと出会えたのだから。
そう答えたいのに、胸がいっぱいで声にならない。
頬に、首筋に、小さな温もりが落ちる。触れられたところから悦びが広がっていく。
苦しいほどに抱き締められながら、甘い調べにとろけそうになる。
「もう貴女の声しか聞こえなくても構わない」
「わたしもです」
どうして今まで離れたままで生きてこられたのか不思議だった。もしくは、今この時のための今までだったのかもしれないとさえ思った。
「名を教えてくれ」
「琴音です。白雲琴音」
「琴音――いい響きだ」
「奏斗様」
奏斗はふっと笑った。そのやわらかい声のまま、琴音の耳元で囁く。
歌え、俺の歌姫。
羽ばたけ、俺の小鳥。
どこまでも遠く。どこまでも高く。
碧天の空へ――




