5. 名も知らぬ花嫁
何日も前に音楽サロンは終わったというのに、風見の屋敷はみな浮かれていて落ち着かない。窓を拭きながらガラスに姿を映して後毛を整えたり、いつもより濃い紅をひいていたり、声を抑えめにしてはいるが発声練習をしている者もいる始末。
漏れ聞こえた女中たちの噂話によると、どこかの殿方が嫁探しをしているらしい。よほど素敵な方らしく、女たちはみな、その殿方の目に止まろうと必死なのだ。
琴音は一人で庭を掃いていた。いつもならば掃いたそばから集めた落ち葉をわざと散らされたりするところだが、みなそれどころではないため、庭掃除は滞りなく進んでいる。
「いらしたわ!」
誰かの弾んだ声がして、女中たちは沸き立った。
わたしには縁のないこと。
琴音が掃除を続けていると、どこからか呼ぶ声がした。
「琴音! 琴音! 聞こえているなら早く出てきなさいよ!」
声は徐々に近づいてくる。麗華の声だ。
麗華に呼ばれるとは珍しい。日頃から声を発するなと命じられているため迷ったが、近づいていたはずの声が遠のいていくので思い切って猿轡を外した。
「琴音はこちらにおります」
庭から廊下に上がり、声を張ると、麗華が早足でやってきた。
「わたくしが呼んでいるのだから、そちらから来なさいよ」
「申し訳ありません」
意外にも猿轡を外して話していることについては叱られなかった。
「まあいいわ。急いでいるのよ。あなた、ちょっといらっしゃいな」
言われるままついていくと、客間を通り抜け、次の間へと入った。
「あなたはここに控えていて。それで私が襖の縁を軽く叩くから」
そう言いながら、爪でコツコツと軽い音を立ててみせた。
「そうしたら歌って」
「歌……ですか?」
「いやとは言わせないわ」
「でもわたしは歌うどころか声を出すのもいけないと言われています。今このようにお話ししていることだって」
「今はいいのよ。私がいいと言っているのだから。あなたは私の代わりに歌うのよ」
「代わり?」
「きっと私は歌を聞かせなければならないわ」
「どなたに?」
「そんなことあなたに関係ないわ。とにかく。こちらの客間にお通しするから、さっき教えた合図をしたら歌ってちょうだい。私はそれに合わせて歌っている振りをするわ。うまくいけば、私が歌っているように見えるはずよ」
「どうしてそのようなことを?」
思わず尋ねてしまったけれど、きっとまた関係ないと無下にされる。そう思ったが、麗華は頬を上気させて嬉しそうに答えた。
「決まっているじゃない。見初められるためよ。歌声を頼りに花嫁を探しているんですって。あちこちのお宅を訪ねて探しているそうよ。これからうちにもいらっしゃることになっているの」
ぱたぱたと軽い足音がして女中がやってきた。
「お嬢様。お客様がお見えになりました。旦那様と奥様は既に玄関でお出迎えになっていらっしゃいます」
「すぐ行くわ」
部屋を出ていきかけた麗華が立ち止まって振り向く。
「ぐずぐずしていないで早く隠れなさいよ。いいこと、合図したら歌うのよ。失敗したらただじゃおかないから」
琴音は麗華に命じられた通り、次の間に入った。襖を閉め切ると屋敷の人たちの気配も感じられないほどの静けさに包まれた。思ったより襖は音を遮るらしい。
あまりの静けさに、麗華の合図が聞こえないのではないかと不安になる。覗き見は気が進まないけれど、客間の様子がわかるように襖を細く開けておくことにした。
「いったいどなたがいらっしゃるのかしら」
麗華は見初められるためと言っていたから、これから縁談があるということなのだろう。
縁談とはもっと改まった支度をするものだと思っていたけれど、こんなに急に訪ねてこられるものなのかしら。
それに歌声で花嫁を選ぶだなんて聞いたことがない。琴音が知らないだけでよくあることなのだろうか。
そんなことを薄暗い次の間でつらつら考えていると、当主の光正の声がした。
「さあさ、こちらの部屋へ。突然のことでなにもおもてなしもできず申し訳ないですなあ」
「娘もね、普段はもう少しきちんとした格好をしているんですよ」
真紀子はそう言って俯き加減に微笑む麗華の肩に手を添えた。
「いやいや、お気になさらず。前もってお約束もせずに伺ったこちらが悪いのです」
若い男性の声がした。人当たりのいい柔らかい口調には聞き覚えがあった。
琴音はそっと襖の隙間から覗いた。
緩やかに波打つススキの穂のような優しい色合いの髪が見えた。あの日、給仕室に奏斗様を呼びに来た鳥人だ。たしか、律と呼ばれていた。
律様との縁談なのかしら。
祖人にとって鳥人は憧れの存在ではあるけれど、縁談はあまりない。楽を愛する鳥人は、花嫁にも楽の才がある人を選ぶためだ。祖人ではそれほどの人物はまずいない。
けれども風見家の娘ともなれば別なのかもしれない。風見家といえば祖人と鳥人の唯一の窓口となる一族だ。鳥人から一目置かれていても不思議ではない。
もしかして、律様はあの日給仕室で麗華を見かけて見初めたのかしら。
なんて素敵なの!
恋を知らない琴音だが、亡き母の琴瀬が語っていた夫光房との思い出はどれもあたたかいときめきに満ちていた。
いつか大切な人と結ばれる――そんな日は訪れないと思いながらも憧れずにはいられない。あそこにいるのがわたしだったら。そんな思いで襖の隙間から麗華を見つめる。
琴音は漏れそうになる溜め息をどうにか押し留めた。
「挨拶はよい。俺の運命の番を探させてもらっても?」
はっ。
不意に聞こえた愛想のかけらもない声に、琴音は思わず息を呑んだ。
姿を見ずともわかった。
この声は、奏斗様……!
息を吸い込んだのは微かな音だったはずなのに、鳥人は耳がいいのか、奏斗の視線が襖に向けられ、琴音は慌てて襖の隙間から離れて息を止めた。
「隣の部屋にどなたか?」
みしっ、と小さく床が鳴り、奏斗がこちらに向かってくるのがわかった。
どうしよう……障子を開けて廊下に出ることも考えたが、それこそ障子が敷居を滑る音で人がいるとわかってしまう。それに、この場を離れては代わりに歌えという麗華の命令を守ることができなくなる。
琴音が部屋の隅で息を詰めていると、
「別に誰もいませんわ。野良猫でも入り込んだのでしょう」
襖の隙間が暗くなった。
恐る恐る近づくと、麗華の背中が見えた。襖の前に立ち塞がっているらしい。
「ところで、奏斗様はあの日耳にされた歌声を探していらっしゃるとか」
真紀子が尋ねた。
「そうだ。律にも手伝ってもらって、あの日の音楽サロンに来ていた祖人の娘たちを訪ねて回っているのだが、まだ見つからない」
「そこで僕が君を突き止めたってわけさ。給仕室にいたのは君だよね?」
「ええ、そうよ」
律の問いかけに、麗華は得意げに答えた。
琴音は胸を押さえて蹲った。胸の奥が、氷の刃を突きつけられたように冷たく痛んだ。麗華の縁談の相手は律ではなくて奏斗なのだ。麗華が殿方に、それも鳥人の殿方に見初められたのだと知った瞬間は、素敵なことだと思ったのに。相手が奏斗だとなぜこうも苦しいのだろう。
次の間で打ちひしがれている琴音のことなど麗華は知る由もない。
「嬉しいですわ。奏斗様はわたくしのことが忘れられなくて、こうして探しに……」
「あの娘の居場所を教えてほしい」
奏斗は麗華の言葉を遮った。
「……な、なにをおっしゃってますの」
言葉に詰まった麗華に代わって、光正が口を挟む。
「それはおかしいですなぁ。その場にいたのは麗華だと聞いていますが? 一人娘ではあるが、うちとしては嫁に出して構わない」
「まあ、いやだわ、お父様。そんな気が早いことおっしゃって」
言葉とは裏腹に麗華は、ほほほ、と弾んだ声で笑った。
「いや、貴女にはあの人のことを尋ねたくて来たんだ。あの時歌っていた人は貴女の知り合いなんだろう?」
わたしのことだ。奏斗様がわたしを探している……?
麗華も奏斗の尋ね人が誰だかわかったはずだ。それなのに「誰かいたかしら」などととぼけている。
今すぐ襖を開いて飛び出していきたい。わたしです、と名乗りたい。
けれども、麗華が襖の前に立ち塞がっているので、客間に出るに出れない。しかも光正と真紀子も「うちの娘はこの子だけです」などと言っている。
確かに琴音はこの家の子ではない。光正の兄である光房と素性の定かではない琴瀬との子だ。
「いや、もう一人いたはずだ。俺が間違えるはずがない」
光正がうむ、と唸った。
「まあいたとすれば女中の誰かでしょう。そのような卑しい者が天羽の若君のお眼鏡に叶うとは到底思えません。どうでしょう、麗華の歌をお聞きになってみては」
「いいや。違う。それはわかっている。歌っていたのはその女中だ。麗華さんと言ったか、貴女なら覚えているだろう。あの時いた女中を連れて来てくれないか」
「ええ、よくってよ」
麗華はあっさり承知した。焦ったのは光正と真紀子だ。
「麗華、なにを言っているんだ。将来有望な鳥人が女中と一緒になるはずなどないだろう」
「そうよ、麗華。お会いするだけ無駄よ」
すかさず奏斗が詰め寄った。
「お二人もその女中が誰だか知っているのですね? すぐ連れて来てください!」
「おい、奏斗、興奮しすぎだって」
掴み掛からんばかりに身を乗り出した奏斗の腕を律が掴む。
麗華だけが冷静で、こう言った。
「でも、本当にあの女中が歌ってたとお思いですの?」
「どういうことだ」
「だって、歌っているところをご覧になりました?」
「見てはいないが、あの場にいたのは一人だけだった。だからあの歌声は彼女に決まっている」
「本当にそうかしら?」
「どういうことだ」
「歌ったのは、私です」
「そんなはずは」
「信じられないなら、まずは私の歌を聞いてくださらない? 歌をお聞きになればわかるんですよね?」
わずかな沈黙の後、奏斗は頷いた。
「いいだろう。俺が違うと言ったら、あの女中を呼んでくれるのだな?」
「お約束しますわ」
「では聞かせてもらおうか」
「あら。そんなに見つめられたら恥ずかしいですわ。私が歌っている間は目を閉じていていただけません?」
「……わかった。目は閉じているから、早く歌え」
襖の縁がコツコツと軽い音を立てた。
琴音はあの日のように歌い出した。麗華として。




