4. 憧れと諦め
「ああ、いたいた」
急に聞こえた陽気な声に、琴音は夢から覚めたような気分で足を止めた。
給仕室の入口に立つ奏斗の背後に一人の男性が立っていた。全身の色合いが淡く、今にもふわりと舞い上がりそうな柔らかな空気を纏っている。ススキの穂のような優しい色の長めの髪は緩やかに波打ち、薄鼠色のスーツがよく似合う。
「奏斗、風見家のご当主がお前に挨拶したいってさ」
肩に手をかけられた奏斗は、やっと琴音から視線を逸らして背後を振り向いた。
「あ、ああ。律か」
奏斗は応えたものの、歌っていた時のような精悍な表情はなく、心ここに在らずといった感じのとろけた目をしている。
「なにぼんやりしてるんだよ? 酒でも飲み過ぎた?」
「そんなんじゃない」
「わかってるさ。本気で言ってるわけないだろ。でもまるで酔っているか寝ぼけているみたいだよ。奏斗のそんな顔見たことないよ」
「律、ちょっと待ってくれ。それどころじゃないんだ」
「どういう意味だよ? なあ、大丈夫? こんなところでなにしてんの?」
「比翼連理の……」
うわ言のような小さな呟きは律の耳には届かなかった。
「あ、そうか。歌ったから飲み物が欲しくなったんだろ? それならこんなところに来なくてもホールにいっぱいあるじゃん」
律はホールの方を顎で示したが、奏斗は琴音のことしか見ていなかった。
「……貴女なのだろう? 先ほどの歌声は」
思わず琴音は後ずさった。
日頃は歌うどころか声を発することも禁じられている身だ。琴音は自分が歌っていたことを正直に認めていいものかどうか迷った。
あのとき琴音は扉に背を向けていたから、歌っている姿は見られていないはずだ。
「教えてくれ。なあ、貴女が俺の――」
琴音が歌ったことを叱るつもりはなさそうで、ひとまず安心した。気持ちに余裕が生まれたことで、奏斗の声が少しかすれていることに気がついた。ホールに飲み物は用意されているが、水は置いていない。歌った後はさっぱりとした水分が欲しくて給仕室に来たのだろう。
琴音は配膳台に並べてあったピッチャーからグラスに冷たい水を注いだ。盆に乗せ、溢さないように奏斗に差し出そうとした瞬間だった。
するりと振り袖姿の影が入ってきたかと思うと、盆からグラスを取り上げていった。
「奏斗様。お水をどうぞ」
麗華だった。
「ああ、ありがとう」
グラスを受け取った奏斗は喉を鳴らして飲む。その姿を見て、律が笑った。
「やっぱり奏斗は冷たい飲み物を取りに来たんだね。ホールはお茶ばかりだもんね。君、気が利くね」
感心した様子の律に、麗華は顎を上げて得意げに微笑んだ。
「あら。このくらい、女性の嗜みですわ」
麗華は俯き加減に顔を伏せ、上品に微笑んだ。……ように見せかけた。
麗華は、奏斗と律から口元が見えないようさりげなく手を添え、斜め後ろで盆を持ったまま立ち尽くしている琴音に向かって何事かを囁いた。
く、つ、わ、と唇が動いた。
琴音はあっと小さく息をのんだ。
誰もいないからと油断して猿轡を外したままだった。
慌てて猿轡をはめると、それに気づいた奏斗と律が不思議そうな顔をした。途端に琴音は己の姿が恥ずかしくなって背を向けた。
二人が何か言いたそうに口を開きかけたのを見た麗華は、素早く足を後ろに蹴り上げた。
「うっ!」
「あらあ。どうなさったの?」
麗華がいつもより高い声で琴音の顔を覗き込む。そして心配する振りをして琴音の耳元に口を寄せた。
「邪魔よ。出ていきなさい」
琴音にしか聞こえない低い声だった。
麗華の言葉は絶対だ。逆らうことはできない。
琴音は足の痛みに耐えつつ、三人の横をすり抜けて給仕室を後にした。
「おい、どこへ行く!」
廊下に出る瞬間、奏斗の呼び止める声がした。
振り返ると麗華が奏斗の腕に手を添えて上目遣いに見上げていた。
「奏斗様。もっとお飲み物はいかが?」
華やかな二人はお似合いに見えた。琴音は踵を返して廊下に飛び出した。
「待て! 待ってくれ!」
奏斗の声が追ってきたが、琴音は見つかる前に裏庭へと出ていった。
出てきたばかりの勝手口の戸を後ろ手に閉める。廊下を走る足音が通り過ぎていくと、琴音は戸のそばを離れ、目を閉じた。
邪魔をするなと言った麗華の声が耳に残っている。
麗華もほかの女性たちと同じように奏斗とお近づきになりたいのだろう。あの歌声を耳にした今なら、その気持ちはよくわかる。
だが、言われなくても邪魔などしない。できるわけもない。分はわきまえている。
裏庭は無人だった。庭木の葉擦れの音や鳥の声に混じってホールのざわめきがかすかに聞こえるだけだ。
耳の奥にはまだ奏斗の歌声が響いている。目を閉じれば、しなやかに流れる金の糸が見える。
「あんな素敵な歌声の方がいるなんて」
胸の奥が沁みるように痛む。初めての痛みだった。この痛みさえも我が身に刻まれていることが嬉しかった。
痛みはじんわりと温かくなって全身に広がっていく。身体の内に春が訪れたようだ。
見つめ合ったあのひと時はきっとなにかの間違いだ。きっともう会うこともない。
それでもいいとも思った。一瞬でもあの人の瞳に映ったのだと思うと嬉しくも恥ずかしくて耳まで熱くなる。
「奏斗様……」
初めて呼んでみた名は、口の中で甘くとろけた。
「琴音」
名を呼ばれて弾かれるように振り向くと、陽一郎が立っていた。
「陽一郎さん……」
従兄弟の姿を認めた瞬間に落胆した。そんな自分に内心で苦笑する。
わたしったら、なにを期待していたの? 奏斗様が追ってきてくれたとでも? そんなことあるわけないのに。
「大丈夫かい? 今、君の様子を見に給仕室へ行ったら、どこかへ出ていったと聞いて。洗い物もしないで無責任だとか言っていたが、また麗華になにかされたのだろう?」
「どうして……」
「だって、琴音が理由もなく仕事を放り出すはずがないじゃないか」
周囲の人から邪険に扱われる中で、三つ歳上のこの従兄弟だけが琴音を信じてくれるし、気遣ってくれる。だけどそれも人目がない時だけだ。それでも琴音にとってはありがたい存在だった。
「なんでもないんです。みなさんがお話をされているので席を外しただけです」
陽一郎は深い溜息をついた。
「まったく君はどうして――」
言葉を切った陽一郎はいきなり琴音の手を取った。驚いて引っ込めようとした琴音の小さく痩せた手は、大きな厚みのある両手に包まれていてびくともしない。
「あ、あの、陽一郎さん。手を」
離してくださいと言いたかったのに、逆に強く握られてしまう。
「えっと、そうではなくて、」
「琴音」
言いかけた言葉は陽一郎のひどく真剣な声に遮られた。
「……はい」
「嫁にならないか?」
「え? どなたが? どなたの?」
「琴音が、僕の」
陽一郎は軽口を叩く人柄ではない。表情や声、そしてしっとりと汗ばんだ手のひらからも真剣な提案だということが伝わってくる。
「僕はね、琴音を好ましく思っているよ。真面目だし、努力家だ。それに小さな生き物にも優しい」
「わたしのことをそんなふうに……」
「みんなが辛く当たるのを知っていながら守ってあげられない僕では不甲斐ないだろうが」
「いえ、そんな」
たしかに守ってはもらえないが、幾度となく守ろうとしてくれている。ただ真紀子や麗華に押し切られてしまうのだ。それでも、たった一人でも自分のことを見てくれる人がいるというのは心の支えになっている。
「え、あの、でも、わたしはもう二十二ですし」
「二十歳までに嫁入りをしないといけないなんてもう古いよ。麗華だって二十歳だが、まだ決まった縁談はない」
琴音も陽一郎のことは憎からず思っている。けれども嫁ぎたいと思ったことは一度もなかった。そのような道があることを思いつきもしなかった。
「わたしはこんな身の上ですし、生涯独り身のつもりで」
「君が――琴音が、僕のことをただの従兄弟としか見ていないことはわかっている。でも、こうは考えられないだろうか。僕と一緒になれば風見家での立場もよくなる。君の母親の――琴瀬さんの素性が定かでないから、君の立場が弱いんだ。それでも琴音は内縁とはいえ本家の一人娘だ。家柄の釣り合いだって、分家の長男の僕の相手として悪くはないはずだ。僕が婿入りする形をとって本家の家督を継げばいい。そうすれば事実上の本家だ。妻である琴音のことを誰も邪険に扱えなくなる」
「でもそれでは分家の跡取りが」
「そんなの麗華が婿を取ればいいだけさ。鳥人と繋がりのある風見家に入りたい者はいくらでもいる」
父の家を継ぐ。それはとても魅力的な提案だった。
特別によい暮らしをしたいわけではない。ただ穏やかな日々を過ごしたいだけだ。たったそれだけのことなのに。
陽一郎の提案を受け入れればその願いは叶うのだ。はい、と答えるだけでいい。断る理由などないはずだ。
でも――
「驚かせてしまったかな。僕の気持ちは伝わっていると思っていたんだけど」
陽一郎は困ったような笑顔を浮かべて、繋いでいた手を離した。
「わたし、ちっとも気づかなくて……思ってもみなくて……わたしなんかを……」
「いやかい?」
「いえ、そういうわけでは」
「ならよかった。返事は今じゃなくて構わないよ。少し考えてみてくれないかな」
琴音は小さく頷いた。
陽一郎が去っても琴音はその場を動けなかった。
いつか自分にも母にとっての父のような人が現れることを夢見ていた。けれどもそれはあくまでも夢だった。夢だから叶うはずがないとも思っていた。そう思うようにしていた。
望んでも悲しくなるだけ。だから望まない。
名も知らない小鳥の番がじゃれ合いながら飛んでいく。小鳥の行方を見送り、空を見上げて眩しさに目を細めた。
――お母様。わたし、望んでもいいのかしら。
雲ひとつなく澄み渡った空に映し出されたのは、求婚してきた従兄弟ではなく、出会ったばかりの鳥人の姿だった。




