2. 運命の出会い
どうにか本家に辿り着くと、琴音は誰にも見つかる前に急いで猿轡をはめ直した。
それほど高さのある山ではないが、それでもこの辺りではもっとも高い場所のため、眺めはいい。
今はもう誰も暮らしていない本家の屋敷。海鼠壁が張り巡らされた敷地は分家の倍はある。家屋は和洋折衷の建物で、住まいの部分は瓦屋根の和風建築、客間など来賓を迎える部分は板張りの白壁に尖塔のある洋風建築だ。
音楽サロンはいつも洋館部分で催される。広いホールと談話室、そしてサンルームがある。庭にはバラが咲き誇り、甘い香りが漂う。
今ではすっかり迎賓館として扱われているが、本来なら両親と共にここで暮らしていたのかもしれないと思うと、やるせない気分になる。
父の光房が素性の定かではない母の琴瀬を娶ったからだ。琴瀬は生家も故郷も捨てたとしか言わず、風見家の親族から不審がられ、婚姻は認められなかったと聞く。
その後、光房がいなくなった経緯を琴音は知らない。物心ついたころには既に母とふたりであの湖畔の小屋で暮らしていた。
知っているのは、琴音は本家の血筋をひく最後のひとりだということ。その血筋の価値だけで、分家に置いてもらっていること。
「琴音。ひとりでこれを運んで来たのかい?」
背後からの声に、飛び上がらんばかりに驚いた。
振り向くと、洋装に眼鏡姿の青年が立っていた。
風見陽一郎。風見光正の長男にして次期当主だ。麗華の兄でもある。
「かわいそうに。猿轡をしたまま来たのかい? 誰も見ていないのだから、そんなの外してしまえばよかったのに」
琴音は無言で首を横に振った。本当は外していたなんて言えない。ましてや歌いながら来たなんて。陽一郎の優しさを裏切ったようで、胸の奥がちくりと痛んだ。
「僕が当主になったら、きっとよくしてあげるからね。それまで辛抱しておくれよ」
陽一郎は日頃から琴音を気にかけ、優しい言葉をかけてくれる。人目のない時に限られるが、それだけでも救われる。琴音はこの従兄弟の存在をありがたく感じていた。
陽一郎と二人で箏をホールに運び入れると、すでに会場は華やかに整えられていた。人も集まりつつある。スーツ姿の男性に、ドレス姿の女性。鳥人もいるはずだが、琴音には祖人と見分けがつかない。鳥姿にならなければ祖人と変わらない見た目だ。そして鳥姿になれる鳥人は多くないと聞く。
「まあ! なんてこと!」
風見真紀子が力強い歩みでこちらに向かってくる。琴音に寄り添っていた陽一郎がすっと離れた。
「お前、なんでこんなところまで入ってきているの! そんなみすぼらしい身なりで出てくるんじゃないわよ! 赤い髪も下品で場違いだわ! 風見の者には誰一人としてそんな髪色の者はいないというのに。お義兄さんの血を引いているのかどうかも怪しいもんだわ」
「母さん、琴音は僕と一緒に麗華の箏を運んできたところなのですよ」
「用が済んだならさっさと裏にお行きなさいよ。陽一郎さん、あなたもあなたよ。こんなみっともない女と一緒にいるところを見られたら、どう思われることか。もっと次期当主の自覚を持ってちょうだいな」
陽一郎は口をもごもごさせながらも反論せずに俯いた。
「なあに? 随分と騒がしいようだけれど」
声を聞きつけて麗華がやってきた。
「あら。やっとお箏が届いたのね。お兄様が運んでくださったの?」
そう言いながら箏にかけた手が止まった。
「いやだ! なにこれ! 鳥の羽がついているじゃないの! 鶏の羽ね! ひどいわ。どうして大切なお箏を琴音なんかに触らせたの? 臭いわ。こんなのもう弾けない……」
泣き崩れる麗華を真紀子と陽一郎が慰めている隙に、琴音は人の少ない廊下を通って給仕室へと逃げ込んだ。
給仕室には甘い香りが満ちていた。琴音が到着したころにはすでに紅茶や焼き菓子が用意され、フリルの付いた白いエプロン姿の女中たちがワゴンを押してホールへと運んでいくところだった。運び終えた女中たちは、そのまま壁際で控える振りをして、次々と披露される音楽を楽しむのだ。
琴音もホールで聞きたいと思うが、女中たちならば黙認されていることも琴音には許されない。けれども給仕室にひとり取り残されているため、誰の目を気にすることもなく耳を澄ませて聞き入ることはできるのが救いだ。ひとりきりの方が気楽に働けるし、取り残されるのも悪くはない。そう自分に言い聞かせて、持参した使い古しの前掛けをつけた。琴音にはほかの女中たちのようなハイカラなエプロンなどは用意されていないが、ほかの扱いに比べたら些細なことだ。
あとでホールの紅茶やお菓子が足りなくなったときのために、お代わりを用意しておく。湯を沸かし、茶葉が足りるか確かめる。焼き菓子はもう出来上がっているので、皿に盛りつけておけばいい。
ホールからは光正の挨拶の声がして、それが終わると麗華の箏の演奏が始まった。続いて、人々のざわめきと歌や楽器の調べが聞こえてきた。次々と歌や楽器が演奏されていく。
見た目では区別のつかない祖人と鳥人だが、歌や演奏は似ても似つかない。ここからでも違いが聞き分けられるほどだ。鳥人の調べは耳で音を感じるだけでなく、光を散らし、香りを漂わせる。肌に触れ、全身に染みわたる。
鳥人が一曲終えるたびに盛大な拍手と歓声が起こる。
琴音は体を動かしながら、かすかに聞こえる音楽を楽しんでいた。
一通りお茶の準備ができたころ、ホールから女性たちの嬌声が聞こえた。
「奏斗さまぁ!」
一切の社交の場に出してもらえない琴音でも知っている名だ。今朝も女中たちが楽しそうに話題にしていたばかりだ。
音楽の才に溢れた鳥人の中でも特に賞賛の声の高い天羽家。当主の天羽隼人は現役のうちからすでに伝説の鳥人と呼ばれるほどだ。その息子、天羽奏斗は歌のみならず容姿端麗で女性からの人気が凄まじいと聞く。
不定期ではあるが幾度となく催されている音楽サロン。だが、琴音は天羽奏斗の歌声を聞いたことがない。ホールで見聞きすることが許されないのはもちろんのこと、わずかな声も耳にしたことがない。こればかりは縁がないとしかいいようがない。外での用事を言いつけられていたり、嫌がらせを受けて負った傷口を離れた部屋で手当てしていたりと、ホールから離れたところにいる間に歌い終わっているのだった。
やっと耳にする機会に恵まれたようだ。琴音は期待で鼓動が早くなるのを感じた。
ふいに静寂が訪れる。
あれほど騒いでいた女性たちの声がぴたりとやんだ。離れていても、ホールの空気が澄み渡ったのがわかる。
次の瞬間。
透き通った、それでいて芯のある声が伸びやかに聞こえてきた。声に乗って一本の輝く糸が滑らかに廊下から入ってくる。
優れた音は耳に聞こえるだけでなく、目にも映るし、肌にも触れる。
輝く糸は目の前の空間を縫っていく。朝陽に煌めく蜘蛛の糸のように繊細で美しい音。やがて金の糸は本数を増やし、交差する。そして、踊るように輝く布を織り上げていく。
琴音は我知らず糸を辿り、廊下へと歩き出していた。
緩やかに波打ちながら向かってきた一本の糸が、琴音の指先にそっと巻き付いた。糸は来た道を帰っていく。琴音は糸に引かれていく。導かれるままについていく。
気づけば、ホールの扉の陰に佇んでいた。
人々の輪の中心でフリルシャツにベストを着た男性が歌い上げていた。目を閉じ、左手を胸に、右手を掲げて。艶やかな漆黒の髪。後ろ髪は長くはないが前髪は長めで、髪が目元を覆っていて表情が見えにくい。
リズムに乗って頭が動く。長い前髪が揺れる。
あらわになった目が見えた瞬間、琴音の胸の奥が跳ねた。
「なんて深い――」
深い夜のような瞳。長い睫毛。
すっと伸びた指先が踊る。全身で歌っている。その体が楽器であり、音楽そのものに見えた。歌に姿があるならば、こんな姿なのではないだろうか。
金色の織物が、するするとほどかれていく。糸が、巻き取られていく。琴音の指先の糸もするりとほどけた。放たれていた金の糸は、たちまち歌い手の口に吸い込まれていく。
最後の糸の端が消えると、再び静寂が訪れた。
しばしののち、誰かが躊躇いがちに手を叩いた。ぱらぱらと小雨のような拍手に変わり、まもなくホールの壁が震えんばかりの拍手喝采となった。
琴音は深く息を吐いた。
知らないうちに息を止めていたようだ。
人々のざわめきが戻ってきたところで、琴音は自分が場違いなところに足を踏み入れてしまったことに気がついた。洗いざらしの着物とリボン代わりの手拭いの切れ端が恥ずかしかった。
琴音はそそくさと給仕室へと戻っていった。
奏斗の歌が最後を飾る演目だったらしく、もう音楽が聞こえてくることはなかった。ホールから聞こえるのはざわめきばかりだ。
歓談の時間になったことで、ひっきりなしに給仕係の女中たちが紅茶や焼き菓子が取りに来る。受け取るとすぐさまホールへと戻っていく。地味な給仕室の仕事はみんなやりたがらないため、この場は琴音がひとりで切り盛りしていた。
用意していたものをあらかた渡し終えると、ようやく人の出入りが落ち着いた。ホールの人たちの空腹も満たされたのだろう。話し声と笑い声がかすかに聞こえてくる。こうなればあとは片づけるだけだ。
安心した琴音は深く息を吐いて、調理台に乱雑に積まれた食器類を洗い始めた。
気持ちが落ち着いたからか、天羽奏斗の歌が耳の奥から甦ってくる。あの歌が身体の奥まで染み込んでいくのを感じる。今までにも鳥人の歌や演奏を耳にすることはあったが、こんなにも心が震えたのは初めてだ。
たしか、出だしは――
洗い物をしながら歌ってみる。猿轡をしていて口は開けないから鼻歌だ。
記憶を頼りに音を辿る。滑らかに入ってくる一本の糸。目の前の空間を縫う。それから金の糸は本数を増やし、交差して、輝く布を織り上げる。
次第に楽しくなってきて、ほかにも様々な歌を歌った。鳥人が歌っていた歌、麗華が家庭教師から学んでいる歌、女中たちが口ずさんでいた歌、そして幼いころ初めて覚えた歌を歌――
「その歌……」
パリーン
背後からの声に驚いて、洗っていたティーカップが琴音の手から滑り落ちた。
いつの間にか猿轡が外れて首元にある。琴音は知らぬ間に自分が鼻歌だけでなく高らかに歌い上げていたことに気づき、青ざめた。
「も、申し訳ございません!」
叱られる!と思い、振り向きざまに頭を下げたが、給仕室の入口に佇んでいる人は一言も発することはなかった。
不安になった琴音は恐る恐る視線を上げていく。身に着けているものが目に入る。革靴、フリルシャツにベスト、漆黒の髪。
思わず息を飲んだ。その姿を見間違えるはずなどなかった。
天羽奏斗。その人だった。
瞳が光の加減できらりと輝いた。
そして、その目が細められ、あの金色の声が発せられた。
「貴女こそ俺の――」




